血にまみれ涙にまみれ
ホテルに着くと、アレクシスの車はホテルの車寄せに着陸した。
「送ってくださりありがとうございました。また会える日を楽しみにしていますわ」
車を降りようとするヴァイオレットをアレクシスが引き止めた。
「別れの前に、君に忠告したいことがある。俺が昨夜襲われたのは、エスペラント企業連合の手先だった。企業連合の息のかかった者以外が君と結婚するのを阻止するつもりだ。君の見合い相手のモーガンは遠からず辞退を申し入れるだろう。ユエはエスペラント企業連合と無縁だが、君の周辺がきな臭いと知れば手を引くはずだ。ダシャ、ヴァレンチーナ、ベンジャミンはいずれも企業連合傘下の企業関係者だ、君を手に入れようとさらに躍起になるだろうな。状況や君の言動から推察するに、企業連合も君の見合いは想定していないことだったんだろう。君自身にも危害を加える可能性も否定できない」
ヴァイオレットの背中を、ぞーっと嫌な感覚が這い上がった。急に自分が危うい立場にいると言われて、とても平静ではいられなかった。
「私の結婚一つで、どうして企業連合はそこまでするのですか?」
「君は自分の価値を理解していないらしいな。それに、君の見合い相手の一人は、他ならぬ俺だ。結婚すればエンナと商会が取引を始めるのは誰の目にも明らかだ。……もっとも、惑星エンナが企業連合傘下のままでいいと考えるなら、何の問題もないが」
ヴァイオレットはめまいを覚えた。考えるべきことが多すぎるのに、不安や恐怖のせいで落ち着いて物を考えられなかった。そもそも、惑星のオークションに備えてお金持ちの結婚相手を探そうだなんて、考えが浅すぎたのかもしれない。
「俺からの忠告は以上だ。……顔が真っ青だが、病院へ戻るか?」
「いえ、結構です。ホテルで休みますわ」
ヴァイオレットは車から降りようとしたが、足がもつれて転びかけた。寸でのところでアレクシスがヴァイオレットの腕を掴んで支えた。
「部屋まで送ろう。構わないか?」
「……ありがとうございます」
ヴァイオレットはふらついていたが、アレクシスが支えてくれたので自室までたどり着くことができた。ソファーに座らせてもらい、再び礼を言った。
アレクシスが口を開こうとした時、ベッドルームの方で贈り物の山が崩れる音がした。ヴァイオレットは肩を落とした。
「誰かいるのか?」
「誰もいませんわ。見に行かれなくて大丈夫です。贈り物をいただきすぎて収納ができていないんですの」
ヴァイオレットはリビングルームの壁一面に置いた美術品や宝石を指差した。
アレクシスはそれを見て眉をひそめた。彼が感情を露わにするのは珍しいことだった。彼が何に不快感を覚えているのか、ヴァイオレットには推し量ることができなかった。
「これをご覧になったからにはアレクシス様は何も贈らないでくださいな。そのうちベッドまで埋め尽くされてしまいますわ」
「その時には俺の部屋のベッドを一つ君にあげよう」
アレクシスが冗談を言ったのか判断がつきかねた。ヴァイオレットは恥ずかしくなって目を伏せた。
「俺はこれで失礼する。先ほどの忠告を忘れないでくれ、たとえ俺を信用できなかったとしても。念のため君に護衛を付けるようコーディネーターに提言しておこう」
アレクシスが帰った後、ヴァイオレットはベッドルームへ向かった。閉めておいたクローゼットの扉が開いており、中に積んでいたプレゼントの箱が床に散らばっていた。
しゃがんで箱を拾い集めようとすると、視界の端に靴のつま先が見えて手を止めた。顔を上げると、ドアの横にベルボーイが立っていた。よく部屋まで見合い相手たちのプレゼントを運んでくれる人だった。見知った人とわかるなり、ヴァイオレットは詰めていた息を吐き出した。
「驚いたわ、どうしてこんなところにいらっしゃるの? またお荷物を運んでくださったの――」
ヴァイオレットは最後まで言えなかった。胸倉をつかまれ、毛足の長い絨毯の上に引き倒されたからだった。覆いかぶさってくるベルボーイの顔は感情が完全に欠落していて、不気味だった。
「何、何をするの?」
ヴァイオレットが大声を上げた瞬間、左頬に衝撃が走った。視界が激しく揺れ、口の中に鉄の味が広がる。盛大に転んだ時みたいだった。
殴られたのだと気づいて体が硬直した。だが、血の付いた拳を見て、恐怖に突き動かされた。
身をよじって逃げようとするが、髪を掴まれて引き戻される。無我夢中で床に転がっていた物を掴んで振り回した。手ごたえを感じて目を見開くと、ベルボーイのこめかみに金属の箱の角がめり込んでいた。ヴァイオレットの口から悲鳴が出る。しかし、ベルボーイはこめかみから大量出血しているのに瞬き一つせず、拳を振り上げた。ヴァイオレットは再び殴られ、視界は涙で滲み、今度こそ痛みと恐怖で動けなくなった。
「声を出すな」
ベルボーイが耳元で囁いた。ヴァイオレットはぎゅっと目を瞑り、どうにか頷く。飲み込んだ唾は鉄の味がして、吐き気がした。
続けてベルボーイが何か言おうとした瞬間、ヴァイオレットの体にのしかかっていた重みが消えた。ぐしゃり、と嫌な音がした。
「ヴァイオレット、無事か?」
アレクシスの声だった。ヴァイオレットが目を開けようとすると、アレクシスの手がヴァイオレットの目元に手を当てて塞いだ。
「見るな。今から君を部屋から連れ出す、それまで目を閉じておけ」
ヴァイオレットがうなずくと、アレクシスがヴァイオレットを抱えあげた。移動し始めたのを暗闇の中で感じた。
「もう目を開けていい」
恐る恐る目を開けてアレクシスの肩越しに周りを見ると、部屋の外の廊下だった。エレベーターに乗り、アレクシスは一階のボタンを押した。
「わかっていると思うが、先ほどのは企業連合の手先だ。この後どこへ行きたいかは君が選択してほしい。昨日の病院は完全に中立の立場で、いかなる戦闘行為とも無縁だ。しかし、君がそこにいると奴らが掴んだ場合、君が外に出た瞬間に襲われるだろう。警察に行くという手もある。銀河中の警察組織の中で最も中立に近い立場だが、ここも似たようなものだ。君の護衛を申し出るかもしれないが、役者不足は否めない。君、この街で他に頼れる人はいるか?」
「い、いません」
コーディネーターが頭に浮かぶが、この事態に対処してくれるとは思えなかった。
「では俺が君に援助を申し出よう。治療、護衛、宿泊場所、いずれも提供する。懸念点としては君が俺に助けを求めるなら、アクラシエル商会側との結託を表明するも同然ということ。さあどうする? 君が行きたい場所へ連れて行く」
エレベーターが一階に到着し、ロビーへと進むと、血まみれの二人を見た人々から悲鳴が上がった。
ホテルを出るとアレクシスの車が飛んできて、アレクシスはヴァイオレットを抱えたまま乗り込んだ。アレクシスが何かのボタンを押すと、グレーの外装はぐにゃりと歪み、次の瞬間には真っ黒な装甲車へと姿を変えた。
「ここまで来ればひとまず安全だ。もう離れて問題ない」
アレクシスがヴァイオレットの体の下から手を引き抜いた。それから、ヴァイオレット、と困惑交じりに名前を呼ぶ。
「このまま放してくれないなら俺の家に連れて行ってしまうが、いいのか?」
ヴァイオレットはアレクシスに抱き上げられた時から彼の首筋にかじりついたままだった。
「か、体が、動かなくて……」
やっとのことでそう伝えると、アレクシスはヴァイオレットの腕を剥がし、膝の上に置いた。
ようやくアレクシスから離れて、顔を上げると彼と目が合う。彼の顔の半分は血で赤く染まっていて、ヴァイオレットは声にならない悲鳴をあげた。
「君は血も駄目か……」
アレクシスは服の袖で乱雑に顔に付着した血を拭い取った。
「あ、ご、ごめんなさい。助けてくださったのに。ありがとうございました。私、こんなこと……初めてで、どうしていいか……」
アドレナリンが切れてきて、殴られた頬が痛くて堪らなかった。流れる涙を拭おうとすると、手が血まみれなことに気づいて悲鳴を上げた。しかし、悲鳴も長くは続かなかった、喉が痛かった。
アレクシスがヴァイオレットの血まみれの手を握りしめた。彼の手も血に濡れていた。互いの手はぬるついていた。
「時間切れだ」
車が発進し、一気に浮上した。法定速度を超えて、車線高度よりも高い場所を飛んだ。
アレクシスのため息が首筋にかかって、ヴァイオレットは肩をびくりと跳ねさせた。自分が今、アレクシスの膝の上に座っていることを思い出す。
ヴァイオレットは惑星の外に出るまで他人と手を握ったこともほとんどなかった。見合い相手たちがヴァイオレットに触れてくることがあったが、そのたびにストレスを感じた。だが、今はなぜか不快感を覚えない。自分よりも高い体温、がっしりとした体つき、血ついた大きな手。そのどれもが傍に在って違和感がない。
アレクシスの指が、ヴァイオレットの爪に付着している血を擦り落とした。サクラ色の爪が露わになる。
「君の手は美しいな。仕事をしている手だ。そして、戦場を知らない」
灰色の目が細められた。その瞳はヴァイオレットの知らない恐ろしい何かを映していた。




