第8場面 次の問題への引き
グランフェル。
黒薔薇館の応接室では、悪役レティシアが机いっぱいに書類を広げていた。
王都から届いた視察団の訪問予定。
人数。
滞在日数。
視察する場所。
案内役。
さらには、視察団が宿泊する施設の手配まで。
「……まったく。王都の人間は、どうしてこう細かいことばかり気にするのかしら」
レティシアは書類の一枚を指先で弾いた。
「水路は直した。倉庫も整理した。鉱山の設備も改善した。視察する場所なら、いくらでもあるでしょうに」
「視察される側としては、そうもいかんだろう」
向かいの椅子に座った辺境伯ハロルドが、落ち着いた声で答えた。
「王都の者たちは、何かしら報告書に書けるものを探す。問題があれば騒ぐし、問題がなければ、それはそれで疑う」
「面倒ね」
「王都とは、そういう場所だ」
「あなたも元は王都の人間でしょう」
「だからこそ、よく知っている」
ハロルドはそう言って、手元の書類をまとめた。
レティシアは深く息を吐き、椅子の背にもたれかかる。
視察団が来る。
それ自体は、別に構わない。
見たいというなら見せればいい。
自分が何をしてきたのか、隠すつもりはない。
ただし――。
「変なところを見つけて、勝手なことを言い出したら叩き出すわよ」
「視察団をか?」
「視察団だろうと王子だろうと、間違っているものは間違っているでしょう」
ハロルドは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「その調子なら、案内役には困らんな」
「誰が案内なんてするものですか。私は忙しいのよ」
「では、誰に任せる?」
「……」
レティシアは黙り込んだ。
黒薔薇館の使用人たちは、まだ王都の貴族を相手にすることに慣れていない。
村人たちに任せれば、視察団が到着した瞬間に「腹は減っているか?」と聞きかねない。
それはそれで面白そうだが、後始末をするのは自分だ。
「……私がやるしかないじゃない」
「そういうところだ」
「何よ」
「いや。別に」
ハロルドはそれ以上言わず、立ち上がった。
そして、応接室の扉へ向かいかけたところで、ふと足を止める。
「そういえば、もう一つ知らせがある」
「まだあるの?」
レティシアは露骨に嫌そうな顔をした。
「王都から、馬車がこちらへ向かっている」
「視察団?」
「いや」
ハロルドは懐から、もう一枚の書類を取り出した。
先ほどのものとは違う。
封蝋には、ヴァレンフォール侯爵家の紋章が刻まれていた。
レティシアの眉がぴくりと動く。
「……何よ、それ」
「読めば分かる」
「あなた、最近そればかりね」
レティシアは書類をひったくるように受け取った。
封を開き、目を走らせる。
そこに記されていた名前を見た瞬間――。
「……は?」
思わず、声が漏れた。
紙の上には、はっきりと書かれている。
**レティシア・ヴァレンフォール。**
そして、その下には王都からグランフェルへ向かう旅程が記されていた。
レティシアは、ゆっくりと書類から顔を上げる。
「……来るのが早すぎない?」
「王都からグランフェルまでは、近くないぞ」
「そういう意味じゃないわよ!」
思わず叫んだ。
ハロルドは、まったく動じない。
「出発したという知らせが届いてから、まだそれほど経っていないからな」
「そういう問題でもないわ!」
レティシアは書類を握りしめた。
頭の中に、あの白い顔が浮かぶ。
自分と同じ顔。
自分と同じ声。
自分と同じ記憶。
けれど、何もかもが違うように見える、もう一人のレティシア。
(あの人が……ここへ来る?)
なぜ。
何のために。
まさか、本当に自分を連れ戻すつもりなのか。
それとも――。
「……あの馬鹿」
レティシアは、書類を睨みつけた。
「本当に何を考えているのよ!」
その声が黒薔薇館に響いた直後。
窓の外から、低く長い遠吠えが聞こえた。
「アオオオオオオオオオオ――ン!」
レティシアは、勢いよく窓の外を振り向く。
庭では、黒い毛並みの魔獣ノワールが、空に向かって堂々と吠えていた。
「だから、あなたに言っているんじゃないわ!」
ノワールは、もう一度だけ遠吠えを返した。
「アオオオオオオオオオオ――ン!」
「返事をするな!」
ハロルドは窓の外を眺めながら、静かに呟いた。
「……仲がいいな」
「どこがよ!」
黒薔薇館の中に、レティシアの怒鳴り声が響き渡る。
その頃、王都からの馬車は。
確実に、グランフェルへと近づいていた。
そして――。
二人のレティシアが、再び顔を合わせる日も。
もう、遠くはなかった。




