第12場面 グランフェル側の同時刻
グランフェル。
黒薔薇館の一室で、悪役レティシアは机いっぱいに書類を広げていた。
「ここは数字が合っていないわね」
一枚の報告書を指で叩く。
「鉱山の採掘量と搬出量が一致していない。誰かが記録を間違えているか、途中で何かが起きているわ」
「後で担当者に確認させよう」
向かいの椅子に座った辺境伯ハロルドが、淡々と答える。
「後で、じゃないわ。今日中よ」
「分かった」
「それから、この倉庫の備蓄記録。これでは冬を越せるかどうか判断できないわ。村ごとの消費量も――」
「レティシア」
「何よ」
「新しい通達が来ている」
ハロルドは、机の端に置かれていた封書を持ち上げた。
悪役レティシアは、書類から顔を上げる。
「通達?」
「王都からだ」
「また余計な指示でも寄越してきたの?」
「読めば分かる」
ハロルドが封を切り、紙を広げる。
その内容に目を通したレティシアは、眉をひそめた。
「……王都より、視察団が来る?」
「ああ。そうらしい」
「視察? 何を見に来るのよ」
「お前の働きぶりだろう」
「今さら?」
レティシアは、あからさまに顔をしかめた。
「水路を直したのも、鉱山の設備を見直したのも、倉庫を整理したのも、全部報告していたでしょう」
「報告したから、実際に確認したくなったのではないか」
「わざわざ人を寄越すほどのこと?」
「王都の人間にとっては、そうなのだろう」
「ふん。現場を知らない連中が来ても、邪魔になるだけよ」
「それも含めて、視察なのではないか?」
「開き直らないでちょうだい」
ハロルドは気にした様子もなく、もう一枚の紙を取り出した。
「それと、こちらも届いている」
「まだあるの?」
レティシアは、うんざりしたように手を伸ばした。
紙を受け取り、目を落とす。
そこに書かれていた内容を理解した瞬間。
彼女の表情から、わずかに色が消えた。
王都より。
レティシア・ヴァレンフォール侯爵令嬢が、グランフェルへ向かう。
その一文。
レティシアは、しばらく黙っていた。
「……は?」
ようやく漏れた声は、ひどく間の抜けたものだった。
ハロルドは、いつもと変わらない声で告げる。
「お前を迎えに来るそうだ」
「誰が?」
「もう一人のお前が」
「……何しに?」
「それは本人に聞け」
レティシアは、紙を握りしめた。
くしゃり、と音がする。
「……」
視線が、ゆっくりと窓の外へ向いた。
黒薔薇館の庭。
黒い花々の間を、魔獣ノワールがのんびりと歩いている。
その光景を見つめながら、レティシアは小さく呟いた。
「……来るの?」
声に込められていたのは、怒りだけではなかった。
どうして来るのか分からない。
何を言われるのか分からない。
自分を連れ戻すつもりなのか。
それとも、ただ会いに来るだけなのか。
警戒する気持ちがある。
腹立たしい気持ちもある。
けれど、その奥には。
ほんの少しだけ。
自分の存在を、まだ必要としているのかもしれないという期待があった。
レティシアは、すぐにその感情を押し込める。
「……来たって、帰るつもりはないからね!」
ハロルドは、間髪入れずに答えた。
「誰も帰れとは言っていない」
「うるさい!」
「まだ何も言っていないぞ」
「その顔が言っているのよ!」
「どんな顔だ」
「知らないわよ!」
レティシアは紙を机の上に叩きつけた。
けれど、指先はまだ、その紙を離していなかった。
まるで。
手放してしまえば、書かれている知らせまで消えてしまうように。
そのとき。
黒薔薇館の外から、魔獣ノワールの遠吠えが響いた。
「ウォォォォン!」
レティシアは、びくりと肩を跳ねさせる。
そして、窓の外へ向かって叫んだ。
「うるさいわね! あの馬鹿! 何を考えてるのよ!」
ノワールは、もう一度だけ遠吠えを返した。
「ウォン!」
「あなたに言っているんじゃないわよ!」
ハロルドは、机の上の書類を拾い上げながら、静かに呟いた。
「どちらにしても、来るまでには少し時間がある」
「……そうね」
レティシアは答えた。
けれど、その視線は窓の外から戻らなかった。
王都から。
もう一人の自分が。
こちらへ向かっている。
その事実が、胸の奥で妙に落ち着かない音を立てていた。
「……本当に、何を考えているのよ」
今度の呟きは、誰にも聞こえないほど小さかった。




