瞳の奥に愛の残滓を探して
ワン・イニョンは、ワイングラスを傾けながら悩まし気に眉間に皺を寄せていた。見た目の通りの年齢だった頃は顔に皺が刻まれるのを嫌って表情を作るのさえ厭うていたが、不老不死化手術を受けた後は何も気にすることがなくなっていた。
贅を尽くした私室には、イニョン以外には誰もいなかった。床には砕けたワインボトルやグラスが散らばっていたが、誰も片付けに来なかった。イニョンはあえて人間の召使を大量に雇っていたが、今は彼ら全員で教団幹部の遺体を片付けている最中だった。
教団幹部たちはこれから事故死したことになり、遺族へと莫大な保険金が支払われる。当然、遺族も教団員であるため金は丸ごと教団の物になる。しかし、そのうちいくらがエンナのオークションに回せるかは不透明だった。
教団は被害妄想をこじらせた被害者たちに訴えられていた。さらには教団の建物で立て続けに火災が発生したため建て替えを余儀なくされており、多額の資金を必要としている状態だった。
教団を訴えている被害者たちを率いる弁護士は、かつて両親と姉が教団への献金と修行のせいで極貧のうちに死んでいったことをひどく恨み、復讐の為に弁護士になった女だった。弁護団はアレクシスの援助によって教団を苦しめ続けており、イニョンの責任まで追及されていた。
イニョンは怒りのままにグラスを床に叩きつけた。だが、まるで気分は晴れなかった。むしろ余計に床が汚れて苛立つばかりだった。
「イニョン、大丈夫?」
妻の一人セラが、大きな音を聞きつけて部屋に入ってきた。汚れた床を見て眉をひそめたものの、ガラスを避けて歩き、ソファーに腰掛けた。
もう一人の妻ルイーズは異国の地で教団の訴訟の対応をしてくれているが、セラはそばで支えたいとイニョンとともに残ることを選んだ。
セラの蜂蜜色の瞳も、透き通る白い肌も、イニョンが選んだものだった。それ以外も体のほとんどはイニョンが選んだ生体パーツで、セラの元の体で残っているのは脳だけだ。かつてイニョンに愛されたいとすがってきたので、要求を飲むなら結婚してあげると肉体を捨てることを条件に出し、セラはそれを承諾したのだった。
だが、あの結婚から十年も経ってしまい、イニョンは徐々に彼女に飽きつつあった。ルイーズのような有用性もなく、ただの木偶にしか見えなくなっていた。
何より、ヴァイオレットを味見してしまってからというもの、セラはおろかルイーズまでも色あせて見える始末だった。
一刻も早く彼女を、あの惑星ごと手に入れたくて堪らなくなってしまった。力強い金の瞳が涙に濡れ恐怖に揺れる様を、もう一度間近で見たいのだ。美しい花園の中で、この手の中でヴァイオレットの命が潰えるまで愉しみたいのだ。
「聞いてる、イニョン? 怪我はない?」
セラはかつてと変わらない姿でイニョンの手を握り、怪我がないかをためつすがめつして確認してきた。そのいじらしい姿も、腹が立った。
彼女は不老不死化手術を受けてはいないものの、その見た目を維持するために莫大な金額をかけており、当然その金はイニョンの懐から出ている。これまでははした金だと思って気にも留めなかったが、急激に資金源が断たれつつある今は死活問題になっていた。
企業連合からの莫大な役員報酬も度重なる失態のせいで減額が決定しており、投資による収入も著しく低下していた。
その上、アレクシスを亡き者にするために非合法組織に法外な金を渡しており、連合傘下の企業経由で秘密裏に支援している宇宙海賊からも莫大な金を吸い上げられていた。
「怪我がなくてよかった。この頃あなたは根を詰めているみたいだし、心配だよ」
イニョンは舌打ちをこらえた。この女の――かつては男だったが――根本的な解決にもならないのに寄り添うだけの上っ面な言葉が、どうしようもなく腹立たしい。十年前はそう思わなかったはずなのに、セラのすべてが気に入らなかった。
「一人になりたいの、わからない? お願いだから放っておいて」
「でも……」
イニョンはセラの手を振り払った。乾いた音が静かな部屋に響いた。
「私の為を思っているなら、さっさとアレクシスの弱点を見つけてきなさいよ。探すと言ったのはあんたのはずよ、この口先ばかりの役立たず……! あの嘘塗れの犬畜生が潔白なんて絶対にあり得ないわ」
それは近頃のアレクシスへの襲撃でますます確信を持つようになったことだった。アクラシエル商会の情報偽装は完璧と言っても過言ではないため、アレクシスの過去を調べるだけ時間の無駄だったが、あの男が普通の人生を歩んできていないことだけは確実だ。
危険地帯で戦争を経験した傭兵や最新式の殺人ドローンを送り込んでも返り討ちにされ、宇宙海賊に至ってはアレクシスが設立した商会の護衛船団に拿捕され撃墜される始末。アレクシスが相当な訓練を積んだか、戦場育ちでないと説明がつかなかった。
「でも、本当に何も見つからないの。商会の方が情報戦ではずっと上手だし……」
「見つからないですって? ダークウェブの最奥にまで潜れるくせにふざけてるの? 裏社会で生きてたあんたが今さらそれを恐れるなんてあり得ない。私があんたに期待してるのはそれだけ、そうじゃなかったら結婚なんてしなかったわ。私がオークションに負けるならあんたのせいよ!」
セラは顔面蒼白になり、やがて肩を震わせて涙を流した。イニョンは床に落ちているガラス片を取り、セラの肩に突き刺した。絶叫が部屋に響き渡り、赤い絨毯に血が迸った。
「何泣いてるのよ、あんたの涙なんかに価値はないのよ!」
「ああ、ご、めんなさい、イニョン……」
セラが手を伸ばしてきたので、イニョンはその手を払いのけ、苛立ちのままにセラを床に突き落とした。床の上に落ちたセラは、体中にガラス片が突き刺さって大きな悲鳴を上げた。
血まみれで泣き叫ぶセラの姿に、イニョンはますます失望を深めた。こんな女にまで力を貸してもらわないといけない自分の現状に、イニョンは視界が真っ赤に染まりそうなほどの怒りを覚えた。母の代から世話になっていた取り巻きたちには距離を置かれるようになり、企業連合でも味方は減る一方で、教団でもイニョンを快く思わない連中が増えていた。
これまでは願うだけで物事は全てうまくいったし、口にしたことはどんなことでも崇高なものだと受け取られた。子どものころから自分と世界は繋がっていて何もかも思うがままだと思っていたし、それを疑ったことはなかった。だというのに、近頃はその繋がりを感じられなくなり、人々はまるで悪者でも見るような目を向けてくる。
血まみれのセラが顔を上げた。イニョンはセラの瞳を自らの鏡としてその中に愛の残滓を探したが、見つからなかった。そしてそれはセラも同じだった。イニョンは二人の間にあったか細い糸が決定的に切れた手ごたえを感じていた。しかし、どうでもいいと思った。
ふらつきながら立ち上がったセラは、虚ろな瞳で言った。
「ごめんなさい、イニョン。アレクシスの弱点を見つけてみせるから、どんな手を使っても……」
足を引きずりながらセラが部屋を出て行った。イニョンは靴のつま先で血まみれのガラス片をつついたが、何の感慨も浮かばなかった。




