巡る想い出と新しい空
「……さて、少しばかり『ご近所』を回ってくるとしましょうか」
ことぶき荘の101号室。真新しい布団を丁寧に畳み、善吉は誰に言うでもなく呟きました。
神様の手違いで、滅びゆく異世界ではなく現代日本に放り出されて2日。昨日稼いだ日銭はまだ十分にありますが、善吉にはどうしても確かめたいことがあったのです。
アパートの玄関を出て、周囲に誰もいないことを確認。
善吉は軽く膝を曲げると、重力という概念を置き去りにして真上に「跳び」ました。
高度3千メートル。
かつては飛行機の窓からしか見られなかった絶景が、今は遮るものもなく眼下に広がっています。
「ほう……これは。雲の上がこれほど静かだとは知りませんでしたな」
超人になった肉体は、酸素の薄さも氷点下の気温も物ともしません。善吉は「飛行魔法」を展開。体表を薄い空気の膜で包み込み、空気抵抗をゼロに固定します。
「全速力というのは粋ではありませんな。まずは、わしの『故郷』から……」
善吉は昔の記憶を頼りに、進路を西へと取りました。
目指すは、九十五年間の大半を過ごした、あの地方都市です。
音速を超えて空を滑ること、わずか数分。
善吉は、懐かしい山並みと海岸線が見える街の上空で速度を落としました。
「あそこです。あの神社の裏の坂を登ったところに、わしの家があったはず」
地上へと舞い降りた善吉は、二十歳の青年の足取りで坂道を登っていきました。
角を曲がれば、ひ孫たちが植えた大きな金木犀の木が見えるはず。妻と隠居生活を楽しんだ、あの小さな庭が見えるはず――。
しかし。
「――ああ、やはり」
善吉は立ち止まりました。
そこにあったのは、見覚えのある木造の平屋ではありませんでした。
代わりに建っていたのは、コンクリート造りの小洒落たアパート。表札には聞いたこともない名前がいくつも並んでいます。
善吉は災厄センサーを切り替え、かつて自分の家があった「土地の記憶」を読み取りました。
「……この土地に、国吉という男が住んでいた形跡はない、か」
次に彼は、隠ぺい魔法を駆使して街の図書館や役所を巡りました。
自分の名、妻の名、そして愛した子供たちの名。
どこを調べても、彼の知る家族の記録は一行たりとも存在しませんでした。
「ここはわしのいた地球ではない……。よく似た別の『日本』」
善吉は、街の公園のベンチに腰を下ろしました。
かつて自分が座っていたベンチと同じ形。けれど、そこから見える景色は、どこか色が違って見えました。
寂しくない、と言えば嘘になります。
ですが、善吉は深呼吸を一つすると、若々しい顔に穏やかな笑みを浮かべました。
「カカカ!何を湿っぽくなっておるか、わし!家族にはちゃんと、あのベッドの上で最後のお別れを言ったではありませんか」
看取ってくれた家族の涙。「ありがとう」という声。
あの時感じた温かな満足感は、本物だった。
ならば、この新しい世界で彼らの姿を探すのは、彼らとの思い出に対する「野暮」というものです。
「寂しさは、あのベッドに置いてきました。これからは新しい『余生』を過ごすとしましょう。まずは空腹を満たさねばなりませんな」
グゥ、と腹の虫が鳴りました。
青年期の肉体は、感傷に浸る暇もないほどにエネルギーを求めています。
「さて。せっかくここまで来たのです。この街の名産を買い込んで帰るとしましょう。土産話を聞かせる相手はおりませんが……今夜は、わし自身が一番の聞き役です」
善吉は立ち上がり、街の市場へと歩き出しました。
その背中は、もう過去を振り返る老人の哀愁はなく、二十歳の青年が持つ瑞々しい希望に満ちていました。
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自身のいた「地球」ではない。その確信を得た善吉の足取りは不思議と以前よりも軽やかでした。
未練という名の重石を外した彼が次に向かったのは、かつて一家総出で旅行した思い出の地――北海道でした。
「さて、湿っぽい確認作業はここまでです。せっかくの力、存分に『観光』と『実益』のために使いましょう」
高度1万メートル。
善吉はマッハを超える速度で北上しながら、眼下に広がる津軽海峡を眺めていました。
「前の世界」では飛行機で数時間かかった距離も、神から授かった魔法と肉体をフル活用すれば、ほんの数分の散歩に過ぎません。
やがて視界に飛び込んできたのは雄大な北の大地。
善吉は函館の港近く、活気あふれる市場から少し離れた海岸線に音もなく降り立ちました。
「やはり潮の匂いは、どこへ行っても生命の活力を感じさせますな」
善吉が向かったのは、観光客向けの華やかな市場ではなく、大型トラックがひっきりなしに出入りする物流の心臓部――漁港の荷揚げ場でした。
そこには今朝水揚げされたばかりの魚介の山、そしてそれらを捌く荒々しくも活気ある人たちの声が響いています。
「恐れ入ります。そこのお若い方、人手は足りておりますかな?」
善吉が声をかけたのは、積み上げられた冷凍コンテナを前に頭を抱えていた現場責任者でした。
「あぁん?見りゃわかんだろ、大ピンチだ!フォークリフトが動かねぇのに船は次々と入ってくる。兄ちゃん、今は相手にしてられねぇから帰んな!」
「そうでしたか。いえ、力仕事なら少々自信がありまして。これでも、一昨日は解体現場で作業、昨日は港湾で荷運びと、それなりに重宝されましたわい」
善吉はそう言うなり、大人四人がかりで運ぶような巨大な冷凍マグロの入った木箱を、まるで枕でも抱えるように軽々と持ち上げました。
「……は?」
現場責任者の男が気の抜けた声を上げます。
善吉はそのまま、羽が生えたような足取りでコンテナへと荷物を運び込み始めました。
重力制御を無意識に混ぜたその運びは、作業というよりは舞踊の域。
1個、2個、10個……。
本来ならフォークリフトで数十分かかる積み込みを、善吉はたった一人で10分と掛からず終わらせてしまいました。
「……おめぇ、どこのサイボーグだ?」
「カカカ!ただの隠居の若造ですわい。さあ、次はあっちの毛ガニの山ですな?」
作業が終わる頃には、現場の全員が、善吉を「神様のような兄ちゃん」と崇めていました。
渡された報酬は、日払いの給与3万円。それに加えて――。
「兄ちゃん、これは俺たちの気持ちだ。持ってけ!市場に出せば結構な値段するぜ!」
ビニール袋に入った、ずっしりと重い立派な毛ガニが二杯。そして獲れたてのホタテ。
善吉はそれらを「保冷に適した威力に弱めた冷気魔法」で包み込み、大切に抱えました。
「有り難い。今夜の晩酌が楽しみですわい」
感謝の言葉を残し、港を後にした善吉は再び空へと舞い上がりました。
今度は南へ。博多の明太子。広島の牡蠣。四国のうどん――。
日本各地を飛び回り、困っている現場があれば「助っ人」として荒稼ぎし、その土地の一番旨いものを手に入れる。
かつて家族と「いつかまた皆で行きたいね」と笑い合った場所を、今は善吉一人で巡っていきます。
それは寂しい一人旅ではなく、かつての家族との約束を一つずつ、新しい世界で上書きしていく清々しい儀式のようでした。
夜の帳が下りた「ことぶき荘」101号室。
四畳半の畳の上は日本の縮図と化していました。
部屋の中央には、魔法で完璧に温度管理された各地の至宝が並んでいます。
身の詰まった毛ガニ、粒の弾けるような辛子明太子、大粒で濃厚な生牡蠣、そして各地で手に入れた地酒の数々。
「カカカ!これはこれは、殿様でもこれほどの贅沢はできぬでしょうな」
善吉は、新潟の蔵元で直接買い付けた冷酒を浄化されたばかりのガラスコップに注ぎました。トクトクと響く音さえも、この静かな夜には極上の肴です。
まずは毛ガニの足を一本。
殻を剥けば、中から溢れ出すのは潮の香りと凝縮された旨味。それを一口で頬張り、すぐさま冷酒で追いかけます。
「……ふぅ。旨い。言葉にするのが勿体ないほどに」
九十五歳の頃には、これほど脂の乗ったものや塩気の強いものは家族の「愛の制約」によって遠ざけられていました。
しかし、今の善吉にあるのは、どんな贅沢も瞬時にエネルギーへと変えてしまう最強の消化器官。罪悪感の一欠片もなく、ただ純粋に食の喜びに没頭できる。それは、あの「ろくでなし自称神」から授かった能力の中でも、今の彼には最も有り難いものでした。
続いて、広島の牡蠣に橙を絞り、ツルリと喉に滑らせます。
海のミルクと称される濃厚な味わいが広がる中、善吉の脳裏には前の世界で家族と囲んだ食卓の風景が浮かんでは消えていきました。
『おじいちゃん、それ食べすぎだよ!』
『もう、お父さんはすぐお酒をおかわりするんだから』
そんな賑やかな叱咤激励は、もう聞こえません。
代わりに聞こえるのは、窓の外を走る都会の車の音と時折響くアパートの軋む音だけ。
「……寂しくない、と言えば嘘になります。ですが、不思議と心は凪いでおりますわい」
善吉は明太子を一切れ口に運び、グイッと冷酒を口にします。
あの時、死の間際に見届けた家族の顔。彼らは皆、笑っていました。
自分が愛した人々は、あの世界で生を全うした自分を送り出してくれた。その事実は、この新しい世界に来ても何ら変わることはありません。
「彼らには、十分すぎるほど愛してもらいましたからな」
善吉は満足げな笑みを浮かべ、最後の一杯を飲み干しました。
独り言をこぼす唇は、寂寥感ではなく、新しい明日への期待に緩んでいます。
「思い出を肴に呑む酒も乙ですが、これからは『新しい思い出』を肴にする日も来るのでしょう。……そうでしょう?ろくでなしの神様」
天井に向かって茶目っ気たっぷりに語りかけ、善吉は締めとして、四国のうどんを魔法で沸かした湯に潜らせました。
茹でたての麺の香りが、四畳半の部屋を優しく包み込みます。
新しい世界、新しい体、そして新しい「余生」。
最強の力を持ちながら、ただ「飯が旨かった」と笑える平穏。
善吉は、ふかふかの布団を広げながら、心底から清々しい気分で静かに灯りを消しました。




