第7場面 王子との最後の会話
出発を数日後に控えた午後。
王城の庭園には、穏やかな風が吹いていた。
花壇の花々は色鮮やかに咲き、噴水の水が陽光を受けてきらめいている。
いつもなら、レティシアはその景色を眺めながら、誰かの隣で微笑んでいただろう。
けれど今日は、一人だった。
「レティシア」
背後から声がした。
振り返ると、アルベルトが立っていた。
「殿下」
レティシアは、軽く礼をする。
「お越しでしたのね」
「ああ。少し、君と話したくて」
「ええ。どうぞ」
二人は、庭園の奥へ続く小道を歩き始めた。
アルベルトは、しばらく何も言わなかった。
何かを話そうとしている。
けれど、言葉を選んでいる。
そのことが、レティシアにも伝わってきた。
やがて、アルベルトが口を開く。
「グランフェルへ行けば、危険な目に遭うかもしれない」
「そうかもしれませんわ」
レティシアは、あっさりと答えた。
アルベルトが、わずかに眉を寄せる。
「……怖くはないのかい?」
「怖いですわ」
「それでも行くのか?」
「はい」
迷いのない返事だった。
アルベルトは、歩みを緩めた。
「君が戻ってこられなくなったら……」
そこまで言って、彼は口を閉じた。
戻ってこられなくなったら。
危険な目に遭ったら。
辺境で何かあったら。
その先に続く言葉を、アルベルトは口にできなかった。
レティシアは、彼の横顔を見た。
以前の自分なら。
すぐに微笑んでいただろう。
「ご心配には及びませんわ」
そう言って、彼を安心させたはずだ。
自分が怖がっていることも。
不安に思っていることも。
すべて胸の奥へしまい込んで。
アルベルトが心配しなくて済む言葉を探した。
けれど。
今は、すぐに答えが出てこなかった。
何と言えば、彼は安心するのだろう。
どんな言葉を選べば、彼は悲しまないのだろう。
そう考えかけて。
レティシアは、ふと足を止めた。
「殿下」
「何だい?」
アルベルトも立ち止まる。
レティシアは、まっすぐに彼を見た。
「私は、今まで殿下のお気持ちを優先しすぎていたのかもしれません」
アルベルトの表情が、わずかに変わった。
「僕は、君に何かを強制したつもりは……」
「存じておりますわ」
レティシアは、穏やかに微笑んだ。
責めるつもりはなかった。
アルベルトが命じたわけではない。
彼が、すべてを押しつけたわけでもない。
ただ。
自分が勝手に、彼の望みを優先していた。
彼が困らないように。
彼が安心できるように。
彼が望む令嬢でいられるように。
「だからこそ」
レティシアは、静かに続けた。
「私自身が、選ばなければならなかったのだと思います」
アルベルトは、黙っていた。
風が二人の間を通り抜ける。
木の葉が、かすかに揺れた。
彼はようやく気づいたのかもしれない。
レティシアは、自分を責めているのではない。
彼に罪を着せようとしているのでもない。
ただ、自分の中にあった問題を、自分の言葉で語っているのだ。
それは、以前の彼女にはなかったことだった。
「君は……変わったね」
アルベルトが、ぽつりと言った。
「そうでしょうか」
「ああ」
彼は、少し困ったように笑った。
「以前の君なら、きっと僕を安心させる言葉を探していた」
「……そうかもしれませんわ」
「でも、今の君は違う」
レティシアは、返事をしなかった。
変わったのか。
それとも。
失っていたものを、少しずつ見つけ始めているだけなのか。
まだ、自分でも分からなかった。
アルベルトは、しばらく庭園の花を眺めていた。
やがて、ためらうように尋ねる。
「君は……僕のもとへ戻ってくるのか?」
その問いに。
レティシアは、すぐには答えなかった。
アルベルトのもとへ戻る。
王都へ戻る。
以前のような日々へ戻る。
そのどれもが、今の彼女には簡単に答えられることではなかった。
以前なら。
きっと、彼を傷つけない答えを選んだだろう。
「もちろんですわ」
あるいは。
「殿下がお望みでしたら」
けれど。
それでは、また同じことになる。
誰かの望みを、自分の答えにしてしまう。
レティシアは、ゆっくりとアルベルトへ向き直った。
「分かりませんわ」
アルベルトの表情が揺れた。
驚き。
戸惑い。
そして、わずかな寂しさ。
それらが、隠しきれずに浮かんでいる。
けれど、レティシアは言葉を重ねた。
「けれど、戻るかどうかも含めて、私が決めたいのです」
静かな声だった。
決して強い口調ではない。
それでも。
その言葉には、はっきりとした意志があった。
アルベルトは、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……そうか」
それだけだった。
以前のように、彼女を褒めることもない。
「君は優しいね」と言うこともない。
そんな言葉では、もう届かないのだと。
アルベルト自身も、どこかで感じているのかもしれなかった。
レティシアは、静かに頭を下げた。
「ご心配くださって、ありがとうございます」
「心配くらい、するさ」
アルベルトは、少しだけ笑った。
けれど、その笑みには迷いが残っていた。
「君が、僕のもとから離れていくように感じる」
レティシアは、顔を上げた。
「離れていくのではなく」
言葉を選ぶ。
「自分のところへ、戻ろうとしているのかもしれませんわ」
アルベルトは、目を見開いた。
その言葉の意味を、すぐには理解できなかったのだろう。
けれど。
レティシア自身には、少しだけ分かっていた。
自分の中に欠けているものを探す。
もう一人の自分に会う。
そのために、遠い辺境へ向かう。
それは誰かから離れるためだけの旅ではない。
自分が何者なのかを、もう一度確かめるための旅なのだ。
アルベルトは、庭園の先へ視線を向けた。
「君が戻ってきたとき……」
彼は、そこで言葉を止める。
何を尋ねればよいのか。
どんな答えを期待しているのか。
自分でも分からないのかもしれない。
レティシアは、そんな彼を急かさなかった。
以前なら、彼が困らないように言葉を補っていただろう。
けれど今は。
アルベルト自身にも、考える時間が必要なのだと思えた。
「殿下」
「何だい?」
「私が戻ってきたときには」
レティシアは、穏やかに微笑んだ。
「そのときの私が、何を望んでいるのかを、改めてお話しいたしますわ」
アルベルトは、静かに頷いた。
「……分かった」
その返事を聞いてから、レティシアは庭園の出口へ歩き出した。
アルベルトも、しばらくしてその後を追う。
二人の間には、以前にはなかった距離があった。
けれど。
それは、必ずしも悪いものではなかった。
誰かの望みと、自分の望み。
相手を大切にすることと、自分の意思を持つこと。
その二つを、これからどう両立させていくのか。
レティシアは、まだ答えを知らない。
ただ。
答えを決める権利だけは、自分の手に取り戻し始めていた。




