閑話 神無月の青空
【令和四年の新・昭和物語】
『十月の朝、箒の音』
二〇二二年、十月。
あの日――世界が「赤黒い死神」に飲み込まれかけ、そして一瞬にして「黄金の塵」に救われた六月のあの日から、四か月が経過した。
東京都中野区。
商店街に近い住宅街の朝は、かつてのような「刺々しい喧騒」ではなく、リズムの良い「サッ、サッ」という竹箒の音で始まった。
かつてなら、誰もがスマートフォンを片手に、眉間に皺を寄せて駅へと急いでいた時間帯だ。歩きスマホで肩がぶつかれば舌打ちが飛び、ベビーカーは邪魔者扱いされ、世界は効率という名の細い糸でギリギリに繋がっていた。
だが、今の光景はどうだろう。
「おはようございます、佐藤さん。今日も見事な掃きっぷりだ」
「ああ、田中さん。おはよう。昨夜の雨で少し葉が落ちてね。ついでに隣の溝もさらっておいたよ」
どこにでもいる会社員の田中が、出勤途中に立ち止まって隣家の主人と挨拶を交わす。かつては十年住んでも名前すら知らなかった隣人同士だ。それが今では、どちらが先に自分の家の前だけでなく「公道」まで掃き清めるか、無言の、しかし温かな競争が繰り広げられている。
街中の空気が、驚くほど澄んでいる。それは黄金の塵がもたらした科学的な浄化だけではない。日本人の心の中から「他者への無関心」という埃が、あの日を境に綺麗さっぱり払い落とされてしまったからだった。
◇
『商店街のお節介』
商店街の入り口にある「八百屋の源さん」の店先では、かつての昭和を彷彿とさせる光景が日常となっていた。
「おい、そこのお姉ちゃん!そんな悲しそうな顔して歩くな。ほら、この小松菜持っていきな。今朝入ったばっかりの最高に『清らかな』やつだ」
「えっ、でも……」
「いいから!料理して食べて、お掃除して、寝る!それが一番の薬だよ。代金は……そうだな、次通りかかった時に笑って見せてくれればいい」
六月以前なら、不審者扱いされるか、SNSで「強引な接客」と叩かれたかもしれない。だが今は違う。若者は、その小松菜を抱きしめるように受け取り、「ありがとうございます」と深く頭を下げた。
人々は気づき始めていた。
あの日、自分たちは一度死んだのだ。
一週間、絶望の中で略奪し、叫び、醜態をさらした。その「汚れ」を、天から降った黄金の粉末と、どこからか聞こえてきた「パァン!」という小気味よい音が、すべて赦し、洗い流してくれた。
生き残った恥ずかしさと、生かされた喜び。
それが、日本人の気質を「昭和のあのころのような、かつて誰もが知っていたはずの体温」へと回帰させ、少しお節介で、けれどたまらなく温かい人情が、街のあちこちで再び芽吹き始めていた。
昼下がり、公園のベンチでは、見知らぬ高齢者と大学生が並んで座りパックの緑茶を分け合っている。
「おじいちゃん、あの六月の日何してた?」
「わしか?わしはな、近所のボロアパートに住む若者が、屋上で一生懸命布団を叩いてるのを見てたよ。なんだかそれを見てたら安心しちゃってな……」
「……不思議だね。僕もあの日以来、部屋の掃除をしないと気が済まないんだ」
若者たちは、最新のゲームや派手な遊びよりも、「どれだけ丁寧に米を研げるか」「どれだけ廊下をピカピカに磨けるか」ということに、静かな至福を感じるようになっていた。
◆
『消えた境界線』
夕暮れ。中野の居酒屋「だるま」の暖簾をくぐると、そこにはかつての「孤食」の姿はなかった。
「おっ、お隣さん、いい飲みっぷりだね。これ、うちの田舎から送ってきた枝豆。食べてよ」
「すみませんねぇ、じゃあ私のこの唐揚げも一つどうですか」
カウンターに並ぶのは、建設作業員、IT企業のOL、役所の職員。以前なら決して交わることのなかった層が、一つの鍋を囲むように笑い合っている。
かつての日本を覆っていた「プライバシー」という名の厚い壁は、黄金の塵が溶け込んだ雨によって、程よくもろくなっていた。
それは無遠慮な侵入ではない。誰かが困っていれば当然のように手を貸し、悲しんでいる者がいれば「まずは茶でも飲め」と背中を叩く。令和のテクノロジーと、昭和の情愛が、奇跡的なバランスで融合していた。
「……ねえ、マスター。最近は泥棒とか喧嘩とか全然聞かないね」
「ああ。警察官が暇すぎて署の周りの草むしりばっかりしてるって話だ。なんでも、悪いことをしようとすると急に『掃除がしたくなって』手が止まるらしいぜ」
笑い声が店内に響く。
それは、四か月前まで「世界が終わる」と絶望し、互いを呪い合っていた人々とは思えないほど穏やかで輝かしい笑顔だった。
◇
『ことぶき荘の夕焼け』
そんな街の喧騒から少し離れた「ことぶき荘」。
築年数の古さは隠せないが、その建物は、まるで神殿のような神々しいまでの清潔さを保っていた。
夕焼けに染まる屋上。
善吉は、取り込んだばかりのふかふかの布団を腕に抱え、空を見上げていた。
「ふむ。皆さんの挨拶が一段と良くなってきましたな。わしが何もしなくても街が勝手に綺麗になっていく……隠居の身としてはこれほど楽なことはありませんわい」
善吉が廊下を歩けば、どこからともなく「お醤油、余ってませんか?」「小松菜のお裾分けです」と住民が顔を出す。彼はそれを「かたじけない」と笑って受け取り、がま口財布を懐に、今夜の晩酌へと向かう。
街ですれ違う人々は彼が「宇宙のゴミ」を叩き落とした張本人だとは知らない。
だが、彼とすれ違う瞬間、誰もがふと足を止め、自分の心がふわりと軽くなるのを感じる。そして、なぜか無性に、帰って家族に優しくしたい、あるいは近所の路地を少しだけ掃除したい、という温かな衝動に駆られるのだ。
二〇二二年、十月。
日本は、世界で最も「不器用で、世話焼きで、そして清潔な」国になった。
かつての昭和が持っていた、泥臭くも眩しいあの「人情」が、令和の空の下、最強の管理人の魔法によって、永遠に色褪せない日常へと書き換えられていた。
夜の帳が下りる頃、各家庭の窓からは、美味しそうな味噌汁の香りと家族の笑い声が漏れてくる。
最強の管理人は、その音を聞きながら小さな居酒屋でコップ酒を傾ける。
「……さあて、明日はさらに絶好の『お掃除日和』になりそうですな」
日本中の誰もが同じ予感を抱きながら穏やかな眠りにつくのでした。
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レトロ感を出すために漢数字表記にしました。
昭和風を出すためにOL表記にしました。
昭和感を出すためのOL表記になりました。
レトロ感を出すために漢数字表記にしました。




