第13話 悪役を探す 第1場面 足りないものの正体
朝の光が、レティシアの部屋へ差し込んでいた。
白いカーテンの隙間からこぼれた陽射しが、机の上に置かれた一枚の紙を照らしている。
『北部諸侯領への臨時徴税案に関する意見書』
レティシアは、その書類を何度も読み返していた。
一度。
二度。
三度。
けれど、何度読んでも内容は変わらない。
北部の凶作。
輸送費の高騰。
領地の生産力低下。
一律徴税による地方の疲弊。
王家への不信。
そして、今は税を増やすよりも、物流と備蓄を優先すべきだという結論。
最後に記された一文が、レティシアの目に焼きついている。
> 「本案は、現時点では承認すべきではありません」
整った筆跡だった。
迷いのない文字。
曖昧さのない結論。
誰かの顔色をうかがった形跡もない。
レティシアは、紙の上に視線を落としたまま、そっと指先でその一文をなぞった。
(……これを、私が?)
間違いなく、自分の筆跡だった。
内容も理解できる。
なぜ北部への徴税が危険なのか。
なぜ王都の財政だけを見てはいけないのか。
この案が実施された場合、どこに負担が集中し、何が失われるのか。
読めば分かる。
理解はできる。
けれど。
自分で同じものを書けと言われたら――。
レティシアは、ペンを手に取った。
机の上に置かれた白紙へ、視線を移す。
北部の状況を思い浮かべる。
収穫量。
街道。
備蓄。
税収。
王都の財政。
必要な情報を並べてみる。
それらを結びつけようとする。
けれど、そこから先へ進めなかった。
何が問題なのか。
どこを変えるべきなのか。
何を優先すべきなのか。
頭の中に、答えが浮かんでこない。
ペン先が、白紙の上で止まる。
「……」
レティシアは、ゆっくりとペンを置いた。
以前の自分なら、違ったのだろう。
問題を見つけた。
危険を指摘した。
誰かに反対されると分かっていても、必要なことを言った。
たとえ相手の機嫌を損ねても。
たとえ「生意気だ」と言われても。
たとえ、冷たい人間だと誤解されても。
必要ならば、意見を曲げなかった。
けれど、今の自分にはできない。
「優しくなった」のではない。
「穏やかになった」のでもない。
それならば、もっと穏やかな気持ちで、以前と同じように物事を考えられるはずだった。
誰かを傷つけたくない。
誰かに嫌われたくない。
皆に笑顔でいてほしい。
その願いは、今も変わらない。
けれど、その願いを優先した結果。
自分が何を考えているのか。
何を危険だと思うのか。
何を変えるべきだと思うのか。
何を望んでいるのか。
それらが、分からなくなっていた。
まるで、何かを判断するための芯だけが、抜け落ちてしまったように。
レティシアは、書類から顔を上げた。
窓の外では、庭師が薔薇の手入れをしている。
鳥の声が聞こえる。
いつもと変わらない朝だった。
それなのに、胸の奥だけがひどく静かだった。
そのとき。
ふと、別の顔が思い浮かんだ。
同じ顔。
同じ髪。
同じ声。
けれど、自分とは正反対の表情を浮かべる、もう一人のレティシア。
辺境へ送られた、悪役レティシア。
(あの人なら……)
レティシアは、机の上の意見書を見つめた。
この書類を、あの人が見たら。
きっと眉をひそめる。
そして、呆れたように言うのだ。
> 「こんな案、通すつもり? 正気なの?」
想像の中の声は、ひどく鮮明だった。
その声音まで、はっきりと思い出せる。
刺々しくて。
遠慮がなくて。
少しも優しくない。
以前の自分なら、きっと眉をひそめていただろう。
そんな言い方をしなくてもいいのに。
どうして、もっと穏やかに話せないのかしら。
どうして、相手の気持ちを考えられないのかしら。
そう思っていた。
けれど、今は違う。
その言葉を想像しただけで、胸の奥がわずかに痛んだ。
嫌な痛みではなかった。
むしろ、ずっと閉じていた場所に、初めて触れたような痛みだった。
(……そうですわ)
あの人は、何でも否定する。
口が悪い。
すぐに怒る。
譲らない。
相手の顔色を見ない。
けれど。
問題を見つける。
必要なことを言う。
決める。
間違っているものを、間違っていると言う。
誰かに嫌われることよりも、何かを見過ごすことを恐れていた。
少なくとも、今のレティシアにはそう思えた。
「……」
レティシアは、意見書を胸元へ引き寄せた。
あの人がいれば。
この書類を見て、何かを言ってくれるかもしれない。
怒るかもしれない。
呆れるかもしれない。
「あなたは、どうしてそんなことも分からないの」と、厳しく責めるかもしれない。
それでも。
その声を聞きたかった。
その判断を、もう一度見たかった。
自分には浮かばなくなった考えを、あの人がどう見つけるのか知りたかった。
レティシアは、静かに目を伏せる。
(私には……あの人が必要ですわ)
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥で何かが小さく動いた。
初めてだった。
これほどはっきりと、自分から誰かを求めたのは。
王子に必要とされたい。
家族に心配をかけたくない。
皆に嫌われたくない。
そういう願いではない。
ただ、会いたい。
話を聞きたい。
自分の目で、あの人を確かめたい。
レティシアは、窓の外へ視線を向けた。
グランフェル。
そこに、もう一人の自分がいる。
今ごろ、何をしているのだろう。
また誰かと口論しているのだろうか。
辺境伯に生意気なことを言っているのだろうか。
村人に頼まれて、嫌そうな顔をしながら仕事を引き受けているのだろうか。
考えているうちに、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
あの人は、自分を許してくれるだろうか。
自分のせいで追放されたと、怒っているかもしれない。
自分が「嫌な部分をなくしたい」と願ったから、あの人は切り離された。
そう考えれば、責められて当然だった。
それでも。
レティシアは、意見書を丁寧に折りたたんだ。
そして、胸に抱く。
(会わなければ)
あの人が何を思っているのか。
何を望んでいるのか。
自分をどう見ているのか。
それを知らないままでは、きっと何も始まらない。
レティシアは、静かに立ち上がった。
今までなら、誰かに相談してから決めていた。
父に尋ねて。
母を安心させて。
王子の都合を確認して。
周囲がどう思うかを考えて。
そのうえで、自分の希望を最後に置いていた。
けれど、今回は違う。
まだ誰にも相談していない。
許可も取っていない。
それでも、もう決めていた。
レティシアは、机の上の意見書を見つめる。
かつての自分が書いた、迷いのない結論。
その文字を指先でなぞりながら、彼女は小さく息を吸った。
「……迎えに行きますわ」
誰に聞かせるでもない声だった。
けれど、その言葉には、今までになかった確かさがあった。
レティシアは扉へ向かう。
まずは、父に話そう。
母にも。
そして、王子にも。
何を言われるかは分からない。
反対されるかもしれない。
驚かれるかもしれない。
止められるかもしれない。
それでも。
今度は、自分で決めたことを、自分の言葉で伝える。
レティシアは、扉の前で一度だけ振り返った。
机の上には、かつての自分が書いた意見書が残されている。
その最後の一文が、朝の光の中で静かに輝いていた。
> 「本案は、現時点では承認すべきではありません」
レティシアは、その言葉を胸に刻むように、もう一度だけ見つめた。
そして。
部屋を出た。
――第13話・第1場面 終。




