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悪役令嬢レティシア、二人になりました  作者: 南蛇井


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Scene 8 最後の一押し

――その部分だけ。


 ――なくなってしまえばいいのに。


 そんな考えが。


 ほんの一瞬。


 レティシアの胸の奥をよぎった。


「…………」


 けれど。


 まだ、何かが引っかかっていた。


 レティシアはゆっくりと顔を上げる。


 そして。


 大広間の最奥に立つ一人の男を見た。


「殿下」


 アルベルトが顔を上げる。


「……なんだい?」


 その声は。


 先ほどまでよりも、ずっと小さかった。


 レティシアは彼を見つめる。


 幼い頃から。


 ずっと隣にいた。


 婚約者として。


 友人として。


 時には彼の代わりに怒り。


 時には彼の代わりに誰かと交渉し。


 時には。


 彼が決められなかったことを、一緒に考えた。


 レティシアは。


 ずっと思っていた。


 アルベルトは優しい人だ、と。


 だから。


 彼の優しさを利用する人間から。


 彼を守らなければならないのだと。


 彼が誰かを傷つけることを恐れるなら。


 自分が隣に立てばいい。


 自分が嫌われればいい。


 自分が悪者になれば。


 彼は優しいままでいられる。


 ――そう思っていた。


 けれど。


 今。


 その結果が。


 これだった。


「最後に一つだけ」


 レティシアの声に。


 大広間が静まった。


 アルベルトが、わずかに眉を寄せる。


「……何かな」


 レティシアは。


 一度だけ目を伏せた。


 この質問をすれば。


 何かが終わる気がした。


 けれど。


 聞かなければならない。


 今まで。


 誰よりも。


 聞くべきだった相手に。


「殿下」


「うん」


「あなたは……」


 言葉が。


 一瞬だけ止まる。


 レティシアは。


 自分でも驚くほど。


 怖がっていることに気づいた。


 証拠を尋ねることは怖くなかった。


 大勢の貴族を相手に反論することも。


 王子に意見することも。


 怖くはなかった。


 けれど。


 この質問だけは。


 どうしても。


 怖かった。


「私のことを」


 レティシアは。


 アルベルトの瞳を見た。


「悪い人間だと思っていますか?」


 静寂。


 誰も。


 何も言わなかった。


 アルベルトの目が大きく開かれる。


「……レティシア」


「はい」


「それは……」


 アルベルトは。


 すぐには答えなかった。


 レティシアは待った。


 今度こそ。


 言い訳も。


 政治的な答えも。


 周囲の意見もいらない。


 ただ。


 アルベルト自身が。


 どう思っているのか。


 それだけを。


 聞きたかった。


「僕は……」


 アルベルトが。


 言葉に詰まる。


 その瞬間。


 レティシアの胸の奥で。


 何かが。


 すっと冷えた。


 なぜ。


 すぐに答えないのだろう。


 もしも。


 本当に自分が悪い人間ではないと思っているのなら。


 答えは簡単なはずだ。


 違う、と。


 そう言えばいい。


 けれど。


 アルベルトは答えない。


「僕は……」


 また。


 同じ言葉。


 その先が続かない。


 アルベルトは苦しそうに目を伏せた。


「レティシアは……」


 何かを言おうとして。


 しかし。


 周囲を見た。


 大臣たち。


 貴族たち。


 クラリス。


 そして。


 自分に向けられる無数の視線。


 レティシアは。


 その様子を見ていた。


 そして。


 理解した。


 ああ。


 そういうことなのね。


「……そうですか」


 レティシアが静かに言った。


 アルベルトが顔を上げる。


「レティシア?」


「いえ」


 レティシアは。


 ほんの少しだけ笑った。


「もう結構ですわ」


「待ってくれ」


「いいえ」


 レティシアは首を振る。


「十分です」


「でも、僕はまだ……」


「お答えいただかなくても」


 レティシアは。


 ゆっくりと続けた。


「分かりましたから」


 アルベルトが。


 何も言えなくなる。


 レティシアは。


 その顔を見て。


 不思議なほど冷静だった。


 悲しい。


 そう思っていた。


 きっと。


 もっと傷つくと思っていた。


 けれど。


 違った。


 胸の奥にあったのは。


 悲しみよりも。


 諦めだった。


(この人も)


 レティシアは思う。


(自分では決められないのね)


 今まで。


 分かっていたつもりだった。


 アルベルトは優しい。


 優しすぎるから。


 誰かを選べない。


 誰かを傷つける決断ができない。


 だから。


 自分が支えればいい。


 そう思っていた。


 けれど。


 違った。


 彼は。


 誰かを選べないのではない。


 自分で選ぶことが。


 怖いのだ。


 そして。


 誰かが決めてくれるなら。


 その決定に従う。


 それが間違っていると。


 心のどこかで分かっていても。


 それでも。


 自分では止めない。


(……殿下)


 レティシアは。


 少しだけ目を細めた。


(あなたは)


(私を悪い人間だと思っているのかどうかさえ)


(自分で決められないのですね)


 それが。


 答えだった。


「レティシア」


 アルベルトが。


 もう一度。


 彼女の名前を呼ぶ。


 しかし。


 レティシアは答えなかった。


 ただ。


 静かに彼から視線を外す。


 その瞬間。


 何かが終わった。


 婚約が。


 終わったのではない。


 もっと前から。


 少しずつ。


 壊れていたものが。


 今。


 ようやく。


 終わったのだ。


 レティシアは。


 誰にも聞こえないほど小さく。


 息を吐いた。


(……疲れましたわ)


 戦うことにも。


 説明することにも。


 誤解を解くことにも。


 そして。


 誰かに理解してもらおうとすることにも。


 もう。


 少しだけ。


 疲れてしまった。


 だから。


 このときのレティシアは。


 まだ知らなかった。


 この直後。


 そんな彼女の心の声を。


 誰かが。


 すぐ近くで聞いていることを。

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