Scene 12 魔女エルヴィラ登場
「……本当に」
レティシアは。
目の前の女を見つめた。
「できますの?」
女は微笑んだ。
まるで。
今日の天気でも尋ねられたかのような顔で。
「もちろん」
「…………」
「あなたの嫌いなところ」
「皆が嫌うところ」
「消してしまいたいのでしょう?」
レティシアは答えなかった。
しかし。
女は気にした様子もない。
「だったら」
女が。
にこりと笑う。
「消してあげましょうか?」
「……?」
レティシアは。
首を傾げた。
今。
なんと言ったのだろう。
消す。
誰が。
何を。
「…………」
改めて。
目の前の女を見る。
いつから。
そこにいたのだろう。
先ほどまで。
この廊下には誰もいなかったはずだった。
レティシアが大広間を出て。
壁に手をついて。
一人になってからも。
誰かが近づいてくる気配など。
まったくなかった。
それなのに。
今。
女は。
当然のように。
レティシアの目の前に立っている。
「……あなた」
「はい?」
「いつから、そこに?」
「さあ?」
「さあ?」
「気づいたときから?」
「それは私が気づいたときですの?」
「たぶん」
「…………」
会話が。
成立しているようで。
成立していない。
レティシアは。
じっと女を見つめた。
美しい。
それが。
第一印象だった。
長い黒髪。
白い肌。
整いすぎた顔立ち。
年齢は。
二十代前半に見える。
いや。
もっと若いかもしれない。
けれど。
レティシアは。
すぐに違和感を覚えた。
目だった。
女の目だけが。
おかしい。
若い。
見た目は。
間違いなく若い。
しかし。
その瞳だけは。
まるで。
何百年も生きてきた老人のようだった。
いや。
老人とも違う。
もっと。
長いものを見てきた目。
人が生まれて。
死んで。
また別の人が生まれる。
そんなことを。
何度も。
何度も見てきた者の目。
「……」
レティシアは。
少しだけ警戒した。
美しい。
しかし。
明らかに怪しい。
そして。
何より。
この状況で。
あまりにも。
笑顔だった。
自分は。
ついさっき。
婚約を破棄された。
大勢の貴族に。
悪役令嬢と呼ばれた。
おそらく。
これから何らかの処罰を受ける。
そんな人間を目の前にして。
この女は。
ものすごく楽しそうだった。
「あら」
女が。
レティシアの視線に気づいた。
「なに?」
「……いえ」
「言いたいことがある顔ね」
「失礼ですが」
「ええ」
「ずいぶん場違いな笑顔をなさっていますわね」
「まあ」
女は。
口元に手を当てた。
「そうかしら?」
「はい」
「だって」
女は。
くすくすと笑う。
「ずいぶん嫌われているわね」
「…………」
レティシアの眉が。
ぴくりと動いた。
「……初対面の方に言われることではありませんわね」
「あら、ごめんなさい」
「謝っている顔には見えませんわ」
「そう?」
「はい」
「じゃあ」
女は。
さらに笑った。
「やっぱり、あなたは面白いわね」
「どこがですの?」
「そういうところ」
「どういうところですの?」
「いちいち聞き返すところ」
「説明になっていませんわ」
「ほら」
「ほら、ではありません」
「やっぱり面白い」
「…………」
レティシアは。
一度。
深く息を吐いた。
(……疲れているからでしょうか)
自分の目の前に。
明らかに怪しい女がいる。
しかも。
妙に馴れ馴れしい。
普通なら。
もっと警戒すべきなのだろう。
しかし。
今日一日で。
すでに大量の意味不明な出来事を経験している。
婚約破棄。
身に覚えのない罪状。
悪役令嬢。
そして。
自分が悪い人間なのかもしれないという疑問。
今さら。
怪しい女が一人増えたところで。
それほど驚く気力もなかった。
「……あなた」
レティシアは。
改めて尋ねる。
「どなたですの?」
「私?」
「はい」
女は。
嬉しそうに笑った。
「エルヴィラ」
「エルヴィラ?」
「そう」
「……それだけですの?」
「魔女よ」
「…………」
沈黙。
レティシアは。
女を見る。
女も。
レティシアを見る。
「…………」
「…………」
しばらく。
二人の間に。
完全な沈黙が流れた。
そして。
レティシアは。
「……は?」
と言った。
「魔女」
女はもう一度言った。
「魔女ですわ」
「いえ」
「はい」
「それは聞こえました」
「でしょうね」
「……そうではなく」
レティシアは。
こめかみを押さえた。
「魔女?」
「ええ」
「本当に?」
「もちろん」
「…………」
そのとき。
「信じろと言われても」
別の声がした。
レティシアが。
びくりと肩を震わせる。
「――っ!?」
今度こそ。
誰もいないと思っていた。
しかし。
足元から声が聞こえた。
レティシアは。
恐る恐る視線を下げる。
そこには。
一匹の黒猫がいた。
「…………」
黒猫。
真っ黒な毛。
金色の瞳。
そして。
ものすごく呆れた顔。
「猫?」
レティシアが呟く。
「猫だ」
黒猫が答えた。
「喋りましたわね?」
「喋ったな」
「…………」
「…………」
レティシアは。
黒猫を見つめた。
黒猫も。
レティシアを見上げている。
「……」
「……」
「猫が」
「そうだな」
「喋っていますわ」
「その通りだ」
「…………」
レティシアは。
ゆっくりと。
エルヴィラを見る。
「魔女ですの?」
「だからそう言っているでしょう?」
「……」
もう一度。
黒猫を見る。
「喋る猫ですわ」
「見れば分かるだろ」
「分かりませんわ」
「いや、今喋っている」
「それはそうですけれど!」
レティシアは。
思わず声を大きくした。
そして。
すぐに。
自分が大声を出したことに気づく。
「…………」
廊下が静かになる。
エルヴィラが。
にこにこしている。
黒猫は。
呆れた顔をしている。
「……失礼いたしました」
レティシアは。
姿勢を正した。
「いや」
黒猫が言う。
「今のは仕方ないと思うぞ」
「ありがとう存じますわ」
「礼を言われるようなことはしていない」
「それでもですわ」
「律儀だな」
「侯爵令嬢ですので」
「さっき王子に婚約破棄されていたが」
「…………」
レティシアが。
ゆっくりと黒猫を見る。
「あなた」
「なんだ」
「喋らない方がよろしいのでは?」
「俺のせいか?」
「少なくとも、今の発言は余計でしたわ」
「それは悪かった」
「謝罪が軽いですわね」
「猫だからな」
「関係あります?」
「ない」
「ないのですわね」
「ないな」
「…………」
レティシアは。
もう一度。
深く息を吐いた。
疲れている。
やはり。
ひどく疲れている。
「……エルヴィラ様」
「エルヴィラでいいわ」
「では、エルヴィラ」
「うん」
「本当に」
レティシアは。
真剣な顔で尋ねた。
「魔女なのですか?」
「ええ」
「そして」
「うん」
「こちらの黒猫は」
「クロ」
「クロ」
「そう」
「あなたの使い魔?」
「一応」
「一応とは?」
「俺は自分から来た」
クロが言う。
「エルヴィラが勝手に使い魔扱いしているだけだ」
「だって一緒に住んでいるじゃない」
「猫だからな」
「私のベッドで寝ているじゃない」
「暖かいからな」
「ご飯も食べるじゃない」
「それは食う」
「使い魔じゃない」
「ただの居候だ」
「同じようなものでは?」
「違う」
黒猫が。
ものすごく真剣な顔で否定した。
「そこは大事だ」
「……そうですの」
レティシアは。
よく分からないが。
大事なのだろう。
そう思うことにした。
「それで」
レティシアは。
エルヴィラを見る。
「魔女が」
「ええ」
「なぜ、私の前に?」
エルヴィラの笑顔が。
ほんの少し。
深くなった。
「あなたが」
レティシアを指差す。
「願ったから」
「願った?」
「ええ」
レティシアは。
先ほどの自分の言葉を思い出す。
――私の、この嫌なところがなければ。
胸の奥が。
わずかに冷える。
「……聞いていましたの?」
「全部」
「全部?」
「全部」
エルヴィラは。
にこりと笑った。
「あなたが」
「自分の嫌なところをなくしたいと思ったところから」
「私のことが悪い人間なのか分からないって悩んだところまで」
「……」
「全部」
「…………」
レティシアは。
ゆっくりと。
黒猫を見る。
「……盗み聞きですわね?」
「俺に聞くな」
クロは即座に答えた。
「俺は途中からだ」
「途中から?」
「こいつが面白がって近づいたあたりから」
「クロ」
「事実だろ」
「もう少し、こう」
「魔女らしく誤魔化せ」
「何をですの?」
レティシアが尋ねる。
「聞かなくていい」
「そうですわ」
「お前は聞くな」
「なぜ私が怒られていますの?」
「さあな」
「…………」
レティシアは。
少しだけ。
自分の額を押さえた。
そして。
気づく。
さっきまで。
あんなに重かった気持ちが。
ほんの少しだけ。
軽くなっている。
目の前の魔女と。
喋る猫が。
あまりにも。
妙だったからだ。
「……」
レティシアは。
エルヴィラを見る。
「それで」
「うん?」
「先ほどの話ですけれど」
「消してあげるって話?」
「はい」
エルヴィラの瞳が。
ゆっくりと細められた。
「本当に」
レティシアは。
慎重に尋ねる。
「私の嫌なところを」
「消すことができますの?」
「できるわ」
迷いのない答えだった。
クロが。
横から口を挟む。
「おい」
「何よ」
「説明しろ」
「えー」
「えー、じゃない」
クロは。
レティシアを見る。
「嬢ちゃん」
「レティシアですわ」
「レティシア」
「はい」
「こいつの言葉を、そのまま信じるな」
レティシアが眉をひそめる。
「なぜですの?」
「魔女だからだ」
「それは、魔女だから信用できないという意味ですの?」
「違う」
クロは。
エルヴィラを見上げた。
「こいつは」
「言葉が足りない」
「クロ」
「そして」
「面白そうなことを見つけると」
「必要な説明を省く」
「クロ」
「さらに」
「本人だけ楽しそうに笑う」
「クロ」
「今もそうだ」
「…………」
レティシアは。
エルヴィラを見る。
エルヴィラは。
にっこり笑った。
「でも本当よ?」
「何がですの?」
「魔女だってこと」
「そこですの?」
「そこ」
「…………」
レティシアは。
再び。
深く息を吐いた。
今日は。
何度目だろう。
「……分かりましたわ」
「信じる?」
「いいえ」
「え?」
エルヴィラが。
少し驚いた顔をする。
「信じませんわ」
「即答?」
「初対面の怪しい女性に」
「突然、私は魔女ですと言われて」
「その隣には喋る黒猫がいて」
「さらに私の心の声を聞いていたとおっしゃる」
レティシアは。
指を一本ずつ折りながら数える。
「信じる要素が一つもありませんわね」
「喋る猫は?」
クロが言った。
「猫が喋っていることは信じますわ」
「そこは信じるのか」
「目の前で喋っていますので」
「それはそうだな」
エルヴィラが。
少しだけ唇を尖らせた。
「じゃあ」
「どうすれば信じる?」
「そうですわね」
レティシアは。
少し考える。
そして。
エルヴィラを見る。
「魔女だという証拠を見せていただければ」
「証拠?」
「はい」
「できます?」
「できます」
エルヴィラは。
ぱちん。
と。
指を鳴らした。
その瞬間。
何も起きなかった。
「…………」
「…………」
「…………」
クロが。
エルヴィラを見る。
「何も起きていないぞ」
「分かっているわよ」
「失敗したのか?」
「違うわ」
「では何だ」
「今日、魔力の調子が悪いの」
「魔女失格だろ」
「失礼ね!」
レティシアは。
ゆっくりと目を閉じた。
(……帰りたいですわ)
ただ。
それだけを思った。
けれど。
その瞬間。
エルヴィラが。
ふっと笑った。
「でも」
レティシアが目を開く。
魔女の瞳は。
先ほどまでとは違っていた。
深く。
古く。
そして。
どこか。
底の見えない瞳。
「あなたの願いを叶えられることだけは」
エルヴィラは。
確信を持って言った。
「本当よ」
廊下に。
冷たい風が吹いた。
窓は。
閉まっている。
それなのに。
レティシアの髪が。
ふわりと揺れた。
そのとき。
初めて。
レティシアは。
少しだけ。
この女を。
信じてもいいのかもしれない。
そう思った。




