第15話 辺境への旅 第1場面 王都を離れて
王都を出てから、しばらく経っていた。
馬車は、緩やかな街道を進んでいる。
窓の外には、王都の高い城壁も、整然と並んだ建物も、もう見えない。
代わりに広がっているのは、遠くまで続く草原と、街道沿いに並ぶ木々。
時折、風に揺れた枝葉が馬車の窓をかすめていく。
「……本当に、王都を離れたのですね」
クラリスが、窓の外を見つめながら呟いた。
その声には、寂しさとも安堵ともつかない響きがあった。
彼女にとっても、王都は決して遠い場所ではない。
けれど、今回の旅は、これまでのどの外出とも違っていた。
目的地は、辺境グランフェル。
そこには、もう一人のレティシアがいる。
かつては同じ身体の中にあったはずの、もう一人の自分。
「お嬢様。毛布は、こちらに置いておきますね」
向かいの席では、ニーナが荷物を整理していた。
大きな鞄を開き、衣類を確認する。
次に薬箱を開け、薬の数を確かめる。
その後、食料の包みを一つずつ持ち上げていった。
「……ニーナ」
「はい?」
「さっきから、同じ荷物を三回確認していませんこと?」
「三回ではありません。四回目です」
「増えているではありませんか」
「確認というものは、回数を重ねるほど確実になるのです」
ニーナは真顔で答えた。
レティシアは、思わず小さく笑った。
「それでは、出発前に確認した分は何だったのかしら」
「出発前の確認です」
「今は?」
「出発後の確認です」
「違いが分かりませんわ」
「私にも、あまり分かりません」
ニーナはそう言いながら、薬箱の蓋を閉じた。
その隣では、護衛騎士の一人が馬車の小窓から外を確認している。
前方には二人。
後方にも二人。
街道の先や周囲の林を警戒しながら、一定の距離を保って進んでいた。
王都からグランフェルまでの道のりは長い。
魔獣や盗賊の危険もある。
まして今回は、王都の侯爵令嬢が同行している旅だ。
慎重になるのも当然だった。
レティシアは、膝の上に置いた書類へ視線を落とした。
父から渡された、意見書の写し。
紙の端は何度も開かれたせいか、わずかに柔らかくなっている。
そこに書かれているのは、北部諸侯領への臨時徴税案についての意見だった。
王都の財政不足。
北部の凶作。
輸送費の高騰。
領地の生産力低下。
それらを一つずつ確認し、問題点を整理し、今後起こり得る影響まで考えたうえで――。
最後に、こう記されている。
> **本案は、現時点では承認すべきではありません。**
レティシアは、その一文を指先でなぞった。
(どうして、私はこんなことを書けたのでしょう)
書かれている内容は理解できる。
数字も、状況も、問題のつながりも分かる。
この案をそのまま通せば、北部の領地がさらに苦しくなる可能性がある。
王都の不足を埋めるために、地方へ負担を押しつけるだけでは、いずれ王家への不信にもつながる。
それくらいのことは、今の自分にも分かる。
けれど。
(どうして、私はここまで考えたのかしら)
以前の自分なら、問題を見つけた。
そして、その問題を放置することを許さなかった。
必要なら、反対した。
相手が誰であろうと。
王宮の高官であろうと。
第一王子であろうと。
「それは危険です」と言った。
「このままではいけません」と言った。
「承認すべきではありません」と、はっきり書いた。
けれど、今の自分はどうだろう。
問題を見つけても、まず周囲の意見を考える。
誰かが賛成しているなら、反対しないほうがよいのではないか。
誰かが不快に思うなら、言葉を選んだほうがよいのではないか。
皆が納得する答えが見つかるまで、待ったほうがよいのではないか。
そうしているうちに、自分が何を思っていたのか分からなくなる。
(私は、優しくなったのでしょうか)
レティシアは、意見書から目を離した。
(それとも……ただ、何も決められなくなっただけ?)
馬車が小さく揺れた。
車輪が街道のくぼみを越えたのだろう。
クラリスが、レティシアの手元に目を向けた。
「まだ、その書類を読んでいらっしゃるのですか?」
「ええ」
レティシアは、意見書を閉じなかった。
「何度読んでも、書いたときの自分の考えが理解できるのです」
「それなら、問題はないのではありませんか?」
「いいえ」
レティシアは、静かに首を振った。
「理解できることと、同じ考えを生み出せることは、違いますわ」
クラリスは黙って、彼女の言葉を聞いていた。
「この書類に書かれていることは分かります。どこに問題があって、何が危険なのかも理解できますわ」
レティシアは、紙の上に並ぶ文字を見つめる。
「けれど、今の私が同じ状況に置かれたとしても……きっと、ここまで考えられません」
「……レティシア様」
「問題があると思っても、誰かが反対しなければ、私も反対しない。誰かが決めるのを待ってしまう。そうしているうちに、何も言えなくなるのです」
声は落ち着いていた。
けれど、その奥には、隠しきれない不安があった。
ニーナの手が止まる。
クラリスも、すぐには言葉を返さなかった。
やがて、クラリスは慎重に口を開く。
「無理に、答えを出さなくてもよいのではありませんか?」
「……」
「今すぐ、以前のレティシア様と同じにならなくても。旅をしながら、少しずつ考えていけばよいのだと思います」
優しい言葉だった。
責めるものでもない。
急かすものでもない。
今のレティシアを、そのまま受け入れようとしてくれている。
だからこそ。
レティシアは、初めて自分から首を横に振った。
「いいえ」
クラリスが、わずかに目を見開く。
レティシア自身も驚いていた。
いつもの自分なら、相手の言葉を受け入れていただろう。
「そうですわね」と微笑んでいただろう。
けれど、今は違った。
「分からないままでは……あの人に会えませんわ」
車内の空気が、静かに変わった。
ニーナが顔を上げる。
クラリスは、レティシアをまっすぐに見つめた。
「あの人に?」
「ええ」
レティシアは、窓の外へ目を向けた。
遠くの丘の向こう。
その先に、グランフェルがある。
そして、そこにはもう一人の自分がいる。
怒りを隠さず。
嫌なものを嫌だと言い。
間違っていることを間違っていると言い。
誰かに嫌われることを恐れながらも、それでも自分の考えを口にしているレティシア。
(あの人なら、どうするのでしょう)
この意見書を見たら。
この街道の問題を見つけたら。
誰かが決めるのを待つのか。
それとも、自分で答えを出すのか。
考えれば考えるほど、会いたいという気持ちが強くなっていく。
ただ、失ったものを取り戻したいからではない。
ただ、自分の中へ戻したいからでもない。
「あの人が、何を考えているのか知りたいのです」
レティシアは、ゆっくりと言葉を続けた。
「何を望んでいるのか。どうして辺境で生きているのか。私が失ったものを、あの人はどう扱っているのか」
意見書を胸元へ引き寄せる。
「それを知らなければ、私は自分に何が足りないのか、分かりませんわ」
クラリスは、しばらく黙っていた。
やがて、柔らかく微笑む。
「では、会いに行きましょう」
レティシアは頷いた。
「はい」
今度の返事には、迷いがなかった。
馬車は、王都から遠ざかっていく。
目指す先は、辺境グランフェル。
そこにいる、もう一人のレティシア。
そして、レティシア自身がまだ知らない――。
自分の中にあったもの。
それを見つけるための旅が、始まったばかりだった。




