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居酒屋放浪記

 夕暮れ時。ことぶき荘の管理人室から、パチンと小気味よい音が響きました。

 善吉が新しく購入した渋い「がま口財布」を閉じた音です。


 各地での「日雇い助っ人」と、徳川から持ち込まれた「お掃除」の報酬。それらを合わせると、善吉の懐には九十五歳の隠居生活では考えられなかったほどの現金が蓄えられていました。


「ふむ……。これだけあれば少々の冒険をしても罰は当たりますまい」


 善吉は軽快な足取りでアパートを後にしました。

 目指すは、ことぶき荘から歩いて数分。昭和の面影が色濃く残る細い路地裏の飲み屋街です。


 都会の夜は、どこか急ぎ足の人々で溢れていますが、この路地だけは時間がゆっくりと溶け出しているようでした。提灯の赤、看板のネオン、そして――何よりも善吉を惹きつけたのは「匂い」でした。


「……おや。この香りは」


 善吉は一軒の年季の入った縄暖簾の前で足を止めました。

 換気扇から漏れ出してくるのは、尖ったところのない重層的で深みのある出汁の香り。昆布の旨みと鰹の華やかさ、そして長年使い込まれたおでん鍋だけが持つ「熟成」の匂いです。


「ふむ。わしの鼻がここは間違いなかろうと『寄れ』と言っておりますな。まさに暖簾の誘惑。逆らうのは失礼というものですわい」


 善吉は、二十歳の若々しい顔に九十五歳の食い道楽が浮かべるような「ニヤリ」とした笑みを湛え、ガラリと引き戸を開けました。


「いらっしゃい」


 迎えたのは、首にタオルを巻いた年季の入った親父さん。

 店内はカウンター数席と小さなテーブルが二つ。隅々の柱は煤け、壁の品書きは茶色く変色していますが、床もカウンターもピカピカに磨き上げられています。


「ほう……いい顔をした店ですな」


 善吉はカウンターの端に腰を下ろし、慣れた手つきで「がま口」から千円札を一束、そっとカウンターの隅に置きました。


「まずは、冷たいビールと出汁の染みた大根をいただけますかな。……ああ、それから。わしの酒は、少しばかり賑やかな方が好みでしてな」


 善吉はそう言って店内に漂う「陰気」――客たちの疲れや、忙しさによる殺気――を、そっと黄金の瞳で眺めました。


 最強の管理人の「お節介」な夜が、幕を開けました。



「はいよ、お待たせ。ビールと大根だ」


 親父さんが差し出したのは、無骨な厚手のジョッキと立ち上る湯気の向こうで飴色に輝く円柱形の大根でした。


 善吉はまず、冷えたジョッキを右手に取りました。

 九十五歳の頃には「心臓に障りますから」と、ぬるい白湯ばかりを勧められていた彼にとって、この結露したガラスの冷たさが若返った肉体への祝福のように感じられます。


「……頂きます」


 グイ、と一気に煽りました。

 キンキンに冷えた黄金の液体が、二十歳の喉を刺激し、火照った食道を通って胃へと駆け落ちていきます。ホップの爽やかな苦味と炭酸が弾ける暴力的なまでの爽快感。


「くぅぅぅ……ッ!これです、これですわい!」


 思わず漏れた感嘆の声。細胞の一つ一つが歓喜の叫びを上げ、五臓六腑が「もっとよこせ」と脈動する。アルコールの心地よい痺れが脳に届く前に善吉は箸を手に取りました。


 狙うは、おでん鍋の深淵から引き揚げられた大根です。

 箸を差し入れた瞬間、何の抵抗もなく、まるで柔らかな淡雪に触れたかのように大根が二つに割れました。中心まで等しく琥珀色に染まった断面から、閉じ込められていた出汁の香りが一気に爆発します。


 ハフハフと熱を逃がしながら大きな塊を一口。


「――っ!」


 噛む必要さえありませんでした。

 舌の上で、大根の繊維がハラリとほどけると同時に溢れ出したのは鰹と昆布の濃厚な旨味。そこに練り物の甘みと大根特有の淡い苦味が複雑に絡み合い、鼻から抜ける出汁の香りが魂を揺さぶります。


(この大根一本に、どれほどの時間が、どれほどの『手業』が詰め込まれているのか)


 九十五年の人生経験があるからこそ、その深みが分かります。

 そして二十歳の肉体があるからこそ、その熱さと旨さを真っ向から受け止められる。


 熱い大根を冷たいビールで追いかける。

 熱と冷、苦味と旨味。

 その完璧な循環のなかで、善吉は「この世界に連れてこられた意味」を、神の言葉よりも雄弁な確信として噛みしめていました。


「親父さん、これは『毒《旨い》』ですな。あまりに旨すぎて魂が抜けてしまいそうですわい」


 善吉は相好を崩し、再びジョッキを傾けました。

 一日の疲れも、次元を超えた不安も、すべてはこの一切れの大根が運んでくる至福の中に溶けて消えていくのでした。


 大根の旨味に浸っていた善吉でしたが、ふと隣の席から漏れる、重く、湿った溜息に意識が向きました。


 そこにいたのは、ネクタイを緩める気力すら失った痩せたサラリーマンでした。

 彼の目の前には、手付かずの「冷ややっこ」が一つ。純白の豆腐の上には刻み葱とおかかが申し訳程度に乗っていますが、醤油の瓶を手に取ろうとしません。


「……うぅ。せっかくの晩酌なのに、胃が焼けるようだ……」


 男は眉間に深い溝を刻み、震える手で胸元をさすっていました。カバンから胃薬の銀色のシートを取り出そうとしますが、指先が覚束ず、薬が床に落ちそうになります。


 善吉は、ビールジョッキを傾けたまま黄金の瞳で隣の「淀み」を観察しました。


(……ほう。これは単なる飲み過ぎではありませんな。過度な緊張と積み重なった心労。内臓が悲鳴を上げ、生命の火がくすぶっておりますわい)


 九十五歳の善吉にとって、必死に働く若者の苦悶は見て見ぬふりをするには忍びないものでした。


「お若いの。せっかくの冷奴が泣いておりますぞ」


 善吉は、孫に話しかけるような柔和な声で語りかけました。


 サラリーマンは青白い顔で力なく笑いました。

「……え?ああ、お気遣いいただきありがとうございます。さっきからどうにも胃が重くて。最近、接待やら残業やらで、思ってた以上に疲れているみたいです」


 目の前の冷奴には、たっぷりの薬味が美しくかかっています。しかし、彼にとってはそれさえも、今の弱った胃袋には「攻撃」に見えているようでした。


「ふむ。少しばかりわしの『お呪い』を試してみますかな。こう見えても故郷では『撫でれば治る』と重宝されたものですわい」


「はは……お呪い、ですか。それなら今の僕には薬より効くかもしれませんね」


 男が自嘲気味に目を閉じた、その瞬間。

 善吉は、ビールジョッキを持っていない左手の指先をテーブルの下でスッと男の胃のあたりに向けました。


「『癒しの微風ヒール・ブリーズ・微小出力』」


 男の背中から春の陽だまりのような温かさがスッと入り込みました。

 それは胃の粘膜を優しく撫で、蓄積した疲労物質を光の粒子に変えて霧散させていきます。男の耳には、風鈴の音のような微かな「チリン」という音が聞こえた気がしました。


「……あ、れ?」


 男が、大きく目を見開きました。

 つい先ほどまで鉛が入っているかのように重苦しかった腹部が、今はまるで空気に満たされたように軽い。それどころか慢性的な寝不足で霞んでいた視界が明るく開けています。


「どうです?少しは、やっこを美味しく頂けるようになりましたかな」


 善吉が笑いかけると、男は吸い寄せられるように箸を取りました。

 一切れの豆腐を口に運ぶ。

 大豆の濃い旨味、生姜の刺激、ネギの鮮烈な香りが、今までになく脳を叩きました。


「……旨い。……旨いです、これ!それに、今ならメニューを端から端まで食べられそうですよ!」


「カカカ!それは威勢が良い。ですが、まずはおでんの玉子あたりから始めるのが胃への礼儀というものですぞ」


 男は先ほどまでの死にそうな顔が嘘のように、活き活きとした表情で親父さんを呼びました。

 その様子を横目で眺めながら善吉は自分のビールを一口。


(陽気な顔が増えると、さらに酒の味が冴えますな)


 九十五歳の「お節介」が、一人の若者の夜を絶望から救った。

 善吉は満足げに喉を鳴らし、再び自分の大根へと向き直ったのでした。



 「親父さん、熱燗を一つ。……少しばかり、お疲れが足元に溜まっておいでですな」


 善吉は、空になったジョッキをテーブルに置き、カウンター越しに親父さんの手元へ視線を落としました。


 親父さんの額には脂汗がにじみ、包丁を握る右拳が微かに震えています。次々と入る注文。客の喧騒。立ち上るおでんの湯気が体力を削り、その瞳からは先ほどまでの「職人の火」が消えかけ、代わりにどす黒い疲労が澱のように溜まっていました。


「……ああ、兄さん。悪いね、今、手が離せねぇんだ。少し待ってな」


 親父さんの声は枯れ、言葉に力がありません。一瞬、包丁を落としそうになったのを見て、善吉は静かに左手をカウンターの下へ潜り込ませました。


(救世の奇跡を、この親父さんの筋肉に。骨の軋みを消し、血管に若さを、神経に研ぎ澄まされた集中力を――)


 本来なら瀕死の重傷を負った騎士団を瞬時に戦線復帰させるための魔法『活力の律動バイタル・エコー』を、針の穴を通すような精密さで展開しました。


「『再起の微光リフレッシュ・タッチ』」


 目に見えないほど細い光の糸がカウンターの床を這い、親父さんの長靴を伝って全身へと駆け上がりました。


「……っ!?」


 親父さんの肩がビクンと跳ねました。

 その瞬間、彼の全身を支配していた「鉛のような重だるさ」が滝に打たれたかのように洗い流されました。五十代の肉体が、まるで二十年前の、店を始めたばかりの頃の漲るような覇気を取り戻していく。


「なんだ……?腕が、軽いぞ。腰の痛みも消えた?」


 親父さんの瞳に鋭い光が戻りました。


「よっしゃあ!おまたせ!焼き鳥も一気に行くぜっ!」


 そこからは「神速」の仕事ぶりでした。

 リズム良くまな板を叩く音。炭火の上で踊る串。注文を完璧に捌きながら客の一人一人に威勢の良い声をかける。

 死にかけていた居酒屋の厨房が、善吉の一突きで、まるで生命体のように躍動し始めたのです。


「カカカ!見事な手際ですな親父さん!この店はこうでなくてはいけません」


 善吉は、親父さんが鼻歌まじりに差し出した新しい徳利を受け取り、嬉しそうに目を細めました。


「お兄さん、なんだか分からねぇが……今なら朝までだって働けそうだ。こいつぁ俺からのサービスだ。食ってくれ!」


 差し出されたのは親父さんの「気合」が籠もった、外はカリッと中はジューシーな厚揚げの炭火焼き。


「有り難く頂戴しますわい」


 善吉は熱々の厚揚げを頬張り、再び酒を煽りました。

 親父さんの元気な声が響く店内で、善吉は「魔法の本当の使い道」をまた一つ見つけたような、そんな誇らしい気分で夜を過ごしたのでした。

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