第3場面 王子への報告
その日の昼前。
ヴァレンフォール侯爵は、王宮へ向かっていた。
娘がグランフェルへ行く。
それだけなら、家族旅行として処理できたかもしれない。
けれど。
レティシアは、元第一王子の婚約者候補。
そして今もなお、王宮内外で注目される存在だった。
さらに、グランフェルには――。
追放された、もう一人のレティシアがいる。
この件を、政治関係者が見過ごすはずもなかった。
王宮の廊下では、すでにいくつもの視線が侯爵へ向けられていた。
「ヴァレンフォール侯爵がお見えになったようです」
「例の件でしょうか」
「まさか、本当にグランフェルへ?」
小さな声が、廊下のあちこちで交わされる。
侯爵はそれらに反応することなく、アルベルト第一王子の執務室へと歩を進めた。
扉の前で足を止める。
短く息を整え、入室の許可を取った。
「入れ」
中から返ってきた声は、いつもより少し硬かった。
「失礼いたします」
扉を開けると、アルベルトは机の前に座っていた。
その隣には数名の文官が控えている。
どうやら、すでに何かの報告を受けていたらしい。
侯爵の姿を見た瞬間、アルベルトは顔を上げた。
「ヴァレンフォール侯爵。何かあったのか?」
「ご報告申し上げます」
侯爵は一礼した。
「レティシアが、グランフェルへ向かうことを望んでおります」
「グランフェルへ……?」
アルベルトの眉が、わずかに動いた。
その地名は、王都に住む者にとって決して気軽な場所ではない。
遠く、険しく、魔獣の脅威もある。
何より。
そこには、王都から追放されたもう一人のレティシアがいる。
「なぜ?」
アルベルトの問いに、侯爵は一瞬だけ黙った。
どう説明すべきか。
娘は、もう一人の自分に会いたいと言った。
自分の半分を迎えに行くのだと。
その言葉を、どう伝えればよいのか。
けれど、レティシア本人はすでに答えを決めている。
侯爵は静かに口を開いた。
「本人から、お伝えさせていただきます」
「本人が?」
アルベルトが顔を上げる。
そのとき、執務室の扉が再び開いた。
「失礼いたしますわ」
入ってきたのは、レティシアだった。
いつもと変わらない。
整えられた髪。
上品なドレス。
穏やかな表情。
けれど。
アルベルトには、どこか違って見えた。
以前の彼女なら、呼ばれれば静かに微笑み、相手の望む言葉を先回りして口にしただろう。
何かを問われれば、誰も困らない答えを選んだ。
自分の希望よりも。
相手の都合よりも。
その場が穏やかに収まることを優先していた。
しかし今、彼女はまっすぐにアルベルトを見ていた。
「レティシア。君がグランフェルへ行きたいというのは、本当なのか?」
「はい」
迷いのない返事だった。
アルベルトは、わずかに息を詰めた。
「なぜ、そこへ?」
レティシアは一度だけ、ゆっくりと息を吸った。
胸の奥に浮かぶものを、順番に確かめる。
あの意見書。
父の言葉。
自分の中に欠けているもの。
そして、遠い辺境にいるもう一人の自分。
会いたい。
話したい。
確かめたい。
あの人が何を考え、何を望み、どんな時間を過ごしているのか。
それを知らずに、自分の都合だけで迎えに行くことはできない。
けれど。
まずは、会わなければ何も始まらない。
レティシアは、アルベルトを見つめた。
「私の半分を、迎えに行くためです」
室内から、音が消えた。
文官たちも。
侯爵も。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
アルベルトは、ただレティシアを見ていた。
「……君の、半分?」
「はい」
レティシアは頷く。
「グランフェルには、もう一人の私がいますわ」
それは、王都では「悪役部分」と呼ばれていた。
不要なもの。
切り離されたもの。
なくなってよかったもの。
けれど、レティシアはもう、その言葉で片づけることができなかった。
「あの人に会いたいのです」
声は穏やかだった。
それでも、その言葉には確かな意志があった。
「私に何が欠けているのか。あの人が何を持っているのか。私は、それを知りたいのですわ」
アルベルトは、しばらく黙っていた。
やがて、戸惑うように口を開く。
「君は……本当に、そうしたいのか?」
その問いに、レティシアの胸が小さく揺れた。
悪意のある言葉ではない。
責めているわけでもない。
ただ、アルベルトは確かめているのだ。
本当に彼女自身が望んでいるのか。
誰かに言われたのではないか。
周囲の期待に応えようとしているだけではないか。
以前のレティシアなら。
きっと、こう答えていた。
――皆様がよろしいと思われるのでしたら。
――殿下がご心配なさらないのでしたら。
――私に異存はございませんわ。
相手が安心する言葉。
誰も困らない言葉。
自分の気持ちを曖昧にしたまま、その場を穏便に終わらせる言葉。
けれど。
今は違う。
レティシアは、アルベルトの目を見た。
「はい」
それから、はっきりと続けた。
「私が、そうしたいのです」
アルベルトの瞳が、わずかに揺れた。
その言葉を聞くまで、彼は気づいていなかったのかもしれない。
レティシアが、自分から何かを望むこと。
何かを選ぶこと。
誰かの許可を待たずに、自分の足で進もうとすること。
それが、こんなにも新しいものだったなんて。
「……そうか」
アルベルトは、静かに呟いた。
けれど、その声にはいつものような安堵も、喜びもなかった。
彼は初めて。
レティシアの望みを、ただ受け入れるだけではいけないのだと感じていた。
彼女はもう、何を言っても微笑んで頷く令嬢ではない。
少なくとも。
そうあろうとしているだけの彼女ではない。
レティシアは一礼した。
「ご理解いただき、ありがとうございます」
その言葉も、以前と同じように丁寧だった。
けれど、その奥にはもう一つの言葉があった。
――これは、私が決めたことですわ。
アルベルトは、しばらく彼女の背中を見つめていた。
やがて、机の上に置かれた書類へ視線を落とす。
そこには、グランフェルに関する報告書があった。
水路の修繕。
倉庫の整理。
鉱山設備の改善。
そして、辺境伯や住民たちから寄せられた、いくつもの評価。
その中心にいるのは。
追放された、もう一人のレティシアだった。
「……悪役部分、か」
アルベルトの呟きに、誰も答えなかった。
ただ。
王都から切り離されたはずのものが、遠い辺境で何をしているのか。
そして。
今ここにいるレティシアが、なぜそれを迎えに行こうとしているのか。
その問いだけが、執務室の中に残った。
王都はまだ知らない。
この日、レティシアが初めて。
誰かに望まれたからではなく。
誰かを失望させないためでもなく。
自分自身の望みを、自分の言葉で口にしたことを。




