15.未来に繋がれ
例年に比べると一ヶ月半くらい早くシャーヤランの春の長雨が到来した。こんなに早いのは十数年ぶりで異例らしい。
朝の報道をボーッと見ていたけれど、もう一杯スープを飲もうと立ち上……がれず、左足首に走った痛みに顔を顰める。
「イッ! あー……」
左足首を痛めていることを忘れていた。いや完全に忘れていたわけじゃないけれど、ふとしたときにやらかしてしまう。
痛みをやり過ごしてから左足首に力をかけないように、椅子とテーブルを支えに右足だけでシンクまでぴょんぴょんと移動。補助用の杖も貸し出されているけれど、台所をちょっと移動して回るだけなら右足だけでどうにかなる。
昨日、山小屋の裏手に行く道のりで左足首をグニッと捻ってしまった。土が部分的に抉れていて、そこを草が覆っていたので抉れに気が付かず、運悪く左足が傾いて嵌ってバランスを崩し、転倒は避けたものの足首を思いっきり痛めてしまった。一緒に歩いていたシード先輩がすかさず動かすなと言ってタオルなどで足首を簡易固定してくれて、抱えられて山小屋へ。そして車で管理所の医務室に連れて行ってもらえて、中度の捻挫で全治四週間から六週間。なかなか重めだった。
捻挫は動かさないのが一番治りが早い。
頭ではわかっているものの、ふとした日常の行動でさっきのようにやらかしてしまう。
診察してくれた医師は三日間は絶対安静と言われたが、筋肉の研究をしているシード先輩は五日間は動かすなと言われ、すぐにリーダーに報告された。
妖獣世話班業務は動き回るものが多い。この足では無理がある。治るまで休職か、動かなくてもできる別の業務があるかなどの業務調整をしてくれた。
通常業務ですら忙しいのに、数日前に私が妄想を爆発させて仮説を立てたことを検証するプロジェクトも動き出した矢先に本当に申し訳ない。
「言い出しっぺなのに」
二杯目のスープをテーブルに置き、椅子に戻ってペタリと片頬をテーブルにつけた。
わかりやすく落ち込んでしまう。
テーブルに置いてあった情報端末をスープカップに立てかけて画面を眺める。画面を切り替え管理所の全体共有事項を眺めれば、一昨日から研究部門発信の管理所職員及び職員家族への協力依頼が一番上に表示されていた。
『管理所敷地内における植物(草)の採集協力依頼』
通常業務外での協力要請で、臨時報酬が出る内容だ。陣頭指揮は研究部門の部長さん。現場指揮はニット先輩。補佐にナタリオさんとベリア大先輩。
とくにニット先輩が燃えている。
妖獣世話班のメンバーは、シード先輩以外は森林生物学という大きな分野にいて、それぞれ細分化した先で研究テーマを持っている。
リーダーとニット先輩は森林保全という壮大な研究テーマのチームに所属していて、リーダーは別個に個人研究テーマも持っているが、ニット先輩は個人テーマを決めきれずチーム研究に尽力してきた。
私の仮説を全力で助けてくれたニット先輩。数日前の発表後、私の仮説検証はニット先輩に譲渡となっている。
「苔に繋がるといいな」
私が立てた仮説の根幹は、『G−I』は言葉通り『未知のガス』の意味ではないのか? から始まるものだ。
私は研究者になってまだ新人も新人。
知らないことは山ほどあって専門用語がわからなくて調べるのは日常茶飯時。
『G−I』もわからなかった。だから調べた。
『G−I』を直訳すると『未知のガス』。なのに『その他』や『分析割合誤差』の意味で使われている。
未知の意味はどこに消えたのか?
頭の中が疑問符に埋め尽くされた。
当初はそういう意味で使われていたわけではないのに、時が言葉の意味を変えていくことがある。
過去に調査文献を読み漁っていた際、とある用語名称を変更する旨を記した文献があったことを思い出した。そのときのものは同じ意味の用語が複数あり過ぎるのを統一しようというものだったが、使われなくなる用語の中に全然違う意味のものが紛れていて、「なぜそれまでおかしいと思わなかったんだろう」と不思議に感じた記憶が蘇ってきたのだ。
『G−I』も最初は未知という意味だったのではないだろうか?
それが略して書かれていくうちにIncognの未知という意味が消えてしまい、いつの頃からか雑多を意味する『VAR』と混在して使われるようになったか、うっかりの使用間違いがそのまま定着してしまった可能性もある。
こうして調べていくうちに、私は『G−I』を言葉通りの『未知のガス』として仮説を立てた。
そして、謎茶の材料の分析で『G−I』の結果があった草たちを改めて調べた。
苔は得意分野でも樹木や草となると一から調べないとわからないことばかり。情報端末で植物図鑑にアクセスして、一つ一つ見ていった。そうしたら、たまたまなのか、偶然なのか、いいや、私の仮説を後押ししてくれる情報だと思った。
『G−I』の結果が出ていた草たちには共通することがあったのだ。
「これらの草はそれぞれ植物階級の科は違いますが、すべて『元魔草属』になります。元魔草属は魔草からの突然変異または進化とされていますが、魔草と思われていたのに魔素の検出ができないことから元魔草属が作られ、独立した分岐にある植物たちです。過去のすべてを調べたわけではないので一部からの推測ですが、『G−I』は植物階級に元魔草属ができた頃から使われ始めた用語のようです。魔草と思われていたが魔素が検出できない。分析結果の個別データを加算すると総計に合わず残ってしまう謎の数字。それを『G−I』と記した。今その分析を読み解くと『誤差』と説明されますが、本当にそうなのでしょうか? インコグニタという言葉は未知です。もともとはその言葉の通り『未知のガス』だった可能性はないでしょうか? 数は少ないですが、『G−I』と『VAR』の両方が記されている分析結果もありました。この場合、『G−I』は分析不可能な『雑多』に含まれず、独立して『未知のガス』という意味に見えます。実は言葉の通りの意味ではなかったのでしょうか?」
研究部門臨時報告会を招集してもらって、私は熱弁を振るった。
実際のところ根拠はない。すべて推論だ。だけど聞いてくれた全員、私の仮説を即座に否定する情報を持ってもいない。反論も出ず、しばらく沈黙が流れた。
配布した資料を読んで考える人。
私の言ったことを考えている人。
会議室には数十人いるのに横たわる沈黙は重かったけれど、私は待った。
沈黙を破ったのはベリア大先輩だった。
「リリカの仮説を推すよ。略語の意味を間違って使っていた可能性はあるかもね。それでふと思い出したが、最近の分析では見かけないが『不明』だったらIncertoが使われるよね。本当に不明という場合のインチェルトは略して書かないだろう? 不明のIncertoと記さず、Incognと書き分けたってことは『G−I』と書く意味があるんじゃないか?」
「ああ、俺もそう思って発表前にリリカから聞いて調べたんだが、『G−I』は大気分析の結果にしか使われていない用語だった。Incertoは登録がなかった。別室にあった水質検査機器には『G−I』はなく、Incertoだった。調べる対象が大気のときのみIncognが使われていることをすっかり忘れて、Incertoと混同した可能性は十分あると思う。リリカの仮説の続きにある魔素または魔素毒が別のガスに変化している可能性も、過去の文献に似たようなものがあったが事実上葬り去られているような扱いだった。ぜひ森林保全研究チームとしても詳細に調べたい」
ベリア大先輩に続いて私の仮説を推してくれたのはリーダーだ。真剣な表情でリーダーも熱弁を振るった。
リーダーとニット先輩が所属する森林保全研究チームとしても、魔素と魔素毒が植物から消滅する事象は積年の謎。私が偶然かもしれないと言い出した『元魔草属』をきっかけに調べられるならアリだと言ってくれた。
二人の発言を皮切りに、魔素と魔素毒についてわかると自分の研究も変わると推してくれる研究職員さんと、この仮説は飛躍し過ぎではないかという声がぶつかり合い、その傍らで分析室メンバーは分析用語の歴史を紐解こうとして混沌とした場に陥った。
あまりの混沌さに部長さんが場を諌めて、まず分析室に指示を出した。
分析結果に用いる用語が発端なのに分析メンバーは即答できなかった。正直悔しいということで分析室のメンバーが私の仮説を持ち帰り、これまでの様々な分析結果を出して照らし合わせ、管理所上層部に議題として出すことになった。
数日かかるかと思いきや、翌日には管理所上層部へ議題が提出され、上層部検討会も喧々諤々だったそうだが、『G−I』調査プロジェクトとして大きな予算が確保された。
プロジェクト始動の時点で現場指揮をニット先輩に譲渡した。
私は苔はわかるけれど、草などの一般植物となると名前を言われても調べるところからとなってしまう。それならば草のことを浅くでも広く知る人が適任だと思ったのだ。そこで森林保全研究チームに委ねたいと申し出たら、ニット先輩が立候補してくれた。
補佐に菜園班のナタリオさんが入ったのは、元魔草属の植物を採集して回るだけでは足りないので、育てて増やさねばならず、畑との線引き調整で入ってもらったという。
ベリア大先輩はそろそろ職員を引退する歳でもあり、率いてきた美容液などの研究はチームの人たちで回っている。美容液剤作りで様々な植物に接してきた経験が豊富なので、ニット先輩の補佐というか顧問的な役目でいてくれることになった。とても心強かった。
そして部長さんは王都の学院のチャルデン教授に相談できる機会を作ってくれた。
過去のレポートを見返していて、私の苔部屋の大気分析にある『G−I』と、教授の苔生育室の大気分析にある『VAR』の差は何なのか疑問になった、という建付けで。
部長さんに言われ、なぜ今までそこに気が付かなかったのかと悔しくなった。
そして教授との話し合いのなかで、管理所では他の分析でも『G−I』が結果に出ているものがあり、これは何なのか議論になっていることも共有された。
発光苔に限定できないが、大気と植物との関係がありそうなので調べることになったと。
スライムのことが言えない制約に掠りもせず、私の突飛な仮説を教授にも伝えることができた。
部長さん、本当にありがとうございます!
私の突飛な仮説をじっくり聞いてくれた教授は、画面の向こうで感極まっていた。
「……リリカ……! よく気づいた!」
私の仮説を聞いた教授は『G−I』と『VAR』は分析機器の違いで記載が違うだけで同じ意味だと思いこんでいたと言う。
「私はこの用語の違いを『分類できない不明なもの』という意味で同じだと認識していたのだな。いつの間にか見慣れて、疑問すら覚えなくなっていた。研究者になったばかりのリリカだから、なぜ違うのか? と気づけたんだ」
教授はそう言ってくれたけれど、きっかけはスライムだ。スライムの謎行動があったから、何かあるとしつこく見返した結果だったと思う。
同席した部長さんも関係しそうな学会に声をかけて、同様の分析調査をしてくれる先はないか、または研究資金援助なりで協力してくれる先はないか声がけしていくので力を貸してほしいと話した。
魔素と魔素毒に関しては植物学だけでなく、大気学や医学の分野でも解明できればとなっている謎なので、研究協力要請に答えてくれる先は多そうだ。学会によっては国外にも及ぶ。そうした調整は部長さんが担ってくれることになった。そんなことを部長さんと教授が話し合い、教授も王都でも動くと言ってくれて、元魔草属の草のリストも共有した。
私の手を離れた仮説は『G−I』調査プロジェクトとして動き出し、プロジェクトリーダーとなったニット先輩は物凄く忙しく、けれどとても楽しそうにしている。
私は粛々と妖獣世話班の業務をこなしつつ、ゴードンとヘンリーと一緒に甘ダレ団子作りをしたり、ゴードンとヘンリーが揃ってしつこく強請る王様マントをどうしようかマドリーナと相談したり、かなり久しぶりにチビを下の街に連れ出して道行く人に囲まれそうになって助けられたり、チビ大好き商会長さんにチビと会える機会を設けたら涙ぐまれたりしながら、いつも通りの日々に戻ったのだが、ニット先輩から元魔草属の草畑を作る依頼があってシード先輩と山小屋裏手に準備しようとなり、そして足首を痛めたのが昨日のこと。
テーブルに片頬をペタリとくっつけた姿勢でいたら、「変な格好しとる~」と、台所のシンク前の小さい窓を勝手に開けて入ってきたのはフェフェだった。
「アロンソとメイリンが、リリカが無理しとらんかと心配しとったぞ。無理して歩いてないな?」
「私、信用ないね」
「ないな。アロンソの次にない」
それは相当ないことになる。
フェフェはアハハと笑い、テーブルの上に座った。
「アロンソがやっと諦めた!」
「思ったより長かったね」
「本当にしつこかった!」
私の仮説を聞いてくれたときから、リーダーはフェフェに魔草、魔素、魔素毒のことで知っていることはないかと質問攻めになり、フェフェは山小屋やチビの塒に避難してくるようになった。
妖獣は人より長く生き、その中で知ったことをよく覚えている。
けれど、妖獣は人が知らないことまで知っているわけではない。
「アロンソめ、何度地下深く埋めてしまおうかと思ったか」
「死んじゃうからやめてね」
普段はフリーダム過ぎるところまで気が合うリーダーとフェフェだけど、今回ばかりはフェフェが辟易するほどの質問攻めで、何日か前にキレてオパールとフクロウたちのいるところまで家出したほど。
フクロウ一号がフェフェの居所を教えに来てくれてこちらの事情を理解し、フェフェの代わりにリーダーに「妖獣であっても知らないことは知らない」と丁寧に説明してくれて引き下がった……はずなのに、最後の足掻きが長かった。
「魔素と魔素毒がアロンソの研究テーマにも関係するから気になってしゃーないのはわかる。わしだって知っているなら助けたいが、知らんもんは知らんしなぁ」
「フェフェ、魔素と魔素毒の本をめちゃくちゃ読み漁ってるのにね」
「言うなよ!」
「ふふふ!」
フェフェは知的好奇心の塊でよく本を読む。読む内容は問わない。絵本から学術書まで幅広く、娯楽小説なども読む。リーダーは何がフェフェの琴線に触れるかは予測不明だと言っていたけれど、フェフェは相棒としたリーダーが知りたいことを知ろうと魔素や魔素毒に関する書物を探して、欲しがって、読んでいるのを隠すために特定されないよう様々なものを読んでいるのだ。
図書室仲間としてうっかり私は気づいてしまい、フェフェに黙ってろ! と言われたのでリーダーには内緒にしている。
私も発光苔と魔素毒に関係があるならと、魔素毒に関する書物や文献を読み漁っている。図書室の専用閲覧端末でしか読めない毒に関する文献はフェフェと一緒に読んだものもある。フェフェと読んだ文献は昔の戦争時に毒薬兵器を作っていた際の研究レポートだったり、人体実験の様子も書かれていて読むのが辛かったものもあった。おそらく一人では読めなかっただろう。
妖獣が人よりもいろいろ知っているのは長い寿命のため。
けれど、なんでも知っているわけではない。
妖獣は個々の性格もあるけれど、自分からあれこれと解明しようとはしない。
妖獣はあらゆる生命の傍観者。
人の営みを知る機会がある妖獣は、人が決めたことをそのまま理解して覚える。言語も、生活習慣も。
発光苔は人がそう名付けた。人が名付けなければ単にそこにある苔。何故か光るそういう苔。
緑連豆も人がそう名付けた。緑色の豆が連なって生るから緑連豆。人が名付けなければそこにある豆の生る草というだけ。
季節性の風邪も人がウイルスを分析して原因を解明したもの。その解明した内容を妖獣も理解して覚えているに過ぎない。
妖獣は人が知らないことは知らないし、人が解明できていないことは妖獣にとっても謎でしかなく、謎を解き明かそうとしないので知るわけがない。
私はチビとゴゴジから妖獣だからと言って万能ではないことはレクチャーされた。
リーダーもフェフェが話したと思うのに、なかなか諦めが悪かった。
「まったくなー。わしらの鑑定のことも『何でも判明する万能な能力』と勘違いする輩がいるから本当に困る」
「あぁ……」
「すまんな、愚痴って」
「ううん」
フェフェはチビに愚痴りたかったようだけど、まだ朝の餌をもらいに牧場に行っていて帰ってきていない。妖獣の記憶のことを知ってしまった私だから愚痴相手にしたんだろう。
「ありがとな」
「うん。今日は誰とも話してないからこうして話せるとなんか嬉しい」
シンクから小さな音がしたので顔を向けたら、スライムがボウルから這い出ていた。音はボウルがシンクの台の上で擦れた音だったようだ。
「おはよう。今日はだいぶ寝坊だね」
ズルズルとシンク台から這って保冷庫に向かい、勝手に開けて入り込んで閉めてしまった。毎回保冷庫に入り込んで寒くないのだろうかと思うが、扉を開けっ放しにされるよりいいかと諦める。
足が痛くなければ扉を開けて何を食べ出したのか確認するけれど、あのスライムはそこまで大食漢ではないので保冷庫の中にある全部がなくなることはない。
私は完全に諦めていたけれど、フェフェが気になって保冷庫の扉を開いたら、空にした容器を体にくっつけるようにして見せびらかされた。そしてスライムの体内には薄緑色のものが蠢いている。
「え、サラダ全部食べちゃったの?」
ブヨン!
私の食事量で三食分くらい入ったサラダ惣菜だったのに全部食べられてしまった。売店の配達注文しなくちゃ。
空になった容器をシンクに持っていってくれるあたりは、本当に賢い。私が足を痛めて動きにくいのも理解してくれている。
「あ、そういえばニット先輩が謎茶に使う草は駆除せず避けるから草探しに同行してくれないかって言ってたけど、どうするの?」
波打つスライムの表面。考えているのか、体に取り込んだサラダを食べている動きなのかよくわからない。
「そのときの気分でよろしくね」
ブヨン。
私の言ったことに反応があったので、まあ大丈夫だろう。
私とスライムのやり取りを静かに見ていたフェフェが、「いい加減、妖獣になれば話せるのになぁ」と話しかけているけれど、スライムがうねりながら跳ねた。あの動きはなんだろうな。あっかんべーかな。そう言ってみたらフェフェはがっくり項垂れた。だよね……。
チビやキィちゃんもスライムと会うたびに「妖獣に戻らない?」と口説いているけど華麗にスルーされていて、当のスライムはスライムであることを楽しんでいる節があるので、スライムの動きから言いたいことを読み取る毎日は続いている。
フェフェは愚痴って少しスッキリしたのか、また勝手に出ていった。窓は閉めて帰ってほしかったな。まったくもー。
足を痛めてから動けないこともあってそんなにお腹が空かない。
昨日はペニンダさんが山小屋に来てくれて、保冷庫の食材が無駄にならないように具だくさんのスープやつまみ料理をいくつか作ってくれた。おかげで今朝も具だくさんのスープを温めただけで満足な食事が摂れた。
「ん? 誰だろ」
山小屋に向かってくる車の音に気づいたけれど椅子からは立たない。日中はもう玄関の鍵はかけていない。誰が来てもいい。それが山小屋だ。
時間的に妖獣たちは餌を食べ終わって腹ごなしの休憩に入った頃だけど、そうなると餌やり担当はシャワーをしている。足の治癒の間、朝の餌やり担当を代わってもらったルシア先輩ではない。
リーダーとペニンダさんは上層部会議のはずなので候補から外す。
受付と納品検収の時間でもあるから、サリー先輩も多分この時間は無理。
そうなるとシード先輩かニット先輩。
うん、ニット先輩かな。
「無理して動いてない?」
「おう、怪我したって聞いたが大丈夫か?」
山小屋の玄関扉を開けて入ってきたのは予測通りニット先輩で、その後ろにトウマがいた。
「え? トウマ?」
「おう!」
いろいろあってだいぶ久しぶりに会うトウマは、髭が薄っすら伸びていて野人に戻りかけている。屋敷では髪が整っていて髭のないトウマだったし、野人な姿が妙に懐かしい。
「あ! 待っ! 近づいちゃだめー!」
「うん?」
「あ?」
二人がテーブルに近づいてきて、ハッと思い出して叫んでしまった。
「なに?」
「何かあったか?」
二人とも私の叫びにピタッと止まってくれたけれど、怪訝な顔で理由を問われる。
「あの、昨日、お、お風呂に、入ってなくて」
「はー、なんだそういうこと。昨日から本気で無理して動いてないってことがわかってむしろ安心した」
「ある意味そうだな」
ニット先輩の温かい眼差しはまるで兄のよう。
トウマには胡乱と睨まれ、他のことで無理してないだろうなと顔で脅さないでほしい。目の下に隈ができないから寝ていることもわかってほしい。とにかくお風呂に入ってないので臭うかもしれないから近づかないでほしい。
春の長雨の時期は若干肌寒さがあるけれど、昨日山小屋の裏を登っている最中に足を痛めたので、あのときにじんわりと汗をかいた記憶がある。霧雨のような雨に髪も少々濡れていた。治療を受けている間に乾いてしまったからそのままにしてしまい、足の包帯を濡らさないようにお風呂に入るのが面倒くさくて、一日くらいいいかとお風呂に入らなかった。
ああ、なぜ昨日の私はお風呂に入らなかったのか。トウマに会えるならお風呂に入ったのに!
「ってリリカが思うくらい女心があることに僕はホッとした」
「こう言ったらなんだが俺もだ。討伐や採集の現場じゃ何日も風呂に入れねぇし。事情わかれば気にしねぇけどな」
「なっなっなっ! 先輩もトウマも帰ってー!」
私の心の中を読んだように二人に言われて、小っ恥ずかしさが爆発した。椅子に座ったまま、恥ずかしいやら若干ムカツクやらで「帰れ帰れ」と大叫び!
スライムも! なに! その前衛的な姿は! 姿だけでうるさいってどういうこと? どうにも私を小馬鹿にしている気がしてならない!
「何なら俺が風呂入れてやろうか?」
「帰れーッ!」
評価や感想などを頂戴できましたら、執筆の励みになります。
引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。
たまに活動報告も記しております。お時間があればご確認をお願い申し上げます。




