第7場面 アルベルトの決断
レティシアが執務室を去った後も、アルベルトはしばらく席を立てずにいた。
机の上には、先ほどの臨時会議で使った書類が広がっている。
婚約者が二人になる場合の法的な扱い。
侯爵令嬢としての身分。
王家との婚約。
グランフェルへ追放された、もう一人のレティシアの立場。
どの書類を見ても、明確な答えは書かれていなかった。
「……難しいな」
アルベルトは、額に手を当てた。
問題は、何一つ解決していない。
レティシアが二人いるという事実も。
二人とも本人であるということも。
その二人が、これからどう生きるのかも。
そして、自分の婚約者がどうなるのかも。
考えれば考えるほど、頭の中が混乱していく。
侍従が、机の端に新しい茶を置いた。
「殿下。やはり、グランフェルへのご出発をお止めになった方がよろしいのでは?」
アルベルトは、顔を上げた。
「どうして?」
「婚約の問題が、まだ解決しておりません。レティシア様がもう一人のご自身を迎えに行かれれば、さらに事態が複雑になる可能性がございます」
「……そうだね」
アルベルトは、書類へ視線を戻した。
確かに、その通りだった。
今のままでは、何が正しいのか分からない。
王家として、婚約者を二人認めることができるのか。
どちらか一人を選ぶべきなのか。
そもそも、二人を同じ人物として扱い続けてよいのか。
決めるべきことは、いくらでもある。
けれど。
「彼女が初めて、自分で選んだことだ」
アルベルトは、静かに言った。
侍従が、わずかに目を見開く。
「殿下……」
「レティシアは、誰かに命じられたからグランフェルへ行くわけではない」
アルベルトは、先ほどの彼女の姿を思い出していた。
会議室で、文官たちをまっすぐに見つめていたレティシア。
以前なら、周囲の意見に合わせていたかもしれない。
誰かが「それが一番よい」と言えば、きっと微笑んで頷いただろう。
けれど、今の彼女は違った。
もう一人のレティシアを、不要な存在として扱わせなかった。
自分の願いを、はっきりと口にした。
そして、自分で行き先を決めた。
「彼女は、自分の意思であの人に会いに行こうとしている」
アルベルトは、ゆっくりと息を吐く。
「それを、僕が止めていいはずがない」
「ですが、殿下。婚約の問題が……」
「分かっている」
アルベルトは、侍従の言葉を遮った。
声は強くなかった。
けれど、迷いのない響きがあった。
「婚約の問題は、解決しなければならない。王家に関わることだからね」
机の上の書類を一枚、手に取る。
「でも、僕が先に決めてはいけない」
侍従は、黙ってアルベルトを見つめた。
アルベルトの脳裏に、断罪の日の光景が浮かぶ。
大広間に集まった貴族たち。
次々に読み上げられた罪状。
周囲から向けられた視線。
そして、自分自身の言葉。
レティシアが何を考えているのか。
何を望んでいるのか。
十分に確認しないまま、アルベルトは婚約破棄を進めた。
自分一人で決めたわけではない。
周囲の声に押されていた。
状況に流されていた。
けれど、最終的に言葉を発したのは自分だった。
あのとき、レティシアの意思をきちんと聞いていれば。
彼女が何を守ろうとしていたのか、理解しようとしていれば。
何かが変わっていたのかもしれない。
だからこそ。
今度は、同じことを繰り返してはいけなかった。
かつては、レティシアの意思を確認せずに婚約を終わらせた。
今度は逆に。
彼女の意思を確認せずに、婚約を続けることを決めてはいけない。
あるいは、もう一人のレティシアを王都へ戻すことを決めてもいけない。
「二人のレティシアが、どうしたいのか」
アルベルトは、ゆっくりと言葉にした。
「それを聞いてから考える」
侍従は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頭を下げる。
「承知いたしました」
アルベルトは、机の上に置かれた一枚の紙を見つめた。
そこには、先ほど自分が書き出した状況が並んでいる。
レティシアは二人いる。
二人ともレティシア本人である。
一人は王都にいる。
もう一人はグランフェルにいる。
令嬢レティシアは、もう一人を迎えに行く。
迎えに行った後、一緒に暮らしたい。
つまり、レティシアが二人になる。
その場合、自分の婚約者も二人になる。
アルベルトは、ペンを手に取った。
そして、最後の行の下に、新たな一文を書き加える。
『まずは、二人の話を聞く』
書き終えた文字を、アルベルトはじっと見つめた。
問題は、まだ残っている。
制度も。
身分も。
婚約も。
何一つ、解決してはいない。
それでも。
今の自分が最初にすべきことだけは、分かった気がした。
誰かの代わりに決めるのではなく。
誰かを都合よく選ぶのでもなく。
二人のレティシアが、自分の意思で何を望むのか。
その答えを、まず聞くこと。
アルベルトは、静かにペンを置いた。
窓の外では、王宮の鐘が鳴っていた。
グランフェルへ向かう旅は、もうすぐ始まる。
そしてアルベルトは、その旅を止めなかった。




