惑星いっぱいの花を君に
ヴレードルを離れて約六か月、惑星エンナに戻ったヴァイオレットは、実家でひたすら療養していた。仕事の手伝いを禁じられ、学校も行けず、シシィの治療やカウンセリングを受け、ヴァイスを撫でて一緒に遊んだ。
時間はいくらでもあったが、勉強は手がつかなかった。これから経営について学んでいこうとした矢先に惑星を出てしまい、掟を破ったためエンナの後継者としての資格は失われたも同然で、何を学ぶべきかわからなくなっていた。
禁を破って惑星を出たヴァイオレットの元を友人や知り合いが訪ねてくることは避けるべきとされ、ヴァイオレットは両親以外誰とも会えなかった。
両親はヴァイオレットが精神的なショックで口を利けないと知ると同じくらいショックを受けて優しくしてくれた。ヴァイオレットについてきたシシィやヴァイスも、新しい家族の一員として温かく迎え入れてくれた。
アレクシスとは連絡を取らなかった。エンナから惑星外へ個人的な連絡をやりとりするのは容易なことではなく、別れ際のことも引きずっていたので無理をしてまで連絡をしようとは思わなかった。
彼のことは時々天の川銀河のニュースで見たが、アクラシエル商会の仕事に関する事柄ばかりで、忙しくしていることしかわからなかった。婚約者ができたことはニュースになっておらず、ヴァイオレットは自分が逃げたせいだとわかっていても落ち込んだ。
おそらくアレクシスも結婚を諦めたことだろう。結局、彼に本当のことを伝えることもできず、傷つけたままで関係は終わってしまった。エンナとエルドラドでさえ十光年は離れており、ヴレードルはそこからさらに数十光年の距離がある。光でさえも届くまで何十年もかかる遥か彼方、ともすればもっと遠い地を旅している人を想うのは、夜空に光る星に手を伸ばすより空しい行為だった。
エンナを買い戻す目論見は頓挫し、新しい計画が必要だったが、療養中のヴァイオレットには何もできなかった。両親もエンナの現状を詳しくは教えてくれなかった。
もどかしくておかしくなりそうになるたび、家を出てひたすら散歩をした。花畑や温室がどこまでも広がっている景色は、ずたずたに引き裂かれたヴァイオレットの心を落ち着かせてくれた。
治療を続けている日々の中でも毎晩悪夢を見た。体を切り刻まれてイニョンに食べられる夢。体中に爪を突き立てられる夢。ピンヒールで踏みつけられる夢。頬に食らいつかれる夢。バーベナの肉を口に突っ込まれる夢。
悪夢で目が覚めると、妖精花の歌声を聞いて震えが収まるのを待った。
妖精花は惑星エンナ原生の花で、夜ごとに妖精語と呼ばれる音で囁くように歌うのだ。人の歌声とは異なる種類の、風の音や水のせせらぎと近い心地よい音だった。
妖精花は惑星外への輸出品として人気が高い。しかし、輸出直前の妖精花たちが遠くへ行かされることを怖いと妖精語で囁き歌うので、しばしば子供たちに妖精花のために歌を歌って宥める役目が課された。ヴァイオレットも幼いころに歌の番を言いつけられ、倉庫で一人歌ったことがあった。
今にして思えば人間の都合でエンナの土から取り出されて惑星外へ出荷してしまうのは酷なことだった。彼らにとって、安息の地はここにしかないというのに。
平穏だが息詰まる生活が終わりを告げたのは、ヴァイオレットが丘の上の木陰でヴァイスと昼寝をしている時のことだった。急にヴァイスがけたたましく吠えたのだ。
ヴァイオレットは微睡から覚醒し、体を起こして辺りを見回した。
「ヴァイス」と、鋭い声が飛んできた。
「主人の顔を忘れたか、座れ」
ヴァイスは吠えるのをやめ、渋々座った。丘の向こうから現れたのはアレクシスだった。燃える太陽のような赤い髪も、曇り空のような灰色の目も、何も変わっていなかった。
唖然としているヴァイオレットの前に、アレクシスが膝を突いた。アレクシスはしばらく言葉を探している様子だったが、やがて苛立たし気に髪を掻き上げた。手を下ろした時にはすべて諦めたような顔をしていて、額に前髪がはらりと落ちた。
「この六か月、君に会えたら何て声をかけようか考えていたはずなのに、忘れてしまった。……とにかく、ずっと君に会いたかった」
言ってから、アレクシスはさらに表情を暗くした。
「ああ、全く自分が嫌になるよ。君にはいつも言いたいことは言えないし、言うつもりのなかったことばかり伝えてしまう」
ヴァイオレットがふふっと吐息で笑うと、アレクシスの表情も和らいだ。
「君に謝罪しに来たんだ。君が傷ついているときに怒りをぶつけ、君が助けを必要としているときに犬と機械任せにした。俺が間違っていた」
ヴァイオレットは首を振った。自分も悪かったと言いたくて堪らなかったのに、喉のあたりで言葉がつっかえていた。言葉にできなかった思いのせいでまた目に涙が滲んで、手の甲で拭った。
アレクシスは、しっかりと言いたかったことが伝わったというのに、なぜか困り顔をしていた。
「どうしてこうもあっさり許してしまうかな。これをネタに俺を強請ればいいのに」
二人の側でお座りをさせられていたヴァイスがため息めいた息を吐き出した。むっとしたアレクシスはヴァイスに遠くで遊んでいるように指示を出し、ヴァイスは大人しくそれに従ってシシィと追いかけっこを始めた。
ヴァイオレットは今度こそ声を出そうとしたが、まだうまくいかなかった。アレクシスに聞きたいことは山ほどあった。まさか謝るためだけにここに来たとは到底考えられなかったからだ。
アレクシスはヴァイオレットの物問いたげな雰囲気を察すると、理解したという風に頷いた。
「ここに来たのは謝罪のためだけではないよ。これを君に渡さなくてはならないんだ」
アレクシスが懐から薄青いプレートをヴァイオレットに手渡した。ヴァイオレットが触れた瞬間文字が空中に浮かんだ。被告ヴァイオレット・ヴァーノンの本人認証を完了、訴状を開封します、とあった。訴状は宇宙共通語で書かれていたのでヴァイオレットも読むことができたが、アレクシスが口頭で説明した。
「俺は君を訴えた。婚約破棄状態に陥ったにもかかわらず婚約指輪の返却に応じないためだ。俺からの損害賠償は一億地球ドル。被告が宇宙裁判所からの通達が届かず、連絡を取るのが難しい環境にいる場合、提訴した側が訴状送達人を立て被告へ届ける必要がある。俺は俺自身を送達人に指定した。訴状送達人は移動に関して特権を持つ、たとえエスペラント企業連合のイニョンであっても妨害できないほどだ」
ヴァイオレットは突然のことに混乱するばかりだったが、ひとまず家に指輪があることを伝えようとその方角を指差したが、アレクシスの表情は曇った。
「指輪を返す気か? 俺と結婚できなければ、故郷の惑星を買う金を手に入れる機会は二度とないぞ」
ヴァイオレットは驚きに目を瞬いた。まさかアレクシスがその情報を掴んでいるとは夢にも思わなかったからだ。
「指輪は返さなくていい、要らなければ捨ててくれ。そもそも君を本気で訴えている訳ではない、誰にも邪魔されず君に会いに来るために必要な手続きだっただけだ。後で必ず訴えを取り下げる。……信用できないなら証書でも作ろう」
ヴァイオレットが首を振ると、アレクシスはほっとしたような顔をした。
「君とこの惑星のことは大方調べがついている。破産させられようとしていること、そしてオークションにかけられることも。君がこの惑星を救うことを諦めていないなら、力を貸そう」
アレクシスはおずおずと両手を広げた。ヴァイオレットはしばらく無言でアレクシスの手を見つめていた。ここ暫くされるがままの犬を自分の都合で抱きしめてきたので、他人に抱きしめてもらうときにどうすればいいのかわからなくなっていた。
「どうしてそこまでしてくださるのですか?」
ひどく久しぶりに声を発したので、ヴァイオレットの声はかすれていた。声が出た喜びよりも重大なことがあったので感動する余裕もなかったが、アレクシスは大きく目を見開いた後、ヴァイオレットよりも嬉しそうに目を細めた。
「エンナでは婚約者に自分で育てた花を贈ると教えてくれただろう。一介の商人である俺は花を育てることはできないが、代わりにこの惑星ごと君に花を贈る」
アレクシスはヴァイオレットの目を真っすぐに見つめてきた。曇りのない眼だった。
「だから、俺と結婚してくれ、ヴァイオレット」
ヴァイオレットは顔が真っ赤になるのがわかった。それはきっとヴェール越しでもわかってしまうほどだ。
「で、でも、私はアレクシス様を騙していました。そんな私がそんな申し出を再び受けることはできませんわ」
「あれで俺を騙せていたつもりなのか?」
信じられないという顔をされて、ヴァイオレットは傷ついた。塞がりつつあった心の傷が再び開き、じくじくと痛んだ。
「そんな言い方なさらなくても良いではありませんか……。だって、あれらがアレクシス様を騙そうとした私への罰でなければ何だったというのですか?」
バーベナのむごい死、そしてイニョンの仕打ち、それらが理由もなくヴァイオレットに降りかかったとは信じられなかった。自分の中でそう説明づけなければ、とても受け止められないことだった。
「ヴァイオレット、君に降りかかったことが罰に見えたとしても、それは誤った帰結だ。存在しない神が君を罰することはないし、因果応報の理も人が世界に見出した錯覚の一つに過ぎない。この世に在る罰とは人が人に与える裁きのみだ」
ヴァイオレットが納得できないでいると、アレクシスは困ったように微笑んだ。
「金と自由と愛と、さらには罰まで欲しいのか?」
「罪には罰が与えられなければ、どうして自らを許すことができるというのですか?」
「だったら尚のこと俺と結婚してくれ、俺の結婚相手はおそらくこの銀河で最も不幸な人になるだろうから」
「信じませんわ、そんなこと。全てを約束されて不幸になどなりようがないですもの」
ヴァイオレットが立ち上がって逃げようとすると、アレクシスが強引に抱き寄せてきた。
「できるさ。君と結婚してもらうために星一つ買おうとしている人間がどうしてその程度のことをできないと思う?」
急に寄りかかられて、ヴァイオレットは反射的にアレクシスの背中に腕を回して支えてしまった。彼の痛切な思いが伝わってくるが、ヴァイオレットもほとほと困り果てていた。
「アレクシス様。顔を上げてください。そんなに多くを受け取れません。エンナをお救いくださるのは本当に嬉しいことですけれど、私は贈り物を受け取るのに相応しくありませんわ」
「いいや、君しかいない。君でなければ意味がない」
ヴァイオレットは胸が苦しくなった。こうして抱きしめられて、抱きしめてしまって、彼の気持ちを見ないふりはもうできなかった。
彼が再び危険を冒してはるばる宇宙を旅して閉ざされたエンナへ来たのはヴァイオレットのためだ。行動の全てが彼の気持ちが変わっていないことを証明している。
「どうか俺から全てを受け取ってくれ、それを君への最初の罰としよう」
そう言われてしまうと、ヴァイオレットにはもう返す言葉がなかった。
アレクシスが与えようとしているものはあまりにも大きすぎて結婚程度では釣り合いが取れるとは思えなかったが、彼は何かを要求するそぶりさえもなかった。見返りを求めない態度がいっそ恐ろしかった。しかし、ついにヴァイオレット首を縦に振った。
「……わかりましたわ。改めて結婚の申し出を受けいたします。どうかお力をお貸しくださいませ」
答えを聞くや否や、アレクシスが一層強い力で抱きしめてきて、彼の中の言葉にできない強い感情が押し寄せてきた。それはヴァイオレットが知る愛とはかけ離れていて、焼けつくような激情だった。
しかし、内に渦巻く感情とは裏腹に、腕の中は風に乗ってきた花々の香り、それから人の肌の匂いがした。




