嘘も真実も霧の中
「アレクシスなんかよりよっぽど贅沢させてあげるわ。パートナーはあなたのほかに二人いるけど、平等に愛してあげる」
甘ったるい声でヴァイオレットの名前を呼び、イニョンは作り物のように綺麗な手を伸ばしてきた。ヴァイオレットは震えながらその手を避けた。足元のヴァイスはイニョンに対して警戒を解いていなかった。だから、ヴァイオレットもイニョンの言葉に流されてはいけないと思えた。
拒絶されたイニョンは冷え冷えとした眼差しを向けてきた。
「あんな愛想のない男のどこがいいの? それともあなたの故郷を苦しめている組織の元締めとは結婚したくないだけ?」
「苦しめている自覚がおありなの? それなら結婚よりもまず、エンナに対して不当な買取価格の引き下げをやめていただきたいわ。企業連合傘下以外の企業との取引の邪魔もやめていただきたいのです。それを訴えることができないのも、あなた方の仕業だと聞き及んでおります」
ヴァイオレットは声を抑えて言ったが、気付けばカフェから客はおろか店員やロボットさえもいなくなっていた。カフェが面している通りも、なぜか誰も通りかからない。
「あなた、金に目がくらんだ子じゃないのね。どう足掻いても無駄なんだから、故郷にずっといればよかったのに。あの惑星は私が競り落とそうと思ってるの。あなたもそれが目的で金持ちに近づいたんでしょう? なら、私たちの目的は一緒ね」
イニョンは頬杖をついてヴァイオレットを見つめる。その様はただの美少女にしか見えなかったが、彼女が放つ空気には異様な重みがあった。
「競り落として、どうなさるんですの?」
「それは秘密。結婚相手との間に秘密があったっていいでしょう? アレクシスだってあなたに自分のことを何一つ話していないんじゃない? 何故だかわかる? あの男は誰の事も信じないし、誰もあの男を信じていないからよ。そんな男と結婚して大丈夫なの? どんな甘言に騙されたか知らないけど、やめておいた方がいいわ。アレクシスが地球出身なんて真っ赤な嘘、先代アクラシエル商会会長がどこかの惑星で拾ってきた孤児よ。しかも戦争用に調整された野蛮な人種の血が入ってるみたいね。先代の後継者候補は何人かいたけれど、後継者争いで他は殺された。当然、殺したのはアレクシス。そうやって後継者の座を勝ち取ったの。先代もアレクシスに殺されたという噂もあるわ。そうでもなければ二十歳そこらで会長の座には就けない。ねえ、生まれた時から何一つ不自由したことのないあなたに想像できる? 自分の肉親や兄弟、世話になった人たちを殺してでも地位と金を手に入れようとする人間の心境が」
あら、とイニョンは嬉しそうな声を上げた。
「エンナ育ちのあなたには刺激が強かったわね。ごめんなさい。でも、考え直すきっかけになったようでよかったわ」
ヴァイオレットが顔を伏せると、ヴァイスが心配するように顔をヴァイオレットの膝に乗せてきた。柔らかくて優しい温もりが、胸に突き刺さった言葉の痛みを和らげてくれた。ヴァイオレットは、今更だとわかっていてもヴァイスの耳を塞いだ。イニョンの話が嘘でも本当でも、忠実な犬まで傷つく必要はなかった。
「ねえ、あんな男はやめて私と結婚しましょうよ」
「いいえ。私は故郷を守りたくてここに来たのです、あなたとは結婚などできませんわ」
ヴァイオレットが席を立とうとすると、イニョンがヴァイオレットの手を掴んで無理やり座らせた。ヴァイスが立ち上がって唸り声を上げる。
イニョンがヴァイオレットの耳元に顔を寄せて低い声で囁いた。
「馬鹿な子ね、ヴァイオレット・ヴァーノン。大人しくあの惑星でお姫様をやっていればよかったのに、わざわざ外へ出て、あなたは穢れたわ。人の疑い方も知らないくせに人を信じられなくなってしまった。もしかしてアレクシスにはもう抱かれたの? 永遠に清らかな体でいられたはずなのに、ますます汚らわしいわね」
ヴァイオレットは顔がかっと熱くなるのを感じた。穢れたという言葉の意味を理解しきれずとも、惨めな状態にあると言われたのは明白だった。
「ああ、あなたのような子がもう一人いたわね。バーベナだったかしら?」
今度はヴァイオレットがイニョンの手を強く握った。イニョンのいやに澄んだ茶色の瞳を食い入るように見つめて、嘘の淀みを探した。だが、その淀みさえもヴァイオレットには見分けられなかった。
「彼女に会いたいかしら?」
「会えるの……?」
ヴァイオレットは今の状況を一瞬だけ忘れて胸を膨らませた。バーベナとはこの広い銀河で幸運な偶然によって巡り合えたのに、連絡を取る方法も分からず、二度と会えないと諦めていた。
「ええ、会わせてあげられる。どうする?」
会いたい、と言おうとしたヴァイオレットの脳裏に、ヴレードルですれ違った彼女の姿が浮かぶ。見ないでと声を発することもできなかった彼女。
「でも、彼女は私に会いたくないと思っているわ……」
「上辺だけでしょ、言葉はいつだって言葉通りなんかじゃないわ。裏を読まないと外の世界ではやっていけないってそろそろ理解したらどう? 彼女だって本心では会いたいと思ってるんじゃないかしら? ごちゃごちゃ考えてないでさっさと会いに行きましょ」
イニョンはヴァイスを顎でしゃくった。
「その犬は置いていきなさい。アレクシスのなんでしょ」
言って、イニョンはヴァイオレットの手を無理やり引くが、ヴァイオレットはその手を振り払った。
「自分で歩けますわ」
ヴァイオレットはしゃがみこんでヴァイスの頭を撫でた。
「おりこうさん。ひとりでもお家に帰れるかしら?」
ヴァイスがいかにも納得していない声で鳴いたが、一応の返答ではあった。ヴァイオレットはリードを歩く時に邪魔にならないように首に巻いてやった。
もう一度だけヴァイスの頭を撫でてから立ち上がり、イニョンと向かい合った。相変わらず彼女の瞳は澄み切っていて、言葉の真偽は霧の中だった。だが、嘘か本当かを知りたいなら、行動して確かめればいいだけだった。
「先に言っておきますけれど、私はただ友だちに会いに行くだけ。イニョン様とはお見合いも結婚もしません。よろしくて?」
イニョンが鼻で笑った。
「私たちって友だちになるのも難しそうね」




