第6場面 父との対話
夕方。
ヴァレンフォール侯爵邸の書斎には、傾きかけた陽の光が差し込んでいた。
窓辺の机には、いくつもの書類が積まれている。
王宮から届いた報告書。
グランフェルの情勢。
そして、レティシアの旅に関する資料。
侯爵は椅子に座ったまま、向かいに立つ娘を見ていた。
「グランフェルは、王都とは違う」
開口一番、そう告げる。
「危険もある」
「承知しておりますわ」
レティシアは、静かに答えた。
「道中の危険も、現地の環境も。王都で聞いている以上に厳しいのでしょうね」
「分かっているのならいい」
侯爵は書類へ視線を落とした。
「だが、理解していることと、実際に耐えられることは別だ」
厳しい言葉だった。
けれど、そこに旅を止めようとする意図はなかった。
ただ、娘に現実を伝えている。
レティシアは、そのことを感じ取っていた。
「それでも、行きたいのです」
「……そうか」
侯爵は、短く返した。
それから、少しだけ間を置く。
「お前は、あちらのレティシアを連れ戻すつもりなのか?」
その問いに。
レティシアは、すぐには答えられなかった。
グランフェルへ行くと決めたとき。
自分は、もう一人の自分を迎えに行くのだと思っていた。
失った半分を取り戻す。
欠けたものを埋める。
自分の中へ、もう一度戻す。
それが目的だと。
けれど。
クラリスと話したあとから、その考えは少しずつ変わっていた。
辺境にいる、もう一人のレティシア。
彼女は今、何をしているのだろう。
誰と話し。
何に怒り。
何を決め。
どんな場所で暮らしているのだろう。
もしかすると。
彼女はすでに、あの場所で自分の居場所を見つけているのかもしれない。
だとしたら。
自分は、その人生をどうするつもりなのか。
「……分かりません」
レティシアは、正直に答えた。
侯爵は何も言わず、娘の言葉を待った。
「連れ戻したいと思っています」
レティシアは、ゆっくりと続ける。
「私の中に戻ってきてほしい。そう願っておりますわ」
そこまでは、迷いがなかった。
けれど。
「けれど、あの人が戻りたいと思っているかは……分かりませんもの」
書斎の中に、静かな沈黙が落ちた。
窓の外で、風が木の葉を揺らしている。
レティシアは、自分の手元へ視線を落とした。
「私は、あの人を消したくありません」
その言葉に、侯爵の目がわずかに細められた。
「あの人は、私の中から分かれた存在ですわ」
レティシアは言葉を探しながら話した。
「けれど、今はもう、それだけではありません。あの人には、あの人の考えがあって。怒りがあって。誇りがあって……きっと、辺境で過ごした時間もあります」
水路を直した。
倉庫を整理した。
鉱山の危険を見つけた。
住民たちに頼られ、辺境伯と口論し、魔獣と暮らしている。
それは、単なる「悪役部分」の記録ではない。
一人のレティシアが、そこで生きた証だった。
「けれど……」
レティシアは、少しだけ眉を寄せる。
「私の中に戻ってきてほしいと、勝手に願っていいのかも分かりません」
最初は、自分の欠けたものを取り戻すことばかり考えていた。
自分が困っているから。
自分に足りないものがあるから。
だから、戻ってきてほしい。
けれど。
それは、あの人の望みとは別の話だ。
レティシアは、ようやくそのことに気づいていた。
侯爵はしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「それなら、会ってから決めればいい」
レティシアは顔を上げた。
「会ってから……」
「ああ」
侯爵は、娘をまっすぐに見た。
「お前が一人で答えを決める必要はない」
その言葉は、意外なほど柔らかかった。
すべてを自分で判断しなければならないと思っていた。
どうすれば正しいのか。
何を選べばよいのか。
相手は何を望んでいるのか。
それらを、会う前から決めてしまおうとしていた。
けれど。
まだ会っていない相手の答えを、先に決めることなどできない。
侯爵は、少しだけ言葉を足した。
「ただし、相手の答えを聞くことだ」
レティシアの胸に、その言葉が静かに落ちた。
自分の望みを伝える。
相手の望みを聞く。
その二つは、どちらか一方だけでよいものではない。
「はい」
レティシアは、しっかりと頷いた。
「必ず、あの人の答えを聞きますわ」
侯爵は頷き返すと、机の上の書類を一枚取り上げた。
「では、旅の準備を進める」
「お父様……」
「ただし、条件がある」
侯爵の声が、少しだけ厳しくなる。
「まず、侯爵家の護衛をつける。グランフェルまで、お前たちだけで行かせるつもりはない」
「承知しましたわ」
「ニーナも同行させる」
「まあ。ニーナが?」
「お前の身の回りを任せられる者が必要だ」
侯爵はそこで一度、言葉を切った。
「それに、あの侍女はお前が無茶をしたとき、止められる」
レティシアの脳裏に、ニーナの呆れた顔が浮かんだ。
おそらく、旅の話を聞いた瞬間から、あれこれと準備を始めるだろう。
そして、出発前から何度も注意されるに違いない。
「……確かに、必要ですわね」
レティシアが頷くと、侯爵は続けた。
「それから、お前は王都からの使者として向かうのではない」
「使者ではなく……?」
「一人のレティシアとして会いに行け」
侯爵の言葉に、レティシアは静かに目を伏せた。
王都の代表として。
侯爵令嬢として。
追放された者を連れ戻すための者として。
そういう立場で向かえば、きっと相手は構えてしまう。
命令されているように感じるかもしれない。
戻ることを求められているように思うかもしれない。
「分かりましたわ」
レティシアは答えた。
「私は、私として会いに行きます」
「そして、あちらのレティシアの意思を尊重すること」
「はい」
「戻ることを拒まれたとしても、無理に連れて帰ろうとしない」
その言葉に、レティシアの胸がわずかに痛んだ。
戻ってきてほしい。
自分の中に帰ってきてほしい。
その願いは、確かにある。
けれど。
願いは、命令ではない。
自分が望んだからといって、相手の望みを奪っていいわけではない。
「……はい」
今度は、少しだけ時間をかけて頷いた。
「それから、何かあればすぐに戻ることだ」
「何か、とは?」
「危険を感じた場合。体調を崩した場合。状況が、お前の手に負えないと判断した場合」
「ですが――」
「レティシア」
侯爵が、静かに名を呼んだ。
その声に、反論を続けることはできなかった。
「戻ることは、敗北ではない」
レティシアは、目を瞬いた。
「お前が何かを成し遂げるために、無理をする必要はない」
かつての自分なら。
ここで「承知しました」と微笑みながらも、きっと無理をした。
自分が役に立たなければ。
自分が最後までやり遂げなければ。
そう思っていた。
けれど今は。
戻るという選択肢も、自分で持っていていいのだと分かる。
「はい、お父様」
レティシアは、深く頭を下げた。
「お約束いたしますわ」
侯爵は、机の上の書類を整えた。
「ならば、旅の準備を始めなさい」
「ありがとうございます」
レティシアは踵を返しかけた。
その背中へ、侯爵が声をかける。
「レティシア」
「はい?」
「会って、話して、それから考えればいい」
レティシアは振り返った。
侯爵は、いつものように厳しい顔をしていた。
けれど、その瞳には確かな信頼があった。
「お前が、すべてを最初から決めておく必要はない」
レティシアは、しばらく父を見つめた。
そして。
今度は、迷わず微笑んだ。
「はい。そういたしますわ」
書斎を出る。
扉が閉じたあとも、父の言葉は胸の中に残っていた。
会ってから、決める。
自分の望みを伝え。
相手の答えを聞く。
その先に何が待っているのかは、まだ分からない。
けれど。
分からないまま進んでもいいのだと。
レティシアは、初めて思えた。




