閑話:旅先の湯
いつも応援ありがとうございます!
今回は、ストラトスの一人旅の合間を描いた閑話です。
旅立つ前、リムルから印籠の手入れについて教わったストラトス。
旅先での小さな出会いをきっかけに、新しい楽しみを知ることになります。
どうぞお楽しみください!
旅に出る前のこと。
ストラトスには、リムルに聞いておきたいことがあった。
「リムル様」
「ん?」
「この印籠は、どうやって手入れすればいいですか?」
「お、そこ気にするか」
「はい!」
ストラトスが腰の印籠を手に取る。
黒漆に、金蒔絵のテンペストの紋章。
中には、アピトからもらった神精蜜。そして――モス。
「漆だからな。柔らかい布で拭いてやればいい。汚れが気になるならネルとか、仕上げにはセーム革もいいな」
「ネル。セーム革」
「油を使うなら、ほんの少しだぞ。菜種油なんかでいい。つけすぎるなよ」
「はい!」
ストラトスは真剣に頷いた。
リムルが苦笑する。
「ホント言うと、少々なことでは壊れないように作ってる。でもな、俺は黒漆や蒔絵を意識して作った。だからお前にも意識して手入れして欲しい」
「『手入れ』ですか」
「そういえば、お前、自分の身体と服の清潔化はどうしてる?」
「分けています」
「分けてるのか?」
「はい。身体と、シュナ様が仕立ててくださった服では、落とすものも残すものも違いますから」
「なるほどな」
確かに、洗濯洗剤とボディソープは違う。髪ならシャンプーだ。どれも汚れを落とすものだが、同じではない。
そこまで考えて使い分けているとは思わなかったが、ストラトスらしいとも思う。
「だったら、印籠も別だよな。俺もネルだセーム革だと言ったばかりだし」
「はい!」
物の手入れをする。
清潔化で綺麗にすることとは、少し違うらしい。
ストラトスは、また一つ覚えた。
◇
「父様、母様。印籠に合わせた清潔化も、教えてください」
ストラトスは、二人にそう頼んだ。
「ええ、もちろんですわ」
今度はテスタロッサが微笑んだ。
「旅先では、布や水がいつでも手に入るとは限りません。きちんと覚えていきなさい」
「印籠そのものではなく、表面についた汚れだけを捉えるのです」
「はい!」
清潔化そのものは、生活魔法として広く知られている。
だが、どこまで対象を見分け、何を落とし、何を残せるかは、術者の技量によって大きく異なった。
「ただし――」
ディアブロが続ける。
「魔法だけで、完全に綺麗にしようとしてはいけませんよ」
「完全に、ですか?」
「ええ。落とせるからといって、落としてよいとは限りません。艶や油分まで奪えば、それは手入れではなくなります」
「なるほど……」
「印籠の表面、金の紋章、内側。それぞれを見分けなさい。当然、中の神精蜜とモスにも触れぬように」
「はい」
「そして、もう少し落とせると思う、その手前で止めるのです」
「きれいにしきれなくても、ですか?」
「構いません。残ったものはネルで拭き、セーム革で仕上げればよいのですから」
綺麗にすることと、傷めないこと。
その二つの釣り合いを取るのが、印籠に使う清潔化だった。
「僕にできますか?」
「できます」
ディアブロは即答した。
「あなたは魔力操作に秀でています。それに、身体と衣服を分けて扱えているのであれば、考え方は同じです」
「はい、父様!」
問題は、一つだけあった。印籠の中には、モスがいる。
『…………』
「ミスターモス」
『何だ』
「清潔化をかけてもいいですか?」
『必要な――』
「いいわよね、モス?」
モスが答え終えるより先に、テスタロッサが口を挟んだ。
『……はっ。テスタロッサ様』
「ありがとうございます!」
『ただし、ストラトス』
「はい!」
『加減は、今教わった通りに』
「分かりました!」
それから、印籠に清潔化をかけることが、ストラトスの日課に加わった。
◇
そのおばあさんと出会ったのは、山道だった。
「あらあら……」
「大丈夫ですか?」
道端の岩に腰を下ろしたおばあさんが、片足を押さえていた。
「ちょっと挫いちまったみたいでねぇ」
「どの辺が痛みますか?」
「この辺だよ」
おばあさんが足首の辺りを示す。
ストラトスは、おばあさんから見えないよう、印籠から神精蜜をほんの少し取り出した。
そして、衣服の上からその場所へそっと手を添えた。
わずかな腫れが、指先に伝わる。
痛む場所を確かめながら、神精蜜を魔力に乗せ、衣服越しに塗布した。
「よし」
「何がだい?」
「いえ」
ストラトスはおばあさんに背を向け、しゃがんだ。
「乗ってください」
「え?」
「家までお送りします」
「いやいや、悪いよ」
「大丈夫です」
「でもねぇ」
「体力には自信があります」
「若いからって、そんなこと言うもんじゃないよ」
「ははは」
悪魔だから疲れないのだが、説明できる訳もなかった。
「ほら」
「…………」
「どうぞ」
「じゃあ……お願いしようかねぇ」
「はい!」
おばあさんを背負って立ち上がる。
「重くないかい?」
「全然」
「そうかい?」
「はい!」
そのまま山道を歩いた。
◇
「ここだよ」
小さな家だった。
ストラトスがおばあさんを下ろす。
「おつかれさまでした」
「こっちの台詞だよ」
おばあさんが笑い、足を地面につけた。
「あら?」
「?」
「痛くないねぇ」
「よかったです」
「さっきまで、あんなに痛かったのに」
おばあさんが不思議そうに足首を触る。
「きっと、おぶってきたので足を休ませられたからでしょう」
「そういうもんかねぇ」
「はい」
ストラトスは頷いた。
『…………』
印籠から、何か言いたそうな気配がした。
◇
「夕飯くらい食べていきな」
「でも――」
「助けてもらったんだ。それくらいさせておくれ」
『ミスターモス、どうしたものでしょう』
『好意は受けておけ。でなければ、金品を渡そうとするかも知れない』
『わかりました』
「では、いただきます」
「そうしな」
食卓には、山菜やきのこを使った料理が並んだ。
「これは何ですか?」
「それかい? この辺じゃよく採れる山菜だよ」
「これは?」
「そっちはきのこ」
「初めて見ました」
「珍しくもないけどねぇ」
「そうなんですか?」
もしかするとテンペストにもあるのかもしれないが、ただ自分が知らなかっただけだ。
ストラトスは一口食べる。
「…………」
「どうだい?」
「おいしいです」
「そうかい」
おばあさんが嬉しそうに笑った。
「これ、少し分けていただいてもいいですか?」
「山菜を?」
「はい。覚えておきたいです」
「変わった子だねぇ」
そう言いながら、おばあさんは少しずつ包んでくれた。
◇
「それじゃ、風呂にも入っていきな」
「お風呂ですか?」
「ああ。もう沸いてるから」
「…………」
身体を清潔にするだけなら《クリーン》があるし、そもそも悪魔に入浴は必要ない。
しかし――
ストラトスは考えた。夕食もそうだったが、おばあさんは自分に何かを返したいのだろう。
「では、いただきます」
◇
「…………」
湯に浸かる。身体が温かい。それだけなら分かる。
だが、何だろう。上手く説明できない。
身体を綺麗にするなら《クリーン》の方が早いし、温度を上げるだけなら魔法でもできるのに。
「…………気持ちいい」
『そうか』
「はい」
『…………』
「ミスターモスも入りますか?」
『入らない』
「そうですか」
即答だった。
◇
翌朝、ストラトスは、家の裏で薪を割っていた。
斧を振り下ろすたび、乾いた音とともに丸太が二つに割れる。
旅立つ前には、積まれていた丸太のほとんどが薪に変わっていた。
「まあまあ……」
声に振り向くと、おばあさんが布包みを手に立っていた。
「おはようございます」
「おはよう。これは弁当だよ。道中でお食べ」
「ありがとうございます!」
受け取った布包みから、昨夜と同じ山菜の香りがした。
おばあさんは、綺麗に割られた薪の山へ目を向けた。
「薪まで割ってくれたのかい。ありがとうよ」
「昨日は、お風呂までありがとうございました。とても気持ちよかったです」
「そうかい、そうかい」
おばあさんが嬉しそうに笑った。
「それなら、もっといいところがあるよ」
「もっと?」
「この山を越えたところにね、湯が湧いてる場所があるんだ」
「お湯が?」
「ああ。地面から勝手に出てくるんだよ。昔から、この辺の者はそこで身体を温めるんだ」
「行ってみます!」
「気をつけてね」
「はい!」
◇
ストラトスは、おばあさんに教えられた場所へ向かった。
「あった……」
岩の間から湯気が立っている。地面から湯が湧いている。
手を入れると温かく、匂いも昨日の風呂とは違った。周囲の岩も変わった色をしている。
地下に何があるのだろう。なぜ温かく、なぜ匂いが違うのだろう。
『入らないのか?』
「あ」
ストラトスは服を脱いだ。
「入ります!」
◇
「…………」
湯に浸かる。昨日とは違う。何が違うのか、まだ上手く説明できないけれど。
「気持ちいいです」
『そうか』
「はい!」
しばらく浸かってから、ストラトスは周囲を見回した。
「岩も違いますね」
『ああ』
「匂いも違います」
『そうだな』
「温泉を見ると、その土地のことも分かるかもしれません。地面の下に何があるのかとか」
『そうだな』
「旅の勉強になります!」
『…………ああ』
モスは否定しなかった。
◇
それからだった。旅先で温泉があると聞けば、ストラトスは足を運ぶようになった。
山の中、森の奥、小さな村、街の宿。
色も匂いも温度も周囲の岩も違い、土地を知るための資料になる。そして――。
「気持ちいいです」
それも、大事だった。
風呂や温泉から上がれば印籠を取り出し、神精蜜の量を確認する。
まだ、ある。
ストラトスは目を閉じ、心の中で感謝を伝える。
それから、そっと蓋を閉じる。
ここまでが、清潔化をかける前の、いつもの手順だった。
続いて、印籠に清潔化をかけ、ネルで丁寧に拭く。ほんの少しだけ菜種油を使い、最後にセーム革で黒漆をゆっくりと磨き上げる。
「今日もきれいになりました」
『ああ』
最後にもう一度、優しく拭く。
『……ふぅ』
「?」
『何でもない』
「…………」
ストラトスはふっと微笑み、また印籠を丁寧に磨き始めた。
湯上がりの灯りの下、黒漆は静かに艶を増していった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
身体を綺麗にするだけなら、清潔化で十分。
そんなストラトスが、旅先で初めて風呂や温泉の気持ちよさを知るお話でした。
温泉は土地を知るための勉強にもなる――というのはストラトスらしい理由ですが、もちろん「気持ちいい」ことも大切です。
そして、丁寧に印籠を手入れするストラトスと、口には出さないものの、まんざらでもなさそうなモスでした。
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