Scene 10 王城の廊下
大広間の扉が。
ゆっくりと閉じた。
――ばたん。
その音と同時に。
背後から聞こえていた声が、遠くなった。
貴族たちのざわめき。
誰かがアルベルトを呼ぶ声。
文官たちの話し合う声。
そして。
自分を断罪した人々の声。
すべてが。
分厚い扉の向こうへ消えていく。
「…………」
レティシアは。
その場に立ち尽くした。
長い廊下には。
誰もいない。
窓から差し込む午後の光が。
白い床を照らしていた。
いつもなら。
何でもない景色だった。
何度も。
何度も歩いた廊下。
アルベルトと並んで歩いたこともある。
父と王城を訪れたとき。
侍女たちと急ぎ足で通り過ぎたこともある。
これからも。
ずっと。
歩き続けるのだと思っていた。
けれど。
もう。
違う。
「……」
レティシアは一歩。
歩こうとした。
しかし。
足が動かなかった。
妙に。
身体が重い。
(……あら)
不思議だった。
怪我をしたわけではない。
体調が悪いわけでもない。
なのに。
もう一歩を踏み出すことが。
どうしてもできなかった。
「…………」
レティシアは。
ゆっくりと壁へ手を伸ばした。
冷たい石壁に。
手のひらが触れる。
そこで。
ようやく。
自分が立っているのも少し苦しいのだと気づいた。
「……」
壁に手をつく。
指先に。
力が入る。
さっきまで。
あれほど平気だったのに。
大広間では。
背筋を伸ばしていた。
声も震えなかった。
泣かなかった。
怒鳴らなかった。
ちゃんと話せた。
ちゃんと頭を下げた。
ちゃんと。
最後まで。
侯爵令嬢らしく振る舞った。
だから。
大丈夫だと思っていた。
「…………」
でも。
違った。
全然。
大丈夫ではなかった。
レティシアは。
ゆっくりと額を壁につけた。
ひんやりとした感触が。
熱を持った頭に心地よかった。
「……疲れましたわ」
声に出してみる。
誰もいない。
誰にも聞かれない。
だから。
言えた。
「…………」
疲れた。
その言葉を。
初めて。
ちゃんと自分で認めた気がした。
何に疲れたのだろう。
断罪されたから?
婚約を破棄されたから?
皆に悪役令嬢だと言われたから?
分からない。
全部かもしれない。
それとも。
もっと前から。
ずっと。
疲れていたのかもしれない。
レティシアは目を閉じた。
すると。
さっきまで聞こえていた言葉が。
また頭の中に浮かんだ。
――怖い方ね。
――傲慢な悪役令嬢。
――人の気持ちが分からない。
「……」
胸の奥が。
きゅっと痛んだ。
怒りではない。
悲しみとも。
少し違う。
ただ。
自分が。
急に分からなくなった。
「私は……」
言葉が。
自然にこぼれた。
「そんなに……悪い人間だったのでしょうか」
返事はない。
当然だ。
誰もいないのだから。
レティシアは。
少しだけ笑った。
笑ったつもりだった。
けれど。
うまく笑えなかった。
「……本当に」
自分の声が。
思ったよりも弱い。
「分かりませんわ」
これまで。
何度も誰かと意見がぶつかった。
何度も。
怖いと言われた。
厳しいと言われた。
可愛げがないと言われた。
けれど。
そのたびに。
自分には理由があると思っていた。
間違っていない。
少なくとも。
悪意はない。
そう信じていた。
でも。
もし。
自分だけが。
そう思っていただけだとしたら?
「…………」
レティシアは。
壁についた手を見た。
白い。
いつもと同じ自分の手。
けれど。
急に。
知らないもののように思えた。
(私の中に)
(皆が嫌う部分があるのなら)
また。
さっきと同じ考えが浮かぶ。
その部分が。
なければいい。
自分から。
消えてしまえばいい。
そうすれば。
もっと優しくなれるのだろうか。
もっと皆に好かれるのだろうか。
もっと。
誰かを傷つけずに済むのだろうか。
「……」
レティシアは。
ゆっくりと目を閉じた。
そのとき。
「それは」
声がした。
「なかなか面白い願いね」
「――っ!?」
レティシアが顔を上げた。
廊下の先。
誰もいなかったはずの場所に。
いつの間にか。
一人の女が立っていた。
黒い服。
長い髪。
そして。
まるで最初から。
ずっとそこにいたかのような。
不思議な笑み。
「……誰ですの?」
レティシアは。
反射的に姿勢を正した。
けれど。
女は。
くすり、と笑った。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃない」
女はゆっくりと歩いてくる。
「私はただ」
レティシアのすぐ前で。
足を止めた。
「あなたの願いが聞こえただけよ」
レティシアの背筋が。
ぞくりと震えた。
「……願い?」
「ええ」
女は楽しそうに笑う。
「あなた」
その瞳が。
まっすぐに。
レティシアを見つめた。
「自分の嫌いな部分が」
「なくなればいいと思ったでしょう?」
レティシアは。
何も答えられなかった。
なぜ。
この女が知っているのか。
自分は。
誰にも言っていない。
心の中で。
少しだけ。
そう思っただけなのに。
「…………」
女は。
そんなレティシアを見て。
ますます楽しそうに微笑んだ。
「ねえ」
甘い声だった。
「本当に」
「消してしまってもいいの?」
その瞬間。
レティシアの胸の奥で。
何かが。
ほんの少しだけ。
揺れた。




