第10場面 旅立ちの朝第10場面 旅立ちの朝
旅立ちの朝。
ヴァレンフォール侯爵邸の正門前には、一台の馬車が停まっていた。
荷物はすでに積み込まれ、馬の準備も整っている。
その隣には、旅の護衛を務める騎士たちが整然と並んでいた。
いつもと変わらない、朝の風景。
けれど。
レティシアにとっては、少しだけ特別な朝だった。
「防寒具は持ちましたか?」
母エレノアが、娘の外套を確認する。
「ええ。ニーナが何度も確認していましたわ」
「薬草茶も?」
「持ちました」
「替えの靴下は?」
「……はい」
「無理をしてはいけませんよ」
「分かっていますわ」
レティシアが微笑むと、母はまだ心配そうに眉を下げた。
「食事を抜いてはいけません」
「はい」
「疲れたら、きちんと休むのですよ」
「分かっています」
「寒かったら、きちんと上着を――」
「お母様」
レティシアは、そっと母の手を取った。
エレノアの手は、少し冷えていた。
それでも、握り返す力は優しかった。
「私、戻ってきますわ」
その言葉に、母は一瞬だけ目を見開いた。
けれどすぐに、柔らかく微笑む。
「ええ」
エレノアは、娘の手を両手で包み込んだ。
「待っています」
短い言葉だった。
けれど、その中にはたくさんのものが込められていた。
無事に帰ってきてほしい。
無理をしないでほしい。
そして、どんな答えを見つけても。
帰る場所を忘れないでほしい。
レティシアは、母の手を握ったまま頷いた。
「行ってまいりますわ」
「ええ。行ってらっしゃい」
その横で、父ヴァレンフォール侯爵は黙って娘を見つめていた。
いつもなら、出発前にもいくつか確認事項を並べるところだろう。
護衛の人数。
宿泊先。
グランフェルまでの経路。
辺境伯への連絡。
けれど今日は、それらをすでに確認し終えているらしい。
侯爵は、懐から一枚の書類を取り出した。
「レティシア」
「はい、お父様」
「これを持っていけ」
差し出された紙を見て、レティシアは目を瞬いた。
「……これを?」
それは、以前に書庫で見つけた意見書の写しだった。
『北部諸侯領への臨時徴税案に関する意見書』
その最後に記された一文。
――本案は、現時点では承認すべきではありません。
レティシアは、静かに紙を受け取った。
見慣れた筆跡。
自分の文字。
自分の考え。
けれど、今の自分には、あの頃のように書くことができない。
侯爵は、娘の表情を見ながら言った。
「お前が、何を探しているのか忘れないように」
レティシアは、書類から顔を上げた。
「何を探しているのか……」
「そうだ」
父の声は、いつもと変わらず落ち着いていた。
「お前は、もう一人のお前に会いに行く」
「はい」
「だが、ただ連れ戻すためだけではないのだろう」
レティシアは答えなかった。
すぐに言葉にできるほど、考えはまとまっていなかった。
あの人に会いたい。
話をしたい。
何を考えているのか知りたい。
自分の中から失われたものが、どんなものだったのか確かめたい。
けれど。
それだけではない気もしていた。
父は、それ以上を尋ねなかった。
ただ、書類の一文を指で示す。
「以前のお前は、必要なことを必要だと言った」
レティシアは、そこに記された言葉を見つめた。
「本案は、現時点では承認すべきではありません」
かつての自分は。
誰かに嫌われるかもしれないと分かっていても、問題があると言った。
相手の機嫌よりも、守るべきものを優先した。
その結果、冷たいと言われた。
厳しいと言われた。
傲慢だと、何度も責められた。
けれど。
その言葉の奥には、確かに自分の意思があった。
レティシアは、書類を胸元に抱えた。
そして、静かに頷く。
「はい」
父は、それ以上何も言わなかった。
ただ、わずかに目を細める。
「気をつけて行ってこい」
「はい、お父様」
ニーナが馬車のそばから声をかけた。
「お嬢様、お時間です」
「分かりましたわ」
レティシアは、もう一度だけ両親を見た。
母は微笑んでいる。
父はいつものように厳しい顔をしている。
けれど、その二人の視線が、自分を送り出してくれていることは分かった。
レティシアは馬車へ向かって歩き出す。
その足取りは、以前よりもずっと確かだった。
まだ、答えは見つかっていない。
何を取り戻したいのか。
本当に、もう一人の自分を連れ戻したいのか。
それとも。
彼女と出会うことで、自分自身を知りたいのか。
分からない。
それでも。
これは、誰かに命じられた旅ではない。
誰かの望みに合わせた行動でもない。
自分が会いたいと思ったから。
自分が確かめたいと思ったから。
だから、行く。
レティシアは馬車に乗り込む前に、胸元の書類へそっと手を添えた。
――本案は、現時点では承認すべきではありません。
その一文が、静かに背中を押しているような気がした。
「行ってまいりますわ」
レティシアが告げる。
母が手を振る。
父が小さく頷く。
護衛の騎士たちが姿勢を正す。
やがて、馬車がゆっくりと動き始めた。
侯爵邸の門を抜ける。
王都の街並みが、少しずつ後ろへ流れていく。
レティシアは窓から身を乗り出すことなく、ただ前を見つめていた。
その先にあるのは。
遠い辺境、グランフェル。
そして。
もう一人の、自分。
「……待っていてくださいませ」
誰に聞かせるでもなく、レティシアは呟いた。
馬車は、王都の外へ向かって進んでいった。




