第2場面 朝食の席での宣言
朝食室には、いつもと変わらない時間が流れていた。
大きな窓から朝の光が差し込み、磨き上げられた銀器を淡く照らしている。
テーブルの中央には、焼きたてのパン。
その隣には、季節の果物と、香草を添えた卵料理。
そして、レティシアの前には、彼女の好物である蜂蜜入りの焼き菓子が置かれていた。
「今日は、レティシアの好きなものを用意してもらったのよ」
母エレノアが、穏やかに微笑む。
「ありがとうございます、お母様」
レティシアも、いつも通りに微笑み返した。
けれど。
その笑顔は、どこかぎこちなかった。
昨夜は、あまり眠れなかった。
正確には、眠れなかったというよりも、何度も目を覚ました。
机の上に置かれた意見書。
そこに記された、自分の筆跡。
そして、もう一人の自分の顔。
目を閉じるたびに、それらが浮かんできた。
向かいの席では、父が王宮から届いた書類に目を通している。
紙をめくる音。
食器が触れ合う音。
使用人たちが静かに動く気配。
すべてが、いつもと同じだった。
だからこそ、レティシアは落ち着かなかった。
「レティシア」
エレノアが、そっと声をかける。
「昨夜は、よく眠れたの?」
その問いに、レティシアは顔を上げた。
一瞬、いつもの答えが喉まで出かかった。
ええ。
よく眠れましたわ。
心配なさらないでください。
そう言えば、母は安心する。
それで、この場は穏やかに終わる。
いつもなら、そうしていた。
けれど。
レティシアは、ほんの少しだけ考えた。
そして、静かに答えた。
「あまり眠れませんでしたわ」
エレノアの手が止まった。
「まあ……」
母が目を見開く。
向かいで書類を読んでいた父も、紙から顔を上げた。
レティシア自身も、わずかに驚いていた。
言ってしまった。
母を安心させるための言葉ではなく、自分の本当の状態を。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が妙にざわついた。
「どこか具合が悪いのかしら?」
エレノアが心配そうに尋ねる。
「いいえ。身体の具合が悪いわけではありませんわ」
「では、何か悩みがあるのか?」
父の声は、落ち着いていた。
責めるような響きはない。
ただ、見逃さないという意思だけがあった。
レティシアは、手元の紅茶へ視線を落とした。
湯気が、ゆっくりと立ち上っている。
何か悩みがあるのか。
そう尋ねられて、頭の中にいくつもの答えが浮かんだ。
王宮のこと。
先日の断罪のこと。
あの意見書のこと。
今の自分に欠けているもの。
そして。
グランフェルにいる、もう一人のレティシアのこと。
どれも嘘ではない。
けれど、どれから話せばいいのか分からなかった。
すべてを説明しようとすれば、きっと長くなる。
魔女の呪いについて。
二つに分かれた心について。
自分が「嫌な部分をなくしたい」と願ったことについて。
話さなければならないことは、いくらでもあった。
しかし、今はまだ、うまく言葉にできない。
レティシアは、紅茶の中で揺れる自分の姿を見つめた。
以前の自分なら、相手が納得する答えを探していた。
母が安心する答え。
父が判断しやすい答え。
王宮が受け入れやすい答え。
けれど、今は違う。
説明できないからといって、何も言わないわけにはいかなかった。
レティシアは、ゆっくりと顔を上げた。
「私……」
エレノアが、黙って娘を見つめる。
父も、書類を閉じた。
朝食室にいた使用人たちも、自然と動きを止めている。
レティシアは、一度だけ息を吸った。
そして。
「私、グランフェルへ行きます」
その瞬間。
朝食室から、音が消えた。
エレノアの目が大きく見開かれる。
父の表情が、わずかに固まる。
背後に控えていたニーナは、紅茶のポットを持ったまま動きを止めた。
ポットの注ぎ口から、細い湯気だけが立ち上っている。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
やがて。
ことり、と。
誰かのナイフが皿に触れた。
小さな音だった。
けれど、静まり返った室内では、ひどく大きく響いた。
「……グランフェル?」
最初に声を出したのは、エレノアだった。
「ええ」
レティシアは頷いた。
「グランフェルですわ」
「どうして、急に……?」
母の声には、驚きと心配が混じっている。
レティシアは、膝の上で手を重ねた。
急に決めたわけではない。
昨夜、意見書を読み返した。
何度も考えた。
何度も迷った。
そして、今朝になってようやく、自分の中にひとつの答えが生まれた。
だから、急ではなかった。
ただ。
家族にとっては、突然だったのだろう。
「少し、会いたい人がいるのです」
「会いたい人?」
父が静かに尋ねる。
レティシアは、ほんの少しだけ視線を伏せた。
脳裏に、あの人の姿が浮かぶ。
自分と同じ顔をしているのに、自分よりもずっと鋭い目。
思ったことを隠さず、嫌なものは嫌だと言う声。
問題を見つければ、迷わず指を突きつける態度。
口が悪くて。
怒りっぽくて。
人の気持ちを考えていないように見えて。
それでも、誰よりも多くのことを見ていた人。
「……もう一人の、私ですわ」
その言葉に、エレノアが息をのんだ。
父の視線が、鋭くなる。
ニーナは、今度こそポットを落としかけた。
「お、お嬢様……?」
「大丈夫ですわ、ニーナ」
「いえ、そういう問題ではなく……!」
ニーナの声が裏返る。
けれど、レティシアは落ち着いていた。
少なくとも、そう見えるように努めていた。
「私、あの人に会わなければならないと思うのです」
「会わなければならない?」
父が、言葉を繰り返す。
レティシアは頷いた。
「ええ」
その先に続く言葉を、どう説明すればいいのか分からない。
あの人は、自分の半分だ。
けれど、それだけではない。
あの人には、あの人の考えがある。
あの人の怒りがある。
あの人の誇りがある。
あの人が辺境で過ごした時間も、そこで築いた居場所もある。
だから、ただ「戻ってきてください」と言えばいいわけではない。
それでも。
まずは、会わなければならない。
レティシアは、まっすぐに父を見た。
「私の半分を、迎えに行くためです」
再び、朝食室が静まり返った。
エレノアは、何かを言おうとして、言葉を失っている。
父は、レティシアをじっと見つめていた。
その表情からは、驚き以外の感情を読み取ることができない。
けれど、怒ってはいなかった。
少なくとも、今のところは。
背後では、使用人たちが互いに顔を見合わせている。
侯爵家の令嬢が。
王都で「白百合の令嬢」と呼ばれるレティシアが。
追放された自分の“悪役部分”を追って、辺境へ向かう。
そんなことを、誰が想像しただろう。
ニーナが、恐る恐る口を開いた。
「お嬢様……グランフェルへ行くというのは、その……」
「ええ」
「辺境のグランフェルへ?」
「ええ」
「本当に?」
「何度も確認しなくても、答えは変わりませんわ」
いつものような、柔らかな微笑み。
けれど、その声には、以前にはなかったものがあった。
決めた者の声。
レティシアは、もう一度だけ、はっきりと言った。
「私、グランフェルへ行きますわ」
今度は、誰も聞き返さなかった。
朝食室に漂う静寂の中で、レティシアの言葉だけが、確かな形を持って残っていた。




