閑話 管理人の夏休み
【神様の弾丸ツアーと黒服の「おもてなし」作戦】
巨大隕石が「黄金の塵」となって世界を救ったあの奇跡から、一年の月日が流れました。
世界各地ではあの日を忘れないための追悼式典が行われていましたが、日本という国は少しばかり変わっていました。悲しみで振り返るのではなく、「生き残った喜び」を爆発させるかのように、各地の祭りが例年以上の熱狂をもって復活していたのです。
中野にある古びたアパート「ことぶき荘」。
その管理人室で、国吉善吉は冷えた麦茶を飲みながらテレビを眺めていました。
「ふむ……。ねぶたに阿波踊り、博多山笠ですか。わしのいた世界にも似たようなものがありましたが、この世界の熱気もなかなかのものですな」
善吉は九十五歳の精神を持つ二十代。心は枯淡の域に達していますが、肉体はエネルギーに満ち溢れています。ふと彼は思い立ちました。
「たまには、わしも『観光』というものをしてみましょうか」
腰に下げた「がま口財布」が小気味よい音を立てます。善吉は押し入れから、前世の孫がプレゼントしてくれた物とそっくりな「派手なヤシの木柄のアロハシャツ」と、少し型崩れした麦わら帽子を取り出しました。それは、どこからどう見ても「ちょっと浮かれた観光客」そのものの姿でした。
善吉がことぶき荘の屋上に上がり、サンダル履きのままふわりと空に浮いたその瞬間。
東京都心にある「内閣情報調査室」の極秘センターでは、全てのモニターが真っ赤に点滅しました。
「報告!ターゲット、中野より離脱!推定速度マッハ3、北北東へ向かっています!」
「ついに動かれたか……。全エージェントに通達!本日より一週間、日本各地で『オペレーション・おもてなし』を発動せよ!」
室長が震える声でマイクに叫びます。
「接触は一切禁止!あくまで一般人に紛れ、あの方が通る道を掃き清め、あの方が食べるものを最高級の食材にすり替えろ!繰り返す、あの方に『邪魔だ』と思われたら、地球の平和はそこで終わると思え!……そして、あの方が残した物は、一片の塵も逃さず回収し、国家の至宝として保護せよ!」
青森、ねぶた祭り。
「ラッセラー!」という地響きのような掛け声の中、アロハシャツ姿の善吉は、ひょこひょこと楽しそうに跳ねていました。
「カカカ、これは見事な灯籠です。迫力が違いますな」
善吉が満足げに頷いた瞬間、ねぶたを引く男たちの腕から筋肉痛が消え、沿道で見守っていた病気がちの子供の顔色がみるみるうちに薔薇色に変わっていきました。善吉が歩く跡には、目に見えない「陽の気」が道のように残り、人々の心を癒やしていきます。
善吉はふらりと、一軒の焼きそば屋台に寄りました。
「おやじさん、一つくださいな」
「はいよ!お兄さん、いい笑顔だね。おまけしとくよ!」
店主が手渡した焼きそば。実はこれ、数分前に政府のエージェントが裏から「地元の最高級黒毛和牛」と「一本数万円の極上ソース」を差し入れ、一流シェフが変装して火加減を調整した、原価度外視の『神への供物』でした。
「おや、これは……屋台の味とは思えないほど芳醇ですな」
善吉ががま口から500円玉を払い、人混みへと消えていった直後。
無言のスーツ集団が屋台の店主を包囲しました。
「……店主。今の青年が支払った代金の500円玉を回収する。異論はないな?」
「えっ、あ、はい……?何かまずいことでも?」
「いや、逆だ。君の店は本日、この祭りの『最高殊勲店』に指定された。今日からの営業は国が全責任を持ってバックアップし、君の屋台は『復興の聖地』として永久に保護される。……これは、この国に舞い降りた幸運の欠片だ。大切にしたまえ」
「は、はひぃ!?」
店主が腰を抜かしている間に、善吉の支払った500円玉は、まるで国宝のように厳重に真空パックされ、特殊搬送車で保管庫へと運ばれていくのでした。
店主が腰を抜かしている間に、善吉の食べた後の割り箸は、まるで国宝のように厳重に真空パックされ、特殊搬送車で保管庫へと運ばれていくのでした。
◇
【中野のスパイ大作戦と管理人の帰還】
善吉が「飛行魔法」を駆使して、数時間おきに日本各地の祭りをハシゴしている間。
彼が留守にしている「ことぶき荘」の周辺では、もう一つの、あまりにも滑稽な「聖域防衛戦」が繰り広げられていました。
善吉が不在の今こそ、この「聖域」に最も近い場所を確保しようと、世界各国の諜報機関が中野に集結していたのです。
「……いいか。我々の任務は、この『ことぶき荘』という聖域の日常を乱すことなく、管理人が帰宅した時に『やっぱり中野が一番平和だ』と思わせることだ」
向かいの空き家を数億円で買い取った某国のチームは、必死に「日本の平凡な隣人」を演じていました。
「スミス!その回覧板の持ち方は不自然だ!もっとこう、『昨日のプロ野球の結果が気になるおじさん』の雰囲気を出せ!」
「イエス、ボス。ですが、この『ステテコ』という装備の通気性が良すぎて、諜報員としての緊張感が……」
彼らの目的は、善吉への接触ではありません。善吉が帰宅した際、少しでも「不穏だ」と感じて引っ越してしまったら、その瞬間に「奇跡の加護」が失われるからです。そのため、世界最強のスパイたちが、必死に「中野の日常」を守るためのボランティア活動に励んでいました。
ある者は早朝から公園の雑草を根こそぎ引き抜き、ある者は商店街の万引きを未然に防ぎ、またある者は、ことぶき荘の入り口に「最高級のデーツ」を『お裾分け』という体でそっと置いていく。
「ボス!ロシアの情報庁が近所のゴミ集積場で『プラスチックの分別』を完璧に行っています!なんという高度な懐柔工作だ!」
「くっ……負けるな!我々は明日の資源ゴミの日に、雑誌を角まで完璧に揃えて紐で縛って出すぞ!」
中野の路地裏で、ゴミ出しの美しさを競い合う各国のエリートたち。そんな狂騒を、202号室の佐藤さんは「最近の若い人は随分と丁寧で助かるわねぇ」と、のんきに眺めているのでした。
一週間後。日本各地で「うっかり奇跡」を振りまき、各地の政府に『聖遺物』を献上させた善吉が、夜の中野に帰ってきました。
アロハシャツの裾を夜風になびかせ、善吉は満足げにアパートの門をくぐりました。
「ふむ、やはり我が家が一番落ち着きますな。掃除も一段と行き届いているようですし」
門の横には、世界各国のスパイたちが必死に置いていった「貢ぎ物」が山のように積まれていましたが、善吉はそれを「おや、また落とし物ですか。明日の朝、徳川の旦那に相談しましょう」と、一顧だにせず通り過ぎました。
管理人室に戻り、使い慣れたちゃぶ台にがま口財布を置くと、善吉は一杯の麦茶を淹れました。
「カカカ、祭りの後の静けさというのも、これまた格別。……さて明日は少し雲行きが怪しい予報。今のうちに物置の整理でもしておきましょうかね」
善吉のその小さな独り言は、壁に仕掛けられた超高性能マイクを通じて全世界の諜報機関へと共有されました。
「明日は物置の整理だ!世界中の最高級収納グッズと特製の防錆スプレーを今すぐ手配しろ!あの方が指一本汚さないよう空気清浄機をフル稼働させろ!」
最強の管理人が、ただ「明日も普通に過ごそう」と思うだけで、世界にまた一年の平和が約束される。善吉はそんな喧騒など露知らず、ふかふかの布団に潜り込みました。
「……やはり中野の夜は静かでいいですな」
窓の外では、黒いスーツを纏った世界各国のエリートたちが、深夜の道路を音を立てずに、それはもう丁寧に一つの塵も残さぬよう清掃しています。
最強の管理人が夏休みを満喫し、再びいつもの日常に戻るまでの間。
この世界は、少しだけ……いや、かなり方向性を間違えてしまった「必死な善意」によって、今日もまた奇妙なほど穏やかに幕を閉じるのでした。




