14.しつこさのその先に
ここのところ、オニキスの機嫌が悪い。
「アイツら消してえーッ!」
妖獣たちへの朝の餌やりが一段落して、私もシャワーを浴び終えて餌場の外の妖獣たちが集まっているところに来たら、オニキスが食後のおやつでもらったらしい骨をバリバリ噛み砕きながら吠えているのが聞こえてきた。
他の妖獣たちは思い思いに腹ごなしの休憩中で、オニキスの雄叫びにうんうんと頷いている。
「ボクの相棒もオーゾクのことはソンケーしてるけど、あんなことはしないなー」
「だよなー」
「本当に消してしまおうか……」
「いいんじゃない?」
「ほかにも迷惑なことしかしてないだろうし」
「いなくなったら快適かもねー」
「ねー」
「オニキス、物騒なこと言わないで。チビも妖獣たちも物騒なことを正当化しない」
今日も物騒な色端会議が繰り広げられていた。
事情はわかっているので、シード先輩や牧場の従業員さんたちも苦笑交じりで付き合っている。
「本当にやんごとなきバカのすることはわからんな」
「シード先輩、隠語になってないです」
「しまった。つい本音がな」
「ハハハッ! 本音も出るわな」
「警備のやつらもだいぶイライラしてるってな」
私もオパールとフクロウたちのときにクソ当主と言っていたので、シード先輩を窘める立場にないけれど、この場のノリの雰囲気で軽く返したら、シード先輩が大げさに「言っちまった!」の表情となり、どっと笑いが起きた。
それにしても警備している方々の苦労を想像すると何とも言えない表情になってしまう。
チビのヴィスランティ家でのミニコンサートから数日経過した頃から、『王子妃殿下の快復を祈る会』と称する団体との対応が悪化した。
『王子妃殿下の快復を祈る会』に、やんごとなき方々が属していて、どうにかして殿下らに面会しようとヴィスランティ家の屋敷付近にキャンプ的な不法滞在する揉め事が片付かないのだ。
やんごとなき方々は下手に財力があるから困る。
ミニコンサートの打ち合わせをしていた頃はテントを張るなどの行為だったので、警備隊が注意して撤去させていたのだが、ミニコンサートが終わった後からキャンピングカーで停車し、転々とするようになった。
王子殿下らが滞在しているヴィスランティ家のお屋敷周辺の警備は、ヴィスランティ家と本家ヴィスファスト家の護衛さんたちと領主館の警備隊が担っているのだが、キャンピングカーの登場には呆れ、そして迷惑の度合いに拍車がかかってみんなイライラしている。
管理所にも困った案件として共有されてきて、そこまでするのかと驚いた。
広い駐車場を借りて停車していると不当とも言えない。
迷惑行為が続く『王子妃殿下の快復を祈る会』については、シャーヤラン領からの強制退去命令と入領禁止を出す方向で手続きが進んでいるので、その発動はまだなのかと待っている状況だ。
オニキスはヴィスランティ家のお屋敷の警備に公では参加していないけれど、相棒のトウマがいるので必然とフォローしている。管理所業務で請け負うのは森の奥の魔獣発生の巡回だけに絞り、日中は警備隊をフォローしている。
トウマはチビのミニコンサートが終わったら管理所勤務再開だったのが、やんごとなき方々の対応に振り回されて復帰未定となってしまった。
本家のヴィスファスト家からも手助けはあるけれど、侯爵様や侯爵夫人は領主としての業務があり、ビダニーオ様はまだ体調が万全ではないので無理をさせられない。ヴィスランティ家当主のジュニオル様は商いの打ち合わせなどで外に出なければならない約束もあり、そうなると屋敷に詰めていられるのはトウマしかいない。
トウマは王子殿下と『親しい友』と見做されていることもあって、今ヴィスランティ家の屋敷にいる者としては最適な人材。そのこともあってトウマが面倒くさい対応の最前線に出ているとも聞いた。
殿下らが前庭を散歩するなどでお屋敷の麓の方々にお姿を見られているので、それならちょこっと会うくらいいいじゃないかと迷惑なやんごとなき方々から不満の声も出ているけれど、そういうことじゃない。そんな理由を真に受けて王族との面会を許可してしまったら「我々は王族に認められている」などと突拍子もないことを撒き散らすのがやんごとなき方々なのだから許可できるわけがない。
少し前にトウマからそう愚痴られ、私ですら疲労感が増した。
オニキスは『王子妃殿下の快復を祈る会』の迷惑行為そのものにもムカついているけれど、奴らのせいでトウマの管理所勤務再開が延期になり、トウマと私が一緒にいられる時間が取れないことに腹を立てている。
トウマが管理所に復帰したら、山小屋で食事をする約束をしていたので私も残念ではあった。
「でもさっ! リリカはさっ! 苔にのめり込んでさっ! トウマと会えなくてもさっ! 寂しいと思う暇もないもんねっ!」
「そんなことは……」
「あったなんて言わせないからね? リリカからトウマに連絡したことないよね?」
そしてこうしてチビの機嫌も悪くて、私に対する言葉がトゲトゲしい。
しかしチビの言う通り、苔の研究に没頭していたためにトウマと会えないことへのダメージは大きくなかったりする。
反発するようにジトッとチビと睨んでみるけれど、胡乱な視線で見つめ返され、後ろめたい気持ちがないわけではないので視線が泳いでしまった。
私からトウマに連絡しなかったのも事実。
加えて何日か前にトウマから「どうにもならねぇ愚痴を叫ぶだけになりそうだからしばらく連絡しない」と言われてから連絡を取っていない。
ただでさえ甘さのない二人が連絡し合わない。
そのことにチビとオニキスは不満たらたらで、朝の妖獣たちによる物騒な色端会議のネタにちょいちょい挙がるが、そろそろ違う話題になってほしい。
落ち着くまで連絡しないと言ったトウマの気持ちもわかる。
一応恋人、多分恋人な私ではあるが、まだヴィスランティ家の者ではない。
そうなるとトウマから私に言えない何かがあって、「腹が立つ! アーッ! ムカつくッ!」と叫び声を受け止めてあげるくらいしかできなかったのだ。
いくつか想像はついている。
王子妃殿下を見舞うとしつつ、ジュニオル様やトウマに取り入ろうとする人もいるのは聞いていた。
私とトウマが恋仲になったことは隠していない。むしろ侯爵家総出で歓迎されていて、領主館の方々もチビのサプライズコンサートのときの裏後援会の方々も私たちが恋仲だと認識していて、あっという間に上流階級に情報がまわった。
モウリディア王国内でも有名な妖獣のチビとオニキス。この大型妖獣の相棒二人がくっつくことを僻んで、いろいろ言われていることも想像がつく。
私の学院時代などのことも蒸し返し、やんごとなき方々の誰かが、人付き合いが下手だった私ではヴィスランティ家の女主人に相応しくないなど言われたりしているんだろう。
侯爵夫人とメイリンさんのマナー講座を受けてきたなかでもこれらのことは言われていて、私も理解している。
想像しているようなことがあったとしてもトウマは私に言わない。
他にも私に言えない何かが起きているのかもしれないが、だから喋り合う通信はしばらくしないだけで、文字ではやり取りしている。
ちゃんと寝ているか、食事は抜いていないか、バランスよく食べてるか、化粧水は足りてるか──。
「保護者か?」
「親だな」
シード先輩や牧場の従業員さん、この場にいた妖獣たちに呆れられ、チビとオニキスはがっくり項垂れた。正直、私もそう思う。
「付き合い始めというのはもっと甘々な言葉を言い合わないか?」
「付き合い始めってさー、もっとイチャイチャしない?」
「なんであんなに悪ガキだったのに妙に冷静沈着に育っちまったのか」
「なんで苔と彼氏だと、苔なんだろう」
「オニキスもチビも黙ろうか。黙ろう」
「いい加減、正式に婚約手続きをだな」
「いい加減、一発ヤられてだな」
「チビはホント黙れーッ!」
チビは何を言い出すのか!
シード先輩、笑いが殺せてないです!
牧場の従業員さんたちはお腹を抱えて笑うし、私は恥ずかしさに汗が噴き出て真っ赤!
セクハラ! セクシャルハラスメント!
「動物が交尾するのは当たり前じゃん」
「当たり前でも言わないの!」
チビは「番は番うのが当たり前」の感覚をストレートに言葉にする。
死にかけていたクサムラトカゲだったとき、学院時代の研究室のジェイド先輩とヴィオーリアさんの赤裸々かつイチャイチャぶりも見ていて、あの研究室では全員慣れて私も淡々と流していたから、この手の話をしても私が本気で怒らないと思っているふしがある。
さすがにシード先輩と数匹の妖獣が「言う場は気をつけろ」とチビを窘めてくれたけれど、それでもチビは不満げだった。
朝の恒例行事と化してきたオニキスの不満を聞く会を解散させて、今日の昼で預かり終了の妖獣と仮設妖獣仮眠所で寝たい妖獣たちは、シード先輩の車の荷台に乗り込んでもらう。これから遊ぶ気満々の妖獣たちは私と一緒に山小屋だ。
そろそろ山小屋にルシア先輩が来ているだろう。昨日の勤務終了のときに「明日もちょっと奥まで遊びに連れて行く」と張り切っていた。
オニキスは森を伝ってヴィスランティ家の屋敷にひっそり戻り、チビは引き続き仮称職員村となる場所の整地の手伝いがあるので、シード先輩が運転する車と並んで腹を上に向けた姿勢のまま飛んでいった。
チビがヘソ天でぷかぷか飛んでいるときはご機嫌で、ヘソ天のままスーッと飛んでいるときは何かに不貞腐れているので誰が見てもわかりやすい。不貞腐る理由はだいたい相棒の私のことなので、管理所で会う職員さんに理由を聞かれることがあるけれど、トウマとイチャイチャしていないことにチビが不満だと白状したくない。
……私から聞き出さなくても、チビがあっちこっちで匂わせることは言ってしまっているだろうから、きっとバレている。
山小屋に数日分の食料はある。
よし、今日は管理所も職員寮にも行かないぞ!
「もう少ししたら雨が来そうだなー」
「天気予報だと大降りにはならないって言ってたけど?」
「そんな感じー」
浮遊バイクの前カゴに入った妖獣が空を見上げて雲の動きを教えてくれた。
「ちょっと痩せたほうがいい世話係がさ、変形菌を探してんじゃん? 昨日遊んだ場所にありそうではあるけど、今日行くのは無理じゃねぇかな?」
「雨だと滑りそうな急斜面あったしな。あ、途中の洞窟!」
「あの洞窟の奥に行ってないな。今日はあそこで遊ぼうぜ」
「いいねー」
定期的に管理所の妖獣預かりを利用している二匹の妖獣の相棒さんは、揃って同じ貨物輸送船の乗務員。あちこちの領を行き来していて、シャーヤランに立ち寄ることが多いルートを担当している。次の出発までだいたい二日~三日あるので、その間、妖獣は管理所にやってきて森をビュンビュン飛び回ってストレス解消。私が管理所に来る前からの常連で、遊び回っていい範囲の森のことなら私よりも詳しい。そして妖獣世話班一人一人の性格や癖も把握していて、今回管理所に来てからはルシア先輩の変形菌探しを陰ながら見守ってくれている大変ありがたい存在だ。
「ルシア先輩、なかなか見つからないって焦ってるから無理しないといいけど」
「ここの部長さんと所長さんに、無理しそうならふん縛っていいって言われてっから任せとけ」
「そうそう。世話係の長さんをふん縛った回数が一番多いな!」
リーダー、何をしているのか。
そして話を聞いていたら、ふん縛っていい対象に私も含まれていると知り、もしも苔探しに没頭し過ぎたら、問答無用でグルグル巻きにして所長室に放り込むと言われた。……気をつけよう。
山小屋に着いたらルシア先輩が想像以上の重装備で待ち構えていた。日常業務で立ち入っていい森の奥ギリギリまで行く気満々な気配がする。薄っすらと帰ってくる気がなさそうな雰囲気までする。
常連の妖獣二匹がこそこそと「遊ぶ場所を決めといてよかったなー」と言う言葉に感謝しかない。他の妖獣たちもクスクス笑って、ルシア先輩がふん縛られるかの賭け事まで始めた。大丈夫だろうか……。
「先輩、雨が来そうですし、あんまり奥には……」
「わかってるって! 無理はしないって!」
グッと親指を立てていい笑顔で返された。
ルシア先輩は物事の線引きができる人。普段ならそう言えるけれど、探している変形菌と巡り会えなくて少し焦っているのを感じるから不安が拭えない。
今日私は妖獣世話班業務は休みで、チビがいるので朝の餌やりだけ担当した。
妖獣たちを遊ばせる係の昼過ぎからの補助は、……リーダーだ。だいぶ不安しかない。それくらい私も成長した。シード先輩とサリー先輩、ニット先輩に言っておこう。
「はい、これ。最後の分析のやつ。さっきデータでも送ったけど紙でも見たいと思って印刷してきた」
「ありがとうございます!」
「結局わかんなかったね」
「いいえ。ここまで『わからない』ことが『わかった』だけありがたいです」
「流石リリカ、前向き!」
ルシア先輩が渡してくれた紙の束は、この数日間で妖獣世話班メンバーが助けてくれた分析結果の最後のもの。
スライムが苔部屋の前に魔魚の鱗を置いたあの事件から、メンバー全員で徹夜しかけて所長に怒られて、部長さんの執り成しで交代で分析などを手伝ってくれていたが、各自の研究もある。
話を聞いた所長から期限を区切られ、私も延々と手助けというのも気が引けたので、一昨日でいったんの区切りとなった。
発光苔の生育に本当に魔素または魔素毒は関係がないのか?
魔魚の鱗が関係している場合、魔素毒ではなく魔素ではないか?
魔素と魔素毒ではない他の何かが関係している可能性はないか?
謎茶に使われるうち、魔草が枯れていくときに魔素を放出している可能性の仮説──。
そうしたいくつもの仮説に沿って分析が進められたけれど、それぞれの仮説を裏付ける結果は得られていない。でも区切りも大事。
「じっくり見ます。見落としている何かがないか」
「私も何か思いついたら言うからさ! じゃ! 妖獣たちー、おまたせ! 行こ!」
鼻歌まじりのルシア先輩の周囲を飛んで森に入っていく妖獣たち。その最後尾にあの常連二匹がいて、私を振り返って小さな前脚で親指を立てるようなポーズをしたんだと思う。二匹ともハムスターみたいな姿なので手が小さくて指のポーズは見えなかったけど、きっとそう。これじゃどっちが世話係なのかわからないじゃないかと笑いが出てしまった。
ルシア先輩を見送って、早速リーダーとルシア先輩以外のメンバーに連絡した。
すぐに返事をくれたのはサリー先輩。
ルシア先輩が職員寮を出るときに会っていて、あの荷物量に私と同じく不安を覚えたという。
「ちょうどね、討伐班の帰還を聞いたの。帰還ルートが山小屋の裏に近いってわかったから状況によってルシアを捕獲してくれるよう手配しといたわ」
「流石サリー先輩!」
「グルグル巻き捕獲されたら所長室行きだからねー」
無茶したら所長の説教コース。仲間としてそれは避けてあげたい。それは私も同じ気持ちだった。
その後、先輩たちが話し合ってリーダーとニット先輩が業務交代して、ニット先輩がルシア先輩を追いかけて合流することになった。これで安心。
山小屋に入ったらスライムが台所の床に小石を並べて弾いて遊んでいた。
よく見たら少し前にキィちゃんが置いていった宝石たちで、キィちゃん用のアクセサリー材料を入れている缶の箱から勝手に出したらしい。テーブルの下にその箱が転がっていた。
「スライム、なにしてんの……」
私の声なんて聞こえませんの無視はいつものこと。
宝石を器用に弾いて遠くに置いた宝石にカチンッと当たったら、ブヨンブヨンと揺れて喜んでいるけどだめだって!
「宝石で遊ばない。宝石を傷つけたらキィちゃんに消されるよ?」
そう言った途端にスライムがブワッと床に広がり、あちこちに置いてあった宝石を伸ばした体で集めると、転がっていた箱に仕舞って蓋をした。
何事もなかったかのように丸くなって鎮座するスライム。
おそらく「何もしてません」って顔をしてるんだろう。顔がどこだかわからないけど。
スライムともこうしてなんとなく意思疎通ができるようになったけれど、やはり話せないのは痛い。表情がわかればと思っても顔がどこだかわからない。
管理所職員なら姿を見られても隠れたり逃げたりしなくなったので、王子殿下にも会ってくれるといいんだけど……、王子殿下から会いたい言われたときに考えよう。
ルシア先輩から手渡された紙の束をテーブルに置き、スライムの最新作、謎茶リベンジ五号の瓶を手にした。
最初の謎茶五号は下痢を引き起こす成分が含まれて、スライムが最近の私の便秘を気にして配合してくれたのが丸わかりの代物だった。謎茶の成分分析をしてくれたモラさんに「もしかしてリリカ、便秘?」とバレたくらいだ。
便秘の改善としてもこの成分だとなぁとモラさんが却下したら、スライムが不服を申し立てて、モラさんの持ってきた分析表の紙を溶かして食べたけれど、私をトイレの住人にするような謎茶を作るのはやめてもらった。
その後、スライムが紆余曲折して作ってきたのが香りを楽しむ謎茶リベンジ五号。ふんわりと甘い香りがとてもいい。枯れ果てたあの草たちでどうしてこんなに甘い香りになるのか非常に不思議な一品で、サリー先輩の好みにドハマリして多く持っていってくれた。
謎茶リベンジ五号の茶葉を蒸らしている間に、青紫色と赤紫色の二つの魔苔の苔玉に霧吹きで水分補給させ、生えすぎたところは摘んで処理。
優雅とは無縁の大きいマグカップにたっぷり謎茶を注いで、ルシア先輩が印刷して持ってきてくれた分析表と、これまでのレポートなどと並べてじっくりと見始めた。
分析のプロフェッショナルな研究職員も多く協力してくれたおかげで分析データは山とある。それら一つ一つを精査して、教授から送られてきたデータとも付け合わせ、糸口を探す地味な時間。
私の発光苔とほぼ同じ条件なのに、教授のところの発光苔は目立って育っていないレポートは何度も読み返した。
『ほぼ』であって、『完全』ではない。
王都とシャーヤランという場所の違い。
無菌室のような建物や室内で同一条件を作って生育させる研究ではないので、お互いの住む場所の空気や水、日の光の強さなどの違いは出てくる。その違いのどれかが発光苔の生育に欠かせない条件。
このレポートを送ってくれたときに教授と少しだけ話したけれど、「育てている場所で違いがあるとわかっただけでも前進だ」と興奮していた。
確かにそうだ。
私たちの研究は足踏みのように見えるが、じりじりと前進している……と、自分を慰めながら、分析レポートとあわせて先人の残した文献も読み返したけれど閃くものはなかった。
「でも、何かある。絶対、何かある」
休憩のため文字と数字の世界から離脱し、苔部屋に行った。
私と教授で育てている生育環境の一番の違いは空気。
スライムは苔部屋の前に魔魚の鱗を置いた。
直接発光苔に何かをしたわけじゃない。
魔魚の鱗がカラカラに乾いていくまでの間に魔素が揮発するのではないかと仮説が出たけれど、揮発した魔素を確認するすべはなかった。
「魔素ではない別のガスが放出された、とか?」
突飛なことを思ったら急に身震いしてしまった。
苔部屋の温度は低めなので、ずっといると寒くなる。
風邪を引きたくないので台所に戻り、まだ形にもならない仮説に縋るように今日ルシア先輩に渡された最後の分析データの結果を見た。
窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素、ネオン、ヘリウム、メタン、クリプトン、水素、一酸化二窒素、キセノン、オゾン、アンモニア、魔素……
「……あれ? 合ってない。合って、ない!? え?」
分析データガス量とそれぞれのガスの合計が合わない。
調査対象容量が少なかったので、小数点何万桁という本当に僅かな差異がある。
情報端末なら紙に印刷されない詳細分析データまで書いてくれているはずだと、送ってくれているデータにアクセスして順に見ていったら、一番小さい割合に『G−I』とあった。
「じー、あい?」
知らない用語に戸惑い、情報端末で調べたら、Gas Incognの略だった。
「ガス・インコグニタ? インコグニタは未知とか認識できないって意味じゃなかったっけ。え、未知のガス!?」
注意書きに使われる用語解説を確認したら、誤差とあった。
未知ではなく、誤差?
『G−I』と並んで『VAR』という分析用語もあり、こちらは『雑多過ぎてこれ以上の検出不能の結果の誤差』とあった。
どちらの用語も元の分析値と合算値に誤差が生じたときに用いられるものだけど、僅かに違う意味のようで、『G−I』の場合は、詳らかに分析しきれなかったときの『その他』の意味であったり、分析割合誤差が生じたときに用いられるのが通例のようだ。
でも、待てよ? 『その他』は『その他』という別の分析用語があるよね?
「?」
混乱している自分に、落ち着けと深呼吸した。
そして、もう一度インコグニタの意味を調べた。
言葉の意味としては『未知のこと、予測できない』こととあってじっくり考える。
未知という意味があるの言葉をその他や誤差という意味とした理由は何なのか?
もしかしたら分析の歴史のなかで言葉の意味が変わってしまった?
最初は本当に未知のガスとして使われていたのではないのか?
未知のガスという意味通りの場合、その未知のガスが発光苔の生育に影響している可能性はないだろうか?
飛躍の妄想は止まらず、その後も私は一心不乱に分析データと睨めっこし、一つの仮説をガリガリと書き出した。
ルシア先輩を追いかけるために山にやってきたニット先輩が山小屋に寄ってくれた際に、その妄想の仮説を話した。
ニット先輩が驚いてリーダーやシード先輩、サリー先輩を呼び、私の妄想の仮説を聞いてくれて、そして翌日、先輩たちも同席して部長さんに話した。
──そして、私の予想を遥かに超える大騒動になった。
評価や感想などを頂戴できましたら、執筆の励みになります。
引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。
たまに活動報告も記しております。お時間があればご確認をお願い申し上げます。




