戯れの一噛み
アレクシスはエンナ標準時間の朝六時に宇宙船で出発する予定だったので、ヴァイオレットも家に残らずアレクシスと共に宇宙港へ向かった。宇宙港には貿易船がいくつも並んでおり、その並びの端にアレクシスの船があった。
企業のロゴが大きく表面に描かれている貿易船とは対照的に、アレクシスの船は機能性だけを重視していると言わんばかりに無骨だった。
船内も外観と同様に無駄を排した造りとなっていた。居住スペース、操縦スペース、倉庫の三区画に分かれていたが、いずれもアレクシス一人で使用するには十分すぎる広さだった。
船内には宇宙船の操縦から修繕までこなすロボットが二台、それから一台の治療・家事用ロボットの姿があった。一緒に宇宙船に乗ったシシィは、久しぶりの同型ロボットと会って心なしか喜んでいるように見えた。
「すでに宇宙港管制局と話は付けてある。明日の朝にこの惑星を発つまで君もこの船から出るな」
「どうしてですの?」
「この惑星はヴレードル以上に入星検査が厳しく異星人はほぼ立ち入り禁止状態だが、イニョンの手先が入り込んでいる可能性はあるだろう。警戒するに越したことはない。もし襲撃されてもこの船なら大抵の攻撃には耐えられる」
ヴァイオレットはヴレードルのホテルでベルボーイに殴られた時のことを思い出してぞっとした。
「イニョンの母は聖人とまで言われた人物だったが、イニョンは悪魔どころか魔王と言われている。あの女は生まれつき反社会的な性質で、精神的に成熟する必要がない環境で生きてきたから、感情の赴くままに他人を支配し、罰し、平気で殺すんだ」
「そんなことができてしまうなんて、今でも本当は信じたくありませんわ」
「それが奴の持つ権力だ。だが、今回の件は奴にとって大きな隙だ。エンナを追い詰め教団では金を搾り取っている。いかに側近共が有能とはいえ、ここまで過激な行動を取れば世の反発も免れない。奴は君と会ってから異常性に拍車がかかっている。そのせいでこの短期間で敵を増やし過ぎた、銀河中に奴への怨念が渦巻くほどに。俺たちの味方は多い、だから君も心配し過ぎる必要はない」
アレクシスは淡々と説明したが、それがヴァイオレットの不安を和らげるためのものだということは明白だった。
「ありがとうございます、アレクシス様」
ヴァイオレットがにっこりと微笑むと、アレクシスはぱっと顔を背けた。
「とにかく、ここに居てくれればそれでいい。出発まで自由に過ごすといい。ここには俺しかしないからヴェールも外せばいい」
言われた通り、ヴァイオレットは顔を覆い隠していたヴェールを外し、船内で自由に過ごした。
ヴァイスと一緒に船内を見て回り、アレクシスと一緒に夕食を取り、浴場スペースで体を綺麗にした。寝る前にシシィにメンタルヘルスチェックをしてもらい、調整不要のお墨付きを貰ってから、ベッドスペースへと向かった。
ベッドスペースにはシングルサイズのベッドが二つ並んでおり、うち一つにはアレクシスの上着が無造作に置かれていた。先ほど充電用のドッグへと向かって行ったシシィは、その服の存在を認識しながらも無視して通り過ぎていた。
アレクシスの服を見て、ヴァイオレットは急にヴレードルの夜のことを思い出した。体が火照り、落ち着きが失われていく。
「ヴァイオレット、何をしている?」
浴場スペースから出てきたアレクシスに後ろから声をかけられ、ヴァイオレットは飛び上がった。アレクシスは不思議そうな顔をしつつ脱ぎ捨てていた上着を洗濯機へ放り込んだ。
「……なんでもありませんわ」
「ベッドが小さくて不満かもしれないが、地球に着くまでは我慢してくれ」
「一人で寝るには十分なサイズではありませんか。私、そこまで贅沢者ではありません」
「俺と結婚するのだから飽くまで奢侈を尽くせばいいのに」
アレクシスはベッドに腰掛け、壁面のパネルを操作してメイン照明を落とし、ようやくヴァイオレットの顔を見た。薄闇の中で灰色の瞳が細められた。
「エンナ人も結婚相手と同じ寝所で眠る種族だと思っていたが、違ったか?」
「人によります。わ、私は、一人で眠りたいですわ」
「あの日は一緒に寝てくれたのに?」
言って、アレクシスはヴァイオレットの方へと手を差し伸べた。ヴァイオレットはふんと鼻を鳴らして顔を背け、腕も組んだ。
「同じ手には乗りませんわ」
「ふざけていない、君を抱きしめたいだけだ」
ヴァイオレットは数秒悩んだが、結局アレクシスの手を取った。膝の上に乗せられて抱きしめられた。大きな手がヴァイオレットの背中を撫でたが、緊張は和らぐことなく、むしろ一層高まっていった。
このままおふざけが続くかと思われたが、アレクシスは体を離した。
「人に触れられるのはやはりまだ怖いか?」
アレクシスが心底申し訳なさそうに言って、ヴァイオレットを膝の上からベッドへと移動させようとしたので慌てて首を振った。
「もう怖くありませんわ、シシィに治療してもらえたお陰です。もしも嫌だったらアレクシス様の手を取りませんでしたもの」
シシィから受ける治療の過程でイニョンからの暴行の意味を知ってひどくショックを受けたが、深刻なトラウマが形成される前に処置を受け、歪みかけた思考を枝を矯めるように正常化することができたため、人と触れ合い対する恐怖心がすっかり消えるほど回復することができた。
しかし、アレクシスは納得してくれなかった。
「だが、君はひどく警戒しているみたいだ」
「警戒しますわ! だ、だって、また同じことをするのではと思ったんですもの」
灰色の目の奥で何かが揺らめいた。ヴァイオレットはどうやってか彼に火を点けてしまったことに気づかされた。心臓が早鐘を打つ。けれど、それは暴力に怯えたせいではなかった。
船内は薄暗く表情が不明瞭だとわかっていたが、顔を隠したくて堪らなかった。しかし、ヴァイオレットの両手はいつのまにかアレクシスに片手で握られていた。
「あの時は何が何だかよくわからなかったけれど、あれは人間の交尾だったのでしょう?」
ヴァイオレットはそれをヴレードルからエルドラドまでの旅の途中で見た異星の映画で偶然知った。何もしていないことに耐えられず無心で見続けていた映画の中で、突然始まった登場人物たちが裸で抱き合うシーンに、ヴァイオレットは飛び上がって驚いたのだった。
「何をされるかわからなくてずっと怖かったのに、アレクシス様は大丈夫としか言ってくださらなかった」
「俺の言った通り、大丈夫だっただろう?」
「でも、怖かったですわ」
「俺が? それとも君が?」
アレクシスがヴァイオレットの肌に歯を立てた。まるで痛みを感じない戯れの一噛みで、ヴァイオレットの唇の隙間からこらえ切れなかった熱い吐息が漏れた。
あの時、どちらも怖かった。全身をくまなく優しく触れるのに熱に浮かされた顔をしていたアレクシスも、触れられているだけでおかしくなった自分も。
今は、何をされているか理解しているというのに、あの時以上に怖い。
「俺は先代に拾われた時に不妊手術を受けたから君を妊娠させるおそれはないよ。君を痛めつけることはしない。君が嫌だと言えばやめるし、逃げたくなったらいつでも俺の手から逃げればいい。君に自由を約束しただろう?」
言いながら、アレクシスはその手でヴァイオレットの腰を掴んでいた。汗ばんだ熱い肌だった。
狭いベッドに二人並んで寝そべった。ヴァイオレットは隣の自分のベッドに行きたかったはずなのに、アレクシスの腕に捕まっていて、どうしても抜け出せなかった。
「君を地球に連れてくまでにベッドは一つでいいと言質を取るつもりだったが、そんな必要はなかったな」
「……別に構いませんわ、しばらく我慢すればいいだけですもの」
「それなら地球でもベッドは一つでいいか?」
「アレクシス様のご自宅のことに口出しする権利はありませんわ。それに、私はずっと地球にいるつもりはありませんもの」
「オークションが終わったら俺は用無しか、冷たいな」
「自由にして良いと仰ったのはアレクシス様ではありませんか」
ヴァイオレットは寝返りを打ってアレクシスに背を向けた。なるべく遠ざかろうとしたが、アレクシスがヴァイオレットの体が落ちないように手でガードしていたのでほとんど無意味だった。
「ああ、そうだな。約束を違えるつもりはないが、こんな思いをするくらいなら自由を与えなければよかったよ。だが、君が自分の意思で俺と一緒に居てくれたらと、そんなことを考えてしまったんだ」
ほどなくしてアレクシスの規則的な吐息が聞こえてきて、ヴァイオレットは詰めていた息をひっそりと吐き出した。
「やっぱりあなたは心臓に悪い人だわ」
ヴァイオレットはもう一度寝返りを打った。アレクシスに体を寄せるとベッドの端から遠ざかることができて、よく眠れそうな気がした。




