第5場面 クラリスの疑問
王城の庭園には、午後の柔らかな日差しが降り注いでいた。
噴水の水音。
風に揺れる花々。
遠くから聞こえる、使用人たちの足音。
いつもと変わらない、穏やかな王城の風景。
けれど。
クラリスの胸の中には、いくつもの疑問が渦巻いていた。
レティシアが、グランフェルへ行く。
追放された、もう一人のレティシアに会うために。
その話を聞いてから、どうしても本人に確かめたかった。
「レティシア様」
庭園の小道を歩いていたレティシアが、足を止める。
「あら、クラリス様」
いつものように、柔らかな微笑み。
けれど、その表情には以前とは違うものがあった。
どこか落ち着いていて。
同時に、胸の奥に決めたものを抱えているような顔。
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか?」
「もちろんですわ」
二人は、庭園の端にある白いベンチへ腰を下ろした。
クラリスは、すぐには本題を切り出せなかった。
何から尋ねればよいのか、分からなかったのだ。
やがて、意を決して口を開く。
「本当に、グランフェルへ行くのですか?」
「ええ」
レティシアは、迷いなく頷いた。
「近いうちに、出発する予定ですわ」
「あの……」
クラリスは、膝の上で指を組んだ。
「もう一人のレティシア様に会うために?」
「そうですわ」
レティシアの声は静かだった。
けれど、その答えには揺らぎがない。
「私の半分を、迎えに行くためですの」
クラリスは、しばらく彼女の横顔を見つめた。
王都では、あのもう一人を「悪役部分」と呼んでいた。
怒りっぽくて。
口が悪くて。
人の気持ちを考えず。
周囲との調和を乱す存在。
だから、切り離された。
だから、辺境へ送られた。
けれど。
その存在を、レティシア自身が迎えに行こうとしている。
クラリスには、まだその理由を完全には理解できなかった。
だからこそ。
次の問いは、自然に口からこぼれた。
「……怖くはないのですか?」
レティシアの微笑みが、わずかに消えた。
風が吹き抜ける。
花びらが一枚、二人の足元へ落ちた。
怖くないはずがなかった。
グランフェルにいる、もう一人の自分。
あの人は、自分を嫌っているかもしれない。
今さら何をしに来たの、と言われるかもしれない。
あなたのせいで追放されたのだと、責められるかもしれない。
そもそも。
自分に会いたいと思っていない可能性だってある。
レティシアは、膝の上でそっと手を握った。
以前の自分なら。
きっと、すぐに笑っていた。
「大丈夫ですわ」
そう言えば、相手は安心する。
心配をかけずに済む。
不安を見せなければ、周囲も困らない。
けれど。
今、レティシアの胸にあるのは、確かな恐怖だった。
それを無理に隠す必要はないように思えた。
「怖いですわ」
クラリスが、目を見開く。
レティシアは、視線を落とさずに続けた。
「あの人が、私をどう思っているのか分かりませんもの」
「……はい」
「歓迎してくださるかもしれませんし、追い返されるかもしれません。責められる可能性もありますわ」
そこまで言って、レティシアは小さく息を吐いた。
「それでも、行きます」
その言葉には、以前のような曖昧さがなかった。
誰かに背中を押されたわけでもない。
誰かに期待されたわけでもない。
ただ、自分自身が決めたことを口にしている。
「あの人に会わなければ……」
レティシアは、庭園の奥へ視線を向けた。
「私はきっと、この先も、自分に何が足りないのか分からないままですもの」
クラリスは、何も言わずに聞いていた。
「私は、あの人を失ったことで、穏やかになったのだと思っていましたわ」
レティシアは、少しだけ苦笑する。
「優しくなったのだと。人を傷つけなくなったのだと。そう思っていたのです」
けれど。
実際には、違った。
問題を見つけても、深く踏み込めない。
何かを選ぶときも、誰かの意見を待ってしまう。
嫌なことがあっても、嫌だと言えない。
望みがあっても、それが自分のものなのか分からない。
「私は、何かを失ったのですわ」
レティシアは、静かに言った。
「その何かが、あの人なのか。それとも、あの人と一緒に切り離された別のものなのか……まだ分かりません」
クラリスは、ふと目を伏せた。
そして。
あの日のことを思い出した。
王城の大広間。
大勢の貴族たち。
張り詰めた空気。
罪状を読み上げられたレティシア。
彼女は、何度も尋ねていた。
証拠はどこにあるのか。
誰が証言したのか。
何が事実で、何が噂なのか。
けれど、周囲はそれを「反抗」と受け取った。
罪を認めようとしない、傲慢な態度。
王子に逆らう、冷たい言葉。
そう決めつけていた。
クラリス自身も。
あのときは、どうしてそこまで問い続けるのか分からなかった。
ただ、怖かった。
自分のために、レティシアが怒っているのではないかと。
けれど。
今なら、少しだけ分かる気がした。
あれは、誰かに命じられた行動ではなかった。
誰かに褒められるためでも。
誰かに嫌われないためでもない。
自分が納得できないことを、納得できないと言ったのだ。
「……あのときも」
クラリスの口から、ぽつりと言葉が漏れた。
「え?」
「断罪の日です。レティシア様が、何度も証拠を求めていらしたとき」
レティシアは、黙ってクラリスを見る。
「私は、あれを反抗だと思っていました」
クラリスは、指先に力を込めた。
「けれど、違ったのですね」
「クラリス様……?」
「あれも、レティシア様ご自身の意思だったのですね」
レティシアは、すぐには答えなかった。
やがて。
ほんの少しだけ、目を細める。
「……そう、なのかもしれませんわ」
あの日の自分は、怖かった。
怒っていた。
納得できなかった。
それでも、黙って受け入れることだけはできなかった。
あれは確かに、自分の意思だった。
たとえ、その言葉で誰かを不快にさせたとしても。
たとえ、嫌われることになったとしても。
「私は、あのとき……自分が正しいと思ったことを、口にしたかったのですわ」
レティシアは、ゆっくりと語った。
「今の私は、それすらできなくなっていましたけれど」
クラリスは、彼女の横顔を見つめた。
穏やかで、優しくて、誰からも好かれるレティシア。
その中に、確かに意思がある。
迷いも。
恐怖も。
それでも進もうとする願いも。
クラリスは、初めてそれをはっきりと感じていた。
「レティシア様」
「はい」
「どうか……お気をつけて」
それしか言えなかった。
けれど、レティシアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、クラリス様」
そして、今度は自分から言った。
「必ず、会ってきますわ」
誰かに望まれたからではない。
誰かに許されたからでもない。
自分が、そうしたいから。
そのために。
レティシアは、遠い辺境へ向かうのだった。




