第2場面 婚約者が二人いるという問題
「では、順番に整理しよう」
アルベルトは、机の上に新しい紙を広げた。
先ほどまでの混乱を、どうにか頭の中から追い出そうとしているらしい。
レティシアは、その向かいで姿勢を正していた。
ヴァレンフォール侯爵は、少し離れた場所から二人を見守っている。
「まず、確認したい」
アルベルトは、紙の上に一つ目の項目を書いた。
「婚約者として正式に認められるのは、どちらなのか」
「どちらもレティシアですわ」
レティシアは、すぐに答えた。
アルベルトの手が止まる。
「……そうだね」
彼は一度頷き、紙に何かを書き込んだ。
「では、二人ともレティシア・ヴァレンフォール嬢なのか」
「はい」
「片方は侯爵令嬢として王都にいて、もう片方は追放された存在としてグランフェルにいる」
「はい」
「つまり、同じ名前と記憶を持ちながら、現在の身分が異なっている」
「そうなりますわね」
アルベルトは、ゆっくりと筆を置いた。
「……ややこしいな」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
即答だった。
レティシアは、首を傾げる。
「ですが、二人とも私ですわ」
「君にとっては、そうなのだろうね」
アルベルトはこめかみを押さえた。
「けれど、王家の立場からすれば、婚約者が二人いるというのは簡単な話ではないんだ」
「なぜですの?」
「なぜって……」
アルベルトは、紙に書かれた項目を指で追った。
「まず、婚約は個人同士の約束ではあるけれど、王族の場合は家同士の取り決めでもある。どちらか一人を正式な婚約者として認めるのか。二人とも認めるのか。そもそも、二人を同一人物として扱えるのか」
「同一人物ですわ」
「だから、それは君たちの事情としては分かっているよ」
アルベルトは、少し疲れたように言った。
「でも、貴族社会が同じように受け止めるとは限らない」
その言葉に、レティシアは黙った。
王都の人々は、悪役レティシアを「レティシアの悪い部分」と呼んだ。
本物は、王都にいる自分だけ。
もう一人は、切り離された不要な存在。
そう決めたのは、彼女自身ではなかった。
周囲の人々だった。
「もし、彼女が王都へ戻ってきたら……」
アルベルトは、慎重に続けた。
「貴族たちは、どちらを本物だと言うだろうね」
「どちらも本物ですわ」
「そう言ってくれる人ばかりなら、問題はないんだけど」
アルベルトは、紙の端に新しい項目を書き加えた。
* 王家は二人をどう扱うのか
* 貴族社会は二人をどう受け止めるのか
* 追放された側の身分はどうなるのか
* 婚約の効力はどちらに及ぶのか
書けば書くほど、紙の上の問題が増えていく。
レティシアは、その様子を眺めていた。
(殿下は、ずいぶんと難しく考えていらっしゃいますのね)
彼女にとっては、当たり前のことだった。
自分が二人いる。
だから、二人で暮らしたい。
ただ、それだけだ。
しかし。
アルベルトは、そこで筆を止めた。
「もう一つ、確認したいことがある」
「何でしょう?」
「彼女は、王都に戻ることを望んでいるのかい?」
レティシアは、すぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向ける。
グランフェルの景色は、まだ見たことがない。
けれど、報告書で知ったことならいくつもある。
水路を修理したこと。
鉱山の設備を改善したこと。
倉庫の管理を見直したこと。
辺境伯ハロルドや、グランフェルの人々と関わりながら。
もう一人の自分は、そこで生活している。
「それは、まだ分かりませんわ」
レティシアは、静かに答えた。
アルベルトは、少しだけ目を見開いた。
「では、君が連れ戻すと決めたわけではない?」
「はい」
「まずは本人の話を聞く?」
「はい。お父様にも、そう言われましたの」
レティシアは、胸元に手を添えた。
「相手の答えを聞いてから決めるように、と」
アルベルトの表情が、わずかに和らぐ。
それならば、まだ一方的に決めつけているわけではない。
悪役レティシアを、ただ王都へ連れ戻すつもりではないのだ。
「……それなら、少し安心したよ」
「ご心配をおかけしましたか?」
「うん。かなり」
「まあ……」
レティシアは、困ったように微笑んだ。
その様子を見て、アルベルトは少しだけ肩の力を抜いた。
しかし。
レティシアは、ふと思い出したように続けた。
「ただ、もし本人が望むなら」
「うん」
「一緒に暮らしたいと思っていますわ」
アルベルトの手から、筆が滑り落ちた。
ころり、と机の上を転がる。
「……僕の婚約者として?」
「それは……」
レティシアは、初めて言葉に詰まった。
そこまで考えていたわけではなかった。
二人で暮らしたい。
もう一人の自分が、遠く離れた場所で一人きりになっている状態を終わらせたい。
それは、確かに自分の願いだった。
けれど。
王子の婚約者として。
侯爵令嬢として。
王都の人間として。
どのような形で一緒に暮らすのかまでは、考えていなかった。
「……そこまでは、まだ」
「まだ?」
アルベルトが、恐る恐る聞き返す。
「考えておりませんでしたわ」
「そうか……」
アルベルトは、落ちた筆を拾い上げた。
けれど、すぐには紙の上へ戻せない。
レティシアは、自分の発言を振り返っていた。
「一緒に暮らしたい」というのは、自分の希望だ。
悪役レティシアも、同じように望んでいるとは限らない。
彼女には、彼女の考えがある。
彼女には、彼女の怒りがある。
彼女には、彼女が築いたグランフェルでの生活がある。
もしかすると。
王都へ戻りたくないと思っているかもしれない。
自分と一緒に暮らしたくないと思っているかもしれない。
そもそも、自分に会いたくないと思っている可能性だってある。
「……私」
レティシアは、小さく呟いた。
「少し、先走っていたのかもしれませんわね」
アルベルトは、彼女を見つめた。
「そう思うのかい?」
「はい」
レティシアは、静かに頷いた。
「私は、あの方を私の半分だと思っていますの。ですから、二人で暮らすのが自然なことだと……」
そこで、一度言葉を切る。
「けれど、あの方も一人の人間ですわ」
侯爵が、静かに目を細めた。
レティシアは続ける。
「私が一緒に暮らしたいと思っていても、あの方が同じように思うとは限りませんもの」
アルベルトは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと頷く。
「そうだね」
「まずは、本人に聞かなければなりませんわ」
「うん」
「戻りたいのか。戻りたくないのか。私と暮らしたいのか。それとも、グランフェルで暮らし続けたいのか」
レティシアは、膝の上で手を握った。
「その答えを聞いてから、考えますわ」
アルベルトは、今度こそ筆を紙の上に置いた。
そして、先ほどまで書き連ねていた問題の下に、ゆっくりと一行を書き加える。
――本人たちの意思を、先に確認すること。
その文字を見つめながら、アルベルトは小さく息を吐いた。
婚約者が二人になる問題は、まだ何も解決していない。
けれど。
少なくとも、考える順番だけは見えてきた気がした。




