11.ご褒美タイム
ヴィスランティ家でのミニコンサートは無事に終わった。
終わったときの拍手の多さに驚いたら、お屋敷の使用人さんや殿下らの付き人、王族護衛隊も二階と三階のバルコニーや窓から鑑賞していた。
「サプライズコンサートの頃から何度もリハーサルあったろ? 管理所の警備隊員は当日は警備で見られないから順繰りにリハーサルを見てたからチビのステージを知らない者はいない。チビのコンサートの機会はなかなかねぇし、殿下のお付きの方々全員に見てもらおうって俺ら側の警備人数でこの時間だけどうにかやりくりして見てもらえるようにしたんだ。ってことを俺も知らなくてさ!」
コロンボンさん自身、楽器隊として今の時間の警備任務を外してもらったことを感謝していたが、王族護衛隊の方々がコンサートの時間だけでも任務から離れて問題ないように調整した発案は同僚や部下だったという。
シシダで起きているようにチビのコンサートをやるには揉める。見る機会を逃すと次があると言えない。シャーヤランの警備隊員であればまたいつか見られる機会もある。そう言って、仮眠も満足に取れない日もあるのに提案したのはすごいと思う。
お屋敷の使用人さんたちもコンサートの間だけ持ち場を離れて見てよいと決断したのはジュニオル様。大緊急の通信が入ったときのみ動けばよいとしていた。
チビが観覧席となっている一階のところに近寄り、興奮している殿下らの声をうんうんと聞いている。
「王子さまもお姫さまも楽しかったぁ?」
「とてもとてもとてもとてもとても!」
王子妃殿下は語彙力をなくす勢いの興奮で王子殿下がぴったりと付き添われている。赤ん坊殿下も泣いておらず、コンサート中もベッドの柵を掴んで「あー! ぼー!」と叫んでギシギシとベッドを揺らしてはしゃいでいたので、子どもたちといっしょに踊っていたつもりなのかもしれない。
終演後のご挨拶を済ませて、興奮している殿下らのことはビダニーオ様やジュニオル様、楽器隊の方々にお任せし、私とホワキンさん、トウマで子どもたちの着替えのため離れさせてもらった。
観覧席を用意した大きな部屋の隣の部屋が子どもたちの着替えの場所として用意されていて、衝立を並べて男子と女子に別れて持ってきた私服に着替える。過ごしやすい気温だけど、あれだけ踊ればみんな汗をかいていた。真夏の暑さではないからこそ、早く着替えて汗を拭かないと風邪をひいてしまう。
女子三人はユリアンヌちゃんのお付きの方に引き受けてもらい、男子七人を私とホワキンさん、トウマ、そしてお屋敷の使用人さんに協力していただいて対応するだが、予想していた通りヘンリーが引っ付き虫になった。
「ぼく! まちがえなかった!」
「うん、できてたよー」
「おにいちゃんにいうの!」
「うんうん、シャツを脱ごうかー。下着も着替えようねー」
泣きじゃくりではなく、喜び大爆発の引っ付き虫。しゃがんで背の高さをあわせた途端に抱き着かれ、頭を鎖骨の付近にグリグリと擦り付けて着替えてくれない。
ヘンリーより一カ月だけ歳上のタンバもホワキンさんを翻弄中。うまくいったポーズの再現に忙しい。
「ここね! こうして、こう! うまくできてたでしょ!」
「おうっ! かっこよかったぞ。さあ、脱ごうな」
「でね! ここでむこうにはしって」
「ぬああっ! 待てぇ! パンツ穿くのが先だー!」
感化されてヘンリーが走り出さないように捕まえておき、私の膝に座らせてズボンを脱がす。ふー、勝った。
ヘンリーたちより歳上の子たちは、トウマとお屋敷の使用人さんの見守りで早々と着替えて手洗いなども済んで、これから頂戴するご馳走は何かなぁと盛り上がっている。
若干二名の着替えに手間取ったが、これから子どもたちは昼食会。
お屋敷の使用人さんに案内された部屋に向かったら、楽器隊の五人も着替えて待っていてくれた。
赤ん坊殿下のオムツ換えを潮時に、興奮状態で元気な王子妃殿下も反動で倒れないとも限らないとなり、滞在されている部屋に戻られたという。
王子殿下とビダニーオ様、ジュニオル様で王子妃殿下が休まれる部屋の近くで昼食を摂られるらしく、トウマはこちらにいてくれることになった。
「うわぁ!」
「すごい!」
案内された食堂には簡易調理台が設置され、大きな鍋があったり、グリルがあって、暴力的ないい匂い。
「ユリ、靴を脱いで座れる場所って言われたが、あれでいいか?」
「うん! デザートはあそこでみんなでピクニック!」
他の子はワイワイとなっていて、ユリアンヌちゃんとトウマの会話を聞いていない。
食堂の主庭に面した窓の近くだけ絨毯の色が違い、靴を脱いで座る場所だという。今はローテーブルが用意されているだけだが、デザートはあそこでピクニックみたいに食べるんだというユリアンヌちゃんは、ヘンリーやタンバなどの年少組の昼寝まで考えてくれていた。
「食べてすぐに車にのったら、きもちわるくなっちゃうって聞いたし、道のこんざつをさけて帰るって聞いたから、おひるねして帰ったほうがいいでしょ!」
「ありがとう」
「えへへ」
ユリアンヌちゃんは管理所のアルバイトに来るようになってから、周りのことをよく見るようになったと聞いていたが、本当によく見ていて、そして何が必要か考えられる成長をしている。ビダニーオ様たちも喜んでいることだろう。
ユリアンヌちゃんと同じ歳の子たちはカトラリーの扱いが大丈夫だが、それより下の子たちはなんとも言えない。とくにヘンリーとタンバは確実に手づかみする。絶対する。覚悟もしている。
そんなことは全部伝えてあり、超高級レストラン並みの給仕付きスタイルになったのは、子どもたちの食事中のフォロー役としてお屋敷の使用人さんたちがついてくれることになったから。超高級レストランと同じ給仕付きスタイルに子どもたちはドキドキワクワクしているが、裏事情はそういうこと。
私とコロンボンさんでヘンリーを挟み、ホワキンさんとメイリンさんでタンバを挟んだ。この席順はラワンさんとコロンボンさんから話を聞いてトウマが考えてくれていた。対面のトウマの横にいる子もちょっとカトラリー扱いに不安があるのでしっかりみてほしい。
食べたいものによって最後の調理工程の仕上げをその場でしてくれるのがご馳走感を引き上げていて私も楽しい。
子どもたちの胃袋量も考え、完全なフルコースではなく前菜を飛ばしてスープから。そのスープも子どもの口でも三口くらいの量。メインとなる肉料理、魚料理のおかわりを想定して、スープのあとはもう自由。食べたいものを言えばテーブルに持って来てもらえる。ラワンさんの隣にいた子はムニエルが焼かれる様子が見たいと言ったらしく、抱っこして見せてあげていた。
「頬肉のシチューとタラのムニエルは最初は少なめにして楽しみましょう。ムニエルはあそこで焼きますからね」
「ぼくシチューがいいです!」
「ほほにくってなに?」
「頬肉はほっぺだぞ」
「サラダがほしいです!」
「これなんのソースですか?」
「ぼくもシチュー!」
「たらってなに?」
「タラはお魚よ。白身のお魚」
「おさかなー!」
「むにえる?」
「スープおかわりしたいです!」
大騒ぎである。この騒がしさをお屋敷の使用人さんたちは微笑んで対応してくれて、マナーがほぼ完璧だろうユリアンヌちゃんも気にせずニコニコしていた。
ヘンリーの今のブームは魚料理。とは言え頬肉のシチューも気になるという選べなさ。
私とコロンボンさんでそれぞれを頂戴して、取り皿に分けて食べさせることにした。
ヘンリーなりに行儀よく食べなきゃいけないと感じて頑張っているのが食べ方から伝わってきて、「帰ったらトーマスとマドリーナに教えてあげなくちゃ」と頭の中でメモする。
ヘンリーは先を丸く処理してある子ども用のフォークでムニエルを掬おうとするけれど、皿の上を滑っていくだけでなかなか掬えない。むーっと小さく唸って口を突き出している表情も可愛いが、見ていたら片手の指でフォークの上にちょいちょいと滑らせて乗せた。ヘンリーは何事もなかったように使った指を舐めてからシャツで拭こうとし、すかさずコロンボンさんがヘンリーの手を掴み、用意されていた濡れ布巾で拭いた。
ムニエルの次にヘンリーに頬肉のシチューを分ける。肉よりシチューのソースにわくわくして、雑穀パンにシチューソースをつけて大人顔負けの恍惚の表情になり、コロンボンさん、私、後ろについていてくれている使用人さんを交互に何度も見て頷くもんだから、笑いを噛み殺すのが大変だった。
ヘンリーには生野菜を食べさせたいミッションがある。マドリーナから野菜は茹でたり炒めたりスープにしたりすると食べるが、生だと途端に食べないので、食べさせられそうなら食べるよう仕向けてほしいと言われているのだ。
押し付け気味にならないように魚と一緒なら食べるだろうかと薄切り赤身魚のカルパッチョを頼んだら、おもむろに切り身を掴んで細切りのサラダを包み、「ラップロール!」と自画自賛の暴挙。咄嗟に叱る言葉が出かけたものの、ヘンリーがモリモリ生野菜を食べている。数秒の葛藤の末、「うんうん、巻いて食べようね」と応援に切り替えた。事情を察した使用人さんも調理人さんも肩を震わせて、長めの切り身と濡れ布巾の換えも追加で持ってきてくれた。ありがとうございます。
追加された切り身を見て嬉しそうにまたレタスや細切りニンジンなどを巻いて食べるヘンリー。皿の外にも少々散らかっているがもう見逃してほしい。
ホワキンさんとメイリンさんで挟んだタンバもだいたい同じ暴挙で、タンバは大きめのレタスを探し出し、切り身をくるんで巻いて食べて口に入り切らずにテーブルに散らかしていた。
レタスやサラダ菜などで食材を包んで食べる料理はある。ある……けれど、カルパッチョでやるものではない。天を仰ぐ大人たちだった。
そろそろ子どもたちはデザートタイムにしないとこのまま満腹になってしまう絶妙なタイミングで、窓際のスペースにデザートが用意され始めた。
そうなったら子どもたちの興味は俄然デザートになり、ヘンリーも足をぶらぶらジタバタ。お行儀よくと言ったところでヘンリーにはお行儀が何のことだかわからない。
そんなヘンリーだけど、子ども用の補助椅子から抱っこして床に下ろしたら、私とコロンボンさんの手を引っ張ってテトテトと調理台の前に近づき、調理人さん一人一人に「おいしかったです!」とお礼を言った。調理人さんたちもニコニコだ。
菜園のアルバイトなどで作業終了の際にお世話になった大人へお礼を言うのを習わせていて、それがこうして身についている。それが嬉しい。他の子も順番に調理台の前で調理人さんたちにお礼を言ってからデザートのスペースへ向かった。
「あれ? シュークリームちいさい」
「なんで?」
子どもたちに用意されていたデザートはミニサイズ。子どもたちだけでは食べきれないほどの数があって種類も豊富。
けれど半分の子たちがミニサイズのシュークリームを見て疑問の声を上げた。フェフェが食べていたのは私の拳くらい大きかったからね。
「あの大きいのを食べたら他のが食えないだろ? 大きいシュークリームは土産に用意してやっからな」
「おみやげ!」
「もってかえれるの?」
「家族分用意してやるからな」
「「「やったー!」」」
トウマがそう説明したら飛び跳ねて喜ぶ子どもたち。
管理所での休憩時にピクニックシートに移動する際、靴を脱いだら端に揃えることも教えているのが活きて、みんな一人一人靴を脱いだら順番に並べていった。
お屋敷の使用人さんや調理人さんが、食事の挨拶や靴を並べる様子を見て感心していて、食事中のマナーはだめだめな子が続出だったけれど、一つ一つ学んでいけばそれでいいと思う。
ここからはユリアンヌちゃんが仕切るようなので見守る側に移動。女子三人がエプロンを身につけて喫茶店の真似事を始めた。これはたまに管理所での子どもアルバイト隊の休憩中でも見かける光景で、男子もノリよく客になる。それぞれ食べたいデザートを注文して楽しみ始めた。
ほのぼのと見ていたら窓からの明るさが翳り、すぐにチビだとわかった。周囲にいる大人に目配せして、外に出られる窓からチビの近くに行く。
「チビ、お疲れさま」
「楽しかった!」
ミニコンサートと言いながら曲数増やしたもんね。
殿下らとの歓談が終わって、今の今まで殿下のお付きの方々や王族護衛隊の誰かを相棒にする妖獣たちと話していたのだという。妖獣たちからは私の中に入り込んでしまった妖獣の引き継ぐ記憶のことを聞かれたりもあったが、みんな悲しい記憶だけ消せればいいのになと言ってくれたそうだ。大丈夫。私は言わない。何にも遺さない。約束は守るよ。
「オレっち、先に帰るね」
「うん」
「リリカもさ、早めに帰ってきてね」
「?」
チビが私の頬に鼻先を寄せてくるので、頬をペタリとくっつけたら頭の中にチビが語りかけてきた。
──兄貴たちから念がきたんだけど、姐さんたちが食べるかなって魔魚捕まえたのに結局ぜんぜん食べなくて。もったいないからあげるって……。
フクロウたちが番のために頑張って魔魚を捕獲したのに、オパールたちの好みに合わなかったようだ。
──オレっちの顔と同じくらいの魚を泉に持ってきちゃってるみたい。
「なっ!」
うっかり声が出そうだった。
チビの顔と同じくらいの大きさ? 顔を上げてチビの顔を見つめ、大きさを想像して目眩がした。
なかなか大きそうだが、長さだけだろうか。太さもだろうか。
──生きてるってこと? 生簀みたいにしてるってこと?
──そうなんだと思う。鱗がキレイだから売って管理所で世話になった代金の一部に充ててもらえたらって兄貴たちは言っててさ〜。
──ああぁ……。
オパールとフクロウたちは非常に義理堅い。
──戻ったらリーダーとシード先輩を捕まえて伝えてもらっていい? その魚、私たちでも食べられるのかな?
──どんな種類の魔魚かは聞いてないからわかんないけど、リーダーとシードに聞いとく。
チビの鼻先から顔を上げて「気をつけて」と送り出せばチビは慣れたもので、スイスイと森の木々の向こうに消えていった。
部屋に戻ったら思いのほか静かで、その理由はすぐにわかった。
気持ちよさそうに寝ているヘンリーとタンバ。ウトウトしている子もいて、モゾモゾと薄手の掛け布団に潜り込んでいる。
「ミニシュークリームとミニケーキを食べていたと思ったら、コテンと転がった」
「ふふふっ」
トウマがヘンリーのことを教えてくれた。まだ食べながら急に寝てしまうことがあるんだよね。
ユリアンヌちゃんもお付きの方にお願いして昼寝の場所を作り、友だちと一緒に潜り込んだ。
今日は殿下の前で緊張して、思いっきり踊ったもんね。みんなお疲れさま。
子どもたち全員を寝かしつけて、スースーと気持ちよさそうな寝息を確認し、大人は離れた場所に移動。ユリアンヌちゃんのお付きの方とお屋敷の使用人さん数名が近くで見てくれている間に、楽器隊は機材の後片付けがある。コロンボンさんはここから警備任務に戻るそうだ。
「リリカたちは子どもたちの様子でゆっくり帰ってきて。私たちは片付けが終わったら出るわ」
「そうは言ってもなんだかんだ時間かかるから、同じくらいになるだろうけど」
楽器や機材の撤収といってもちょちょっとできるものじゃない。フェフェに音響調整してもらったとは言え、音響機材などの撤収にはなんだかんだ一時間くらいかかるという。
「あっあっあっ、メイリンさん、フェフェを連れ帰ってもらえませんか?」
「フェフェ?」
ジルミルさんが差し出してきた果物入れのようなカゴの中で、デップリ太った姿のままのフェフェはヘソ天で寝ていた。幸せそうだね。
「あらまあ。ぜんぜん小さく戻ってないわね」
「こちらはフェフェ様が食べかけていたシュークリームです」
「食べていたものは最後まで食べさせないと怒るのよね」
「そうなんですよね」
食べかけのシュークリームはフェフェが齧ったところを上にして、プリンのような器に収めてあった。これなら新しいものを包んだほうが簡単だったと思うけれど、面倒なことをお願いしてしまって申し訳ない。
私とホワキンさんは子どもたちが起きるまで時間ができた。
トウマがこの時間に苔を見に行くかと提案してくれたので、ホワキンさんも一緒に庭の奥に行くことにした。
「おお、この車いいな」
「四人乗りの荷台車両は最近減ったよな」
菜園でも苗の運搬で使う小型の輸送車はあるけれど四人乗車できるタイプはそう見かけない。だいたいこういう小型の輸送車は二人乗りなので珍しい。
「これは廃車の改造か?」
「だいぶ前にな。ほしいならアイツも公務はあまり持ってきてないから暇だし、一台くらい作ってもいいぞ」
「そう言われてもなぁ。改造にいくらかかるんだ。俺の一存で答えられん」
その後もトウマは、アイツ──王子殿下と車両の改造で時間潰しさせろとホワキンさんをしつこく口説く。トウマと王子殿下にとってはバイクや車両いじりは趣味であり、ストレス発散でもあるからやりたいんだろう。
「そういえばオニキスを見てないけど、どこか隠れているの?」
「じーさんのところだ。王族護衛隊も観覧できるように警備の調整したのを聞いた本家の警備員たちが、『自分たちもチビのコンサートを見たい!』ってなっちまって。警備体制が元に戻るまでオニキスはあっちで寝てんじゃねえか?」
「寝てるの?」
「迷惑なのがいなくなったから寝てても警備できるとさ」
オニキスもすごい怒っていたもんな。
「こっちにいると赤ん坊殿下に追いかけられるんだよ。ハイハイ速えんだ。完全に逃げまくるのもダメだし、無下にもできねぇし」
赤ん坊殿下は屋敷の窓からオニキスを見つけると外に出たがって、うっかり目を離してしまうと土も小石も気にせず庭をハイハイしてオニキスを目指してしまう。オニキスもそんな赤ん坊殿下を無視するわけにはいかず、手のひらを怪我してないか確認すれば、今後はよじ登ってくる。最終的にオニキスの背できゃっきゃとなってオニキスは虚無になるのだとか。
なるほど。これ幸いと逃げたんだとわかった。
庭を通り抜け、森に突入し、鬱蒼とした木々を抜けたら、パッと拓けた場所に出た。
「このあたりは前に別宅と呼ばれていた屋敷があったって聞いているが、俺も詳しくはわかんねぇんだ」
何代か前のヴィスランティ家の方の隠居兼療養の場所であったけれど、百年くらい前に取り壊されてから空き地だという。別宅があったというくらいだから排水設備もしっかり整備されている場所で、別宅を取り壊したあと、森に戻すのか、また住居などの用途にするのか不明なまま、定期的に設備点検だけはしていると聞き、百年単位で未来に先送りするものではないとチラリと思った。
そこに私としては懐かしさを覚えるコンテナ型の簡易住居が設置されていた。リーダーが別荘だと言って使っていたものと同タイプで、この形が標準なんだろう。
トウマが連絡してくれていたのか庭師さんが待っていてくれた。
コンテナ型住居の中に入ったらひんやりとした空気に自然と身震いしてしまう。
「わぁ、思ったより数がある」
「そうなんだよ。あのとき見せたのは一部でさ」
「これ全部苔なのか? こんな色の苔もあるんだな」
棚に水槽がいくつも並んでいて、緑色、薄緑色、黄緑色、黄色、白色、薄青色、薄紅色、青紫色、薄紫色、赤紫色……
「炭苔まである」
「親父はこの真っ黒な苔をどうしたかったんだ?」
「これ、胞子体が出てくると花葉の部分が真っ白に変化するから、色の対比が面白いといえば面白い苔なの」
「はい、左様でございます。旦那様が図鑑を見て可愛い花だと仰ってご購入されました」
「花みたいに見えるところがユリに似ているから別名ユリ苔だけど、胞子が出てくると臭いんだよね」
「臭い? どんな」
「……うんち」
「これは処分しよう。とくにレアってわけじゃないよな」
「うん。寒冷地の森林奥に群生してる」
「絶対近づきたくないな」
学生時代のフィールドワークで一回だけ遭遇したことがある炭苔の群生。タイミング悪く胞子が出ていてすごい臭かった。そんな生態なので炭苔は苔愛好家の中でも育てようという人がほぼいない。
ペリル毒苔の発見以降、他にも毒苔が混じっていないか確認して、私が見つけたペリル毒苔だけだったと庭師さんから説明されたが、「最後に苔研究者の目線で今一度確認してほしい」と言われて一つ一つ慎重にじっくり見た。毒苔はなかった。よかった。
ここにある苔はそこまで温度と湿度の管理は大変なものもなく、ただ胞子を撒き散らして無闇に増えられても困る。そういう意味で水槽に分けてあったのは最善の対策だが、ざっと見て気になったのは明るさだろうか。いくつかの苔は日差しにあたったほうがいいものがあり、その助言を庭師さんにしたら、窓との位置を踏まえて内部の仕切りを変更し、水槽の配置換えを考えるとなった。
炭苔は早速処分。胞子が出てなくてよかった。
屋敷に戻る前に赤紫色の魔苔を分けていただくことができた。前に見せていただいた際はペリル毒苔の対応があって言えなかったけれど、これで青紫色と並べて苔玉鑑賞ができる。
「見て見てこの毒々しい色! なのに無害!」
「……よかったな」
「……まだ差し上げられますので」
「……そろそろ戻らねぇか」
赤紫色の魔苔を手にニヤけていたら、三人にドン引きされていたのは言うまでもない。
評価や感想などを頂戴できましたら、執筆の励みになります。
引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。
たまに活動報告も記しております。お時間があればご確認をお願い申し上げます。




