閑話 ことぶき荘の座敷童
深夜2時。飲み屋街の喧騒が引き、店主たちが片付けを終えて互いの店を行き来する「同業者たちの時間」。
赤提灯が揺れる路地裏の角にある老舗の焼き鳥屋『鳥平』。そのカウンターには、近所の居酒屋やスナックの店主たちが三人、疲れを癒すように集まっていました。
「……なぁ、お前さんのところにも来たか?あの『がま口』の兄ちゃん」
口を開いたのはおでん屋の親父、源さんです。彼はまだ仕事終わりの興奮が冷めない様子で、自分の太い腕をさすりながら仲間に問いかけました。
「ああ、昨日来たよ。がま口から千円札をピシッと出して、まずはビール。立ち居振る舞いが妙に落ち着いてて、若いくせに『楽隠居』みたいな空気を持ってる兄ちゃんだろ?」
隣で生ビールを煽っていたスナックのママ、玲子が応じます。彼女の店は普段、酔っ払いの愚痴が絶えない場所ですが、昨夜に限っては妙なことが起きていたのです。
「不思議なんだよ。あの子がカウンターの端っこに座ってニコニコしながら水割りを飲んでるだけでさ……。いつもは喧嘩寸前まで毒を吐き散らす常連のハゲ親父たちが、なぜか昨日は『お互い苦労してるよな』なんて肩を組み合って笑ってんの」
「うちもだ」
焼き鳥屋の主人、鉄次が短く応じました。彼は愛用の包丁を磨きながら、どこか遠くを見るような目で続けます。
「昨日、俺はギックリ腰寸前で店を閉めようかと思ってたんだ。だが、あの兄ちゃんが『いい匂いですな』って声をかけてくれた瞬間、腰の重みがスッと消えた。それどころか20年前の修行から戻ったばかりの活力が全身に漲ってきてよ……。気がついたら今までで一番旨い串が焼けてたんだ」
三人は顔を見合わせ言葉を失いました。
一軒なら偶然、二軒なら奇跡。しかし、この界隈の店主たちが口を揃えて語るその体験は「ただの客」の仕業とは思えないものでした。
「……誰が言い出したか知らないがね」
源さんが、少し声を潜めて言いました。
「界隈の若い衆の間じゃ、あの子のことをこう呼んでるらしいぜ。――『ことぶき荘の座敷童』。いや、もっと畏れ多くて縁起の良い『福の神』なんじゃないかってな」
「福の神、ねぇ……。たしかに、あの子が帰った後のレジを締めると、合わないはずの計算が『いい方』に合ってたりするのよね」
スナックの玲子ママが、煙草の煙を細く吐き出しながら呟きました。
店主たちの話は、単なる「体調が良くなった」というレベルを超え、もっと具体的な「幸運」の領域へと踏み込んでいました。
「昨日、5年来の立ち退きトラブルで揉めてた地主の爺さんがふらりと現れてね。あの子の隣に座った途端、『なんだか意固地になってるのが馬鹿らしくなったわい』なんて言って、その場で和解の握手よ。あんな奇跡、神様でもなきゃ起こせないわ」
「神様か……。あの兄ちゃん、食い方も『神がかって』旨そうなんだよな」
おでん屋の源さんが思い出したように顔を綻ばせました。
善吉の食べ方は、一口ごとにこの世の全ての幸福を噛みしめているような、あまりに深い「慈しみ」があるというのです。
「大根一切れ、厚揚げ一枚。それを口に運ぶたびに、あの子の周りだけ空気がパッと明るくなるんだ。まるで、あの子が食べることでこの街の不景気やら暗いニュースやらを全部飲み込んで、代わりに『陽の気』を吐き出してるみたいな……」
焼き鳥屋の鉄次も深く頷きました。
「そういや、こないだ警察官の連中が飲みに来てた時こんなことを言ってたぜ。最近、ことぶき荘の周辺だけひったくりや空き巣の通報がピタリと止まったってな。街灯を増やしたわけでもないのに、路地裏が妙に明るく感じて悪いことをする気が失せるんだとよ」
「座敷童っていうより、土地神様かしら。でも、あんなに若くて男前な神様がいるのかしら?」
玲子ママが冗談めかして笑うと、源さんは真面目な顔で首を振りました。
「若く見えるがあの眼だよ。……ふとした瞬間に見せる、あの慈しむような眼差し。あれは二十歳そこらの若造にできるもんじゃねぇ。何十年、何百年と人の営みを見守ってきた『誰か』の眼だ」
店主たちは、自分たちの店に現れる不思議な青年がただ者ではないことを確信していました。
正体を暴こうとは思いません。ただ、彼がまた自分の店の暖簾をくぐってくれることを、恋焦がれるように願っているのです。
「……明日も、特等席を空けておかねぇとな」
鉄次の言葉に、二人は静かに、そして深く同意しました。
彼らにとって善吉は、不景気な都会の片隅に現れた「希望の光」になりつつあったのです。
「まぁ、正体が何であれ、あの子を詮索するのは野暮ってもんよね」
玲子ママが氷の溶けたグラスを揺らしながら締めくくりました。
店主たちの間には、ある暗黙の了解が出来上がっていました。それは「あの青年が何者であっても、今まで通り『一人の客』として接する」ということ。もし彼を「神様」として祭り上げ、特別扱いしてしまえば、あの心地よい日常の風景が壊れてしまうことを彼らは本能的に察していたのです。
「ああ、そうだ。変に敬ったり拝んだりしてみろ。あの子のことだ、『これはいけませんな』なんて照れ笑いして二度と暖簾をくぐらなくなっちまう」
源さんが、優しく笑いました。
彼らが求めているのは、あの青年がカウンターの端で満足げに旨いと呟き、店の中が少しだけ温かくなる――そんな穏やかな時間そのものが、何よりの救いだったのです。
「……でもさ、一つだけ確かなことがあるよな」
焼き鳥屋の鉄次が、店先に掲げた提灯を片付けながら空を見上げました。
都会の夜空はいつも濁っていますが、最近のことぶき荘周辺の空は吸い込まれるように澄み渡っています。
「あの兄ちゃんがこの街に居着いてから、俺たちの『明日』がそう悪くないもんだって思えるようになった」
「そうね。あの子がいてくれるだけで、この界隈は『ことぶき荘』の名前にふさわしい場所になるわ」
店主たちは、それぞれ帰るために立ち上がりました。
彼らの足取りは、仕事終わりとは思えないほど軽く、心には確かな温もりが宿っていました。
その頃。
噂の当人である善吉は、ことぶき荘のベランダで夜風に吹かれていました。
神に授けられた「超感覚」は、遠くで交わされている店主たちの温かな噂話を、かすかな風の囁きとして拾っていました。
「……カカカ。座敷童に福の神、ですか。少々面映ゆいですな」
善吉は、がま口財布をポンと叩き、夜の闇に瞳を光らせました。
人々が自分を「良いもの」として受け入れてくれるのなら、それに応えるのが江戸っ子――いや、九十五年を誠実に生きた日本人の心意気というものです。
「明日もまた、街の汚れを一掃して旨い酒を頂くとしましょうか。……わしの余生を邪魔する不埒な『淀み』は一人残らず掃除して差し上げますわい」
若き姿の老守護者は静かに微笑みました。
居酒屋の店主たちが守りたいと思った「日常」は、今、世界で最も強大で、最もお節介な男によって、絶対的な守護下に置かれたのでした。




