第9場面 王都の反応がさらに広がる
レティシアの出発準備が進む一方。
王都では、その話題が日を追うごとに大きくなっていた。
「自分の悪い部分を取り戻しに行くですって?」
貴族の茶会で、誰かが呆れたように声を上げる。
「正気ではありませんわね」
「ええ。普通なら、悪い部分など捨ててしまいたいものですもの」
「それなのに、わざわざ辺境まで迎えに行くなんて……」
扇の向こうで、ひそひそとした声が交わされる。
「悪役は悪役らしく、辺境で大人しくしていればよろしいのですわ」
「そうそう。王都に戻ってこられても、困りますもの」
そこまで言ったところで、別の貴族が小さく咳払いをした。
「ですが……グランフェルで成果を上げているという話もありますわよ」
「成果?」
「壊れた水路を修理したとか」
「鉱山の設備を改善したとも聞きましたわ」
「倉庫の管理方法まで変えたそうです」
一瞬、茶会の空気が止まった。
「……それは、本当にあのレティシア嬢ですの?」
「ほかに誰がいるというのです?」
「でも、あの方は問題ばかり起こしていたのでは?」
「問題を起こしていたというより、問題を見つけていたのではありませんこと?」
誰かがそう口にすると、周囲から微妙な沈黙が返ってきた。
その言葉を、誰もすぐには否定できなかった。
ただし。
「それでも、口の悪さは変わらないのでしょうね」
「辺境の方々は、よく耐えられますこと」
「むしろ、何でもはっきり言ってくれるから助かる、という話も……」
「まあ!」
誰かが驚きの声を上げる。
「辺境というのは、ずいぶんと変わった場所ですのね」
王都では、口の悪さは欠点だった。
しかし、辺境では。
必要なことを言わないほうが、よほど困ることもあるらしい。
その違いを、まだ誰も正確には理解できていなかった。
けれど、疑問を抱く者は少しずつ増えていた。
◇
王宮の文官たちもまた、グランフェルから届いた報告書を調べ始めていた。
きっかけは、何気ない一言だった。
「この水路修繕の報告ですが……発案者の名前に、レティシア・ヴァレンフォールとあります」
「同名の別人ではないのか?」
「いえ。王都から追放された、あのレティシア嬢です」
文官は書類をめくった。
「こちらは鉱山設備の改善案。これも彼女の名前が」
「倉庫の在庫管理も?」
「はい。さらに、村ごとの備蓄量を調査し、輸送経路の見直しまで行っているようです」
机の上に、次々と報告書が並べられていく。
最初は、単なる確認のつもりだった。
悪役令嬢が辺境で何をしているのか。
王都に戻ってくる可能性はあるのか。
問題を起こしていないか。
その程度の調査だった。
だが、書類を読み進めるうちに、文官たちの表情が変わっていった。
「……この修繕計画、かなり具体的ですね」
「現場の人間から聞き取りをしている」
「費用の見積もりも、必要な資材も、作業の順番まで整理されているぞ」
「こちらの鉱山案もそうです。設備を新しくするだけではなく、事故が起きやすい箇所を先に直している」
一人の文官が、報告書の端を指で叩いた。
「これを、あのレティシア嬢が?」
「以前から、こういう仕事をしていたのではありませんか」
その言葉に、別の文官が顔を上げた。
「以前から?」
「王宮の予算案や、各領地への支援計画。彼女が関わっていた書類には、似たような視点がありました」
「しかし、彼女は王子殿下に逆らい、貴族たちを怒らせていたと……」
「逆らったのではなく、問題点を指摘していたのかもしれません」
誰も、すぐには返事をしなかった。
王都では、彼女の言葉の厳しさばかりが語られていた。
けれど、厳しい言葉の裏側に、何があったのか。
それを調べようとする者は、今までほとんどいなかった。
「悪役、という呼び方だけでは……説明がつきませんね」
文官の一人が、ぽつりと呟いた。
◇
その頃、クラリスは王宮の廊下を歩いていた。
すれ違う人々の会話が、自然と耳に入ってくる。
「レティシア様がいらっしゃれば、すぐに判断してくださったのに」
「今度の案件は、誰に確認すればいいのかしら」
「まあ、彼女はもうグランフェルへ向かうのでしょう?」
「ええ。自分の悪い部分を迎えに行くそうですよ」
「変な話ですわね」
クラリスは、足を止めた。
以前なら、聞き流していたかもしれない。
レティシアがいなくなった。
それなら、別の誰かが対応すればいい。
そう考えていた。
けれど今は、その言葉が妙に引っかかった。
――別の誰か。
――対応すればいい。
本当に、それだけで済むのだろうか。
レティシアは以前、王宮の中で「不要な部分」と判断された。
怒り。
反論。
譲らない意見。
相手の機嫌を損ねる言葉。
それらを取り除けば、もっと扱いやすくなる。
もっと優しくなれる。
もっと愛される。
そう思われていた。
けれど。
もし、また同じことが起きたら。
今度は誰が切り捨てられるのだろう。
「あなたは、少し厳しすぎます」
「あなたは、周囲に合わせるべきです」
「そんな部分は、なくしてしまえばいい」
誰かがそう言われたとき。
周囲はまた、便利になることを望んでしまうのではないか。
クラリスは胸の前で手を握った。
(私たちは、また誰かを不要な部分として切り捨てるのではないかしら)
その考えが浮かんだことに、彼女自身が驚いていた。
以前の自分なら、レティシアの厳しさを恐れていた。
けれど今は、その厳しさが何を守っていたのかを考え始めている。
「……レティシア様」
クラリスは、誰もいない廊下で小さく呟いた。
「あなたは、何を見つけたのですか?」
◇
一方、アルベルトは執務室で書類の山を前にしていた。
目の前には、いくつもの案件が積み重なっている。
北部への支援物資。
各領地からの税収報告。
王宮内の人員配置。
来月の会議予定。
どれも、以前なら滞りなく処理されていたものだった。
アルベルトは一枚の書類を手に取った。
「この件は……」
そこで、自然に言葉が止まる。
「レティシア嬢に聞けば……」
室内にいた文官が、静かに答えた。
「もう、彼女はいません」
アルベルトは、書類を持ったまま固まった。
そうだった。
レティシアは、グランフェルへ向かう準備をしている。
今、この場にはいない。
「では、誰がこの資料を確認したのです?」
「まだ、確認できておりません」
「この予算案の問題点は?」
「現在、調査中です」
「各領地への連絡は?」
「担当者を決める必要があります」
アルベルトは、ゆっくりと机の上を見渡した。
以前なら、レティシアが必要な資料を集めていた。
問題のある箇所を見つけていた。
関係者に確認を取り、意見をまとめていた。
会議で話が滞れば、誰が何を決めるべきなのかを整理していた。
彼女が動いていたから、物事は自然に進んでいた。
それが、当たり前になっていた。
「……こんなに、あったのか」
思わず、声が漏れた。
文官が顔を上げる。
「何がでしょうか?」
「彼女が処理していた仕事だ」
アルベルトは、積み上がった書類を見つめた。
「僕は、彼女が手伝ってくれていると思っていた」
けれど、違った。
彼女はただ手伝っていたのではない。
王宮の仕事が止まらないように、見えないところで支えていたのだ。
その事実を、彼は今になって思い知らされていた。
「この件は、誰が決める?」
「殿下のご判断を仰ぎたく」
「では、その判断に必要な資料は?」
「レティシア嬢が整理していたものが多く……」
また、名前が出た。
アルベルトは目を閉じた。
以前なら、彼女がすぐに答えてくれた。
厳しい顔で問題を指摘し、時には自分の意見を押し通しながらも、最後には必ず形にしてくれた。
その姿を思い出す。
『決断を他人に任せることは、優しさではありません』
あの言葉が、今になって胸に刺さった。
彼女は、誰かに嫌われることを恐れず、決めるべきことを決めようとしていた。
自分はそれを、厳しすぎると受け取った。
扱いにくいと感じた。
もっと穏やかで、もっと優しい彼女ならいいのにと思った。
けれど。
穏やかになった彼女がいなくなった今。
王宮は、少しずつ立ち止まり始めている。
「殿下?」
呼びかけられ、アルベルトは顔を上げた。
「……いや」
彼は、書類を一枚ずつ手元に引き寄せた。
「まずは、僕たちで確認しよう」
「はい」
「分からないことがあれば、調べる。判断が必要なら、責任を持って決める」
言葉にしてみると、それは当たり前のことだった。
けれど、今まで自分たちは、その当たり前の多くをレティシアに預けていた。
アルベルトは、窓の外を見た。
王都の向こう。
遠く離れたグランフェルへ、彼女は向かおうとしている。
自分の半分を迎えに行くために。
「……レティシア」
その名を呼んでも、返事はなかった。
ただ、机の上に積まれた書類だけが。
彼女の不在を、静かに示していた。
そして王都は、ようやく少しずつ理解し始めていた。
自分たちが「不要な部分」と呼んで切り捨てたものが。
本当は、何を支えていたのかを。




