第8場面 出発準備
グランフェルへの出発が決まると、侯爵邸は一気に慌ただしくなった。
旅程の確認。
護衛の手配。
馬車の準備。
そして何より。
レティシアの荷造りである。
「こちらはお持ちになりますか?」
侍女の一人が、衣装部屋から運び出した箱を開いた。
中に入っていたのは、淡い色のドレスだった。
「ええ。そちらは必要ですわ」
「承知いたしました」
その横で、ニーナが別の箱を開ける。
中には、薄手の手袋や扇、香水瓶などが整然と並んでいた。
ニーナはそれらを一つずつ確認し、淡々と仕分けていく。
「防寒具は必要です」
「グランフェルは、そんなに寒いのですか?」
「辺境ですから」
「辺境ですと、寒くなるのですの?」
レティシアは、少し不思議そうに首を傾げた。
ニーナは手にしていた厚手の外套を、ゆっくりと箱へ入れる。
「お嬢様。グランフェルは王都より北にあり、山も多く、冬は厳しい土地です」
「まあ……」
「雪が降ることもあります」
「まあ!」
「道が凍ることもあります」
「まあまあ!」
「魔獣が出ることもあります」
「それは、寒さとは別の問題ではありませんこと?」
「はい。別の問題です」
ニーナは即答した。
レティシアはしばらく考えたあと、薄いレースの手袋を手に取った。
「では、この手袋は……」
「置いていきます」
「この香水は?」
「置いていきます」
「この扇は?」
ニーナの手が止まった。
しばしの沈黙。
「……一応、持っていきましょう」
「なぜですの?」
「何かを扇ぐ必要があるかもしれませんので」
レティシアは、扇とニーナの顔を交互に見た。
「グランフェルでは、そんなに暑くなるのですか?」
「いえ」
「では、何を扇ぐのです?」
「それは……」
ニーナは言葉に詰まった。
怒りで熱くなった誰かの頭。
火のついた鍋。
あるいは、悪役レティシアの周囲で起きる何らかの騒ぎ。
いくつかの可能性が頭をよぎったが、どれも口にはできなかった。
「念のためです」
「まあ。旅には、念のためが大切なのですね」
「はい。お嬢様の場合は、特に」
ニーナは、扇を箱の隅へ押し込んだ。
そのとき。
別の侍女が、数枚の報告書を持って部屋へ入ってきた。
「ニーナさん。こちら、グランフェルの現地情報です」
「ありがとうございます」
ニーナは受け取った書類に目を通した。
そこには、辺境でのもう一人のレティシアについて、簡単な報告がまとめられていた。
「ええと……」
ニーナが読み上げる。
「まず、水路の修理に関わったとあります」
「水路の修理?」
レティシアが目を瞬く。
「はい。破損箇所を見つけ、修理方法を指示し、住民たちと共に復旧させたそうです」
「まあ……」
「次に、倉庫の整理。備蓄の管理方法を見直し、使われていなかった場所を有効活用したと」
「倉庫まで?」
「さらに、魔獣を飼い始めたそうです」
ニーナの声が、少しだけ低くなった。
「……魔獣を?」
「はい」
レティシアは、手にしていた衣服をそっと畳んだ。
「飼うことができるものなのですの?」
「普通は、あまり飼わないと思います」
「そうですわよね」
「黒い狼のような魔獣だそうです」
「まあ。狼を……」
レティシアは、まだ驚いていた。
けれど、ニーナの報告は終わらない。
「それから、辺境伯様と口論したと」
「辺境伯様と?」
「はい」
「何についてですの?」
「詳しい内容までは書かれておりませんが、かなり激しい口論だったようです」
「まあ……」
レティシアは、少し困ったように眉を下げた。
しかし、ニーナはさらに報告書を読み進める。
「鉱山の設備にも口を出したそうです」
「鉱山の設備に?」
「危険な箇所を指摘し、作業手順の改善を求めたとあります」
「……」
「現在では、村人たちから仕事を頼まれることも多いそうです」
ニーナは、そこで書類を閉じた。
部屋の中に、妙な沈黙が落ちる。
レティシアは、しばらく何も言わなかった。
水路を直し。
倉庫を整理し。
魔獣を飼い。
辺境伯と口論し。
鉱山の設備に意見を述べ。
村人たちから仕事を頼まれている。
それは、王都で聞いていた「悪役部分」の姿とは、ずいぶん違っていた。
少なくとも。
誰かに必要とされていることだけは、間違いない。
「……私の半分は」
レティシアは、ぽつりと呟いた。
「ずいぶんと自由に暮らしているのですね」
「自由、というより……」
ニーナは、報告書を見下ろした。
「好き勝手に動き回っているようにも見えますが」
「けれど、皆様のお役に立っているのでしょう?」
「それは、そうですが」
「では、自由に暮らしているのですわ」
レティシアは、どこか羨ましそうに微笑んだ。
誰かの顔色をうかがうことなく。
嫌われることを恐れず。
必要だと思ったことを、必要だと言う。
そして、頼まれれば手を貸す。
そんなふうに、自分の判断で日々を過ごしている。
「お嬢様も、少しは見習っていただきたいものです」
ニーナが、思わず口にした。
言ってから。
はっとしたように目を見開く。
「……あ」
しまった。
今の言葉は、あまりにも率直だった。
ニーナは慌てて口元を押さえた。
「も、申し訳ありません! 出過ぎたことを――」
「そうですわね」
レティシアは、怒らなかった。
むしろ、手にしていた扇を見つめながら、少し考えていた。
ニーナは固まった。
以前のレティシアなら。
きっと、困ったように笑っていた。
「まあ、私には無理ですわ」
あるいは。
「私なりに努力してみますわね」
そう言って、相手が安心する答えを選んでいたはずだ。
けれど。
「見習うべきかもしれません」
レティシアは、静かにそう言った。
ニーナの手が、口元で止まる。
「……お嬢様?」
「私の半分が、あちらで自分の考えを持って暮らしているのなら」
レティシアは、ゆっくりと顔を上げた。
「私も、少しは自分の考えで動いてみるべきなのでしょうね」
ニーナは、何も言えなかった。
レティシアは、薄いレースの手袋を箱から取り出した。
そして。
少しだけ迷ったあと、元の場所へ戻した。
「こちらは置いていきましょう」
「……はい」
「その代わり、防寒具をもう一枚お願いできますかしら」
「もちろんです!」
ニーナは、勢いよく返事をした。
その声があまりに大きかったため、部屋の外にいた侍女たちが一斉に振り返る。
レティシアは、そんな彼女たちを見て微笑んだ。
旅の準備は、まだ始まったばかりだった。
けれど。
その荷物の中には、今までのレティシアなら選ばなかったものが、少しずつ増え始めていた。
厚手の外套。
丈夫な靴。
実用的な手袋。
そして。
自分で決めた、グランフェルへの道。




