第5場面 婚約者が二人になる場合
王宮、臨時会議室。
普段は重要な法案や外交案件を扱うための部屋に、今日は数名の文官と法務担当者が集められていた。
長机の中央には、アルベルトが持参した一枚の紙が置かれている。
その隣には、ヴァレンフォール侯爵が座っていた。
クラリスも少し離れた席に控えている。
会議が始まってから、まだそれほど時間は経っていない。
しかし、文官たちの表情はすでに難しいものになっていた。
「では、確認させていただきます」
法務担当者が、慎重に口を開いた。
「現在、レティシア・ヴァレンフォール嬢は、お二人存在している」
「そうだ」
侯爵が答える。
「そして、お二人とも同じ記憶を持ち、同じ人生を歩んできた。つまり、どちらもレティシア嬢本人である、と」
「そうなる」
法務担当者は、手元の書類に何かを書き込んだ。
「……なるほど」
その隣に座っていた文官が、眉間に皺を寄せる。
「つまり、お二人は同一人物でありながら、別々の肉体を持っている、と」
「そうだ」
「そして、どちらもレティシア・ヴァレンフォール嬢である、と」
「そうなる」
文官は、ペン先を紙の上で止めた。
しばらく考えた後、ゆっくりと顔を上げる。
「では、婚約者としては……」
そこで、会議室が静まり返った。
誰もが同じ問題を思い浮かべていた。
アルベルトの婚約者は、誰なのか。
王家と侯爵家の間で結ばれた婚約は、レティシア・ヴァレンフォールという一人の令嬢を対象としている。
しかし、今はその令嬢が二人いる。
どちらも本人であり。
どちらも偽物ではない。
けれど、婚約という制度は、二人の存在を前提としていない。
「……お二人のうち、どちらか一人を婚約者として認める形では?」
別の文官が、恐る恐る提案した。
言葉を選んだのだろう。
声はひどく慎重だった。
「たとえば、現在王都にいらっしゃる令嬢レティシア様を、正式な婚約者として扱う。グランフェルにいるもう一人の方については……」
その先を、文官は言い淀んだ。
会議室の空気が、わずかに重くなる。
アルベルトは、机の上の紙を見つめた。
確かに、制度だけを考えれば、それが最も簡単なのかもしれない。
婚約者は一人。
侯爵令嬢も一人。
王家としても、貴族社会としても、説明しやすい。
けれど。
「それでは」
静かな声が、会議室に響いた。
全員が顔を上げる。
いつの間にか、扉のそばに令嬢レティシアが立っていた。
先ほどまで別室で待っていたはずの彼女が、いつの間にか会議室へ入ってきていたのだ。
アルベルトが驚いて立ち上がる。
「レティシア……?」
「申し訳ありません。聞こえてしまいましたの」
レティシアは、ゆっくりと会議室の中へ歩み寄った。
そして、文官たちを見渡す。
「それでは、もう一人の私を、再び不要な存在として扱うことになりますわ」
誰も、すぐには答えられなかった。
レティシアは、言葉を続ける。
「私たちは、以前にも同じことをいたしました」
その声は穏やかだった。
けれど、以前のように相手の反応を恐れている様子はなかった。
「私の中にあった怒りや誇りを、悪いものとして切り離しました。あの人を、私の不要な部分として扱いましたわ」
レティシアは、胸の前で手を重ねる。
「その結果、あの人はグランフェルへ追放されました」
会議室の誰もが、黙って聞いていた。
「そして今度は、私たちの都合に合わせて、あの人を戻すか、戻さないかを決めるのですか?」
アルベルトは、すぐに答えられなかった。
侯爵も、娘の言葉を否定しなかった。
レティシアは、静かに首を振る。
「それでは、また同じことを繰り返してしまいますわ」
文官の一人が、困惑したように口を開く。
「しかし、制度上は……」
「制度を整える必要があることは、理解しております」
レティシアは、穏やかに頷いた。
「けれど、先に決めるべきことが別にあるのではありませんか?」
彼女は、机の上の紙に目を向けた。
そこには、アルベルトが書き出した問題が並んでいる。
婚約者は誰か。
二人の身分をどうするか。
王家と貴族社会は、どう受け止めるか。
どれも重要な問題だった。
けれど、レティシアはその紙の下に、もう一つの問いを置くように言った。
「悪役レティシア本人が、何を望んでいるのか」
次に、自分の胸へ手を当てる。
「私が、何を望んでいるのか」
そして、静かに続けた。
「私たち二人が、これからどのような関係を築きたいのか」
誰も、口を挟まなかった。
「王子殿下の婚約者を誰にするか。それだけを先に考えてしまえば、私たちはまた、どちらかを都合のよい形に押し込めることになりますわ」
レティシアの声に、強い怒りはなかった。
けれど、確かな意思があった。
「まずは、二人のレティシアが、どう生きたいのかを考えるべきです」
アルベルトは、ゆっくりと息を吐いた。
会議が始まる前まで、彼は制度の問題を整理しようとしていた。
婚約者が二人になる。
その事実を、どう法的に扱うのか。
けれど今、目の前にいるレティシアは、その順番そのものを問い直している。
制度を考える前に。
王家の都合を考える前に。
二人の人間が、何を望んでいるのかを確認する。
「……分かった」
アルベルトは、ようやく口を開いた。
「まずは、二人の意思を確認しよう」
法務担当者は、困ったように書類を見下ろした。
「では、婚約についての結論は……」
「保留だね」
アルベルトが答える。
「少なくとも、今すぐ決めることではない」
文官たちは顔を見合わせた。
問題は、何も解決していない。
むしろ、考えるべきことは増えている。
それでも。
誰かを不要な存在として切り捨てる結論だけは、ひとまず避けられた。
レティシアは、静かに頷いた。
その表情には、ほんの少しだけ安堵が浮かんでいた。
けれど、彼女自身もまだ分かっていない。
グランフェルにいるもう一人の自分が、何を望んでいるのか。
そして、自分が本当に望んでいるものが何なのか。
それを確かめるために。
彼女は、辺境へ向かうのだ。




