第5場面 父が語る「昔のレティシア」
父は、机の上の書類へ視線を落としたまま、静かに口を開いた。
「お前は昔から、よく周囲を見ていた」
「……」
「誰かが見落とした問題を見つけては、どうすれば被害を減らせるか考えていた」
父の指が、書類の上をゆっくりと動く。
「そのためなら、相手の機嫌を損ねることも恐れなかった」
レティシアは、少しだけ苦い顔をした。
「……それで、嫌われていましたわ」
「そうだな」
父は否定しなかった。
そのあまりにも迷いのない返事に、レティシアの眉がわずかに下がる。
けれど。
父は、それだけで話を終えなかった。
「だが、それだけではない」
父は書類を指先で軽く叩いた。
乾いた音が、静かな執務室に響く。
「お前は、正しいと思ったことを正しいと言える人間だった」
「……」
レティシアは、黙った。
正しいと思ったことを。
正しいと言う。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
今の自分だって、何が正しいのか分からないわけではない。
問題があれば、気づく。
危険な案があれば、その危険性も理解できる。
けれど。
誰かが反対するかもしれない。
誰かを傷つけるかもしれない。
場の空気が悪くなるかもしれない。
そんな考えが、次々と浮かんでくる。
だから。
言葉を選ぶ。
角の立たない表現を探す。
誰も不快にならない答えを考える。
そして最後には。
「皆様のお考えを尊重します」
そう言ってしまう。
それは、穏やかな言葉だった。
誰も責めない。
誰とも争わない。
誰の意見も否定しない。
けれど。
その言葉の中に、自分の考えはなかった。
「……」
レティシアは、書類の最後に記された一文を見つめた。
――本案は、現時点では承認すべきではありません。
かつての自分は。
この一文を、ためらわずに書いた。
嫌われる可能性を知りながら。
それでも、正しいと思ったことを正しいと言った。
レティシアは、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。
そこには、何もなかった。
「……私は」
声が、かすかに震える。
「本当に、変わってしまったのですね」




