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君に捧ぐ花の星  作者: 水底 眠
第1部
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昨日も今日も、きっと明日も

 天井と壁の境から朝日が差し込んだ。三面の壁と天井の境にはガラスがはめ込まれており、暗い部屋をぼんやりと照らした。


 ヴァイオレットは目を覚まし、柔らかな光で緩やかに覚醒した。その途中で一瞬だけ仕事や学校のことを考えたが、ヴレードルにあるアレクシスの別荘にいることを思い出した。


 体を起こすとかかっていた毛布がシーツの上に落ちた。自分が裸であることに気づいて、とっさに腕で体の前を隠した。しかし、部屋にはヴァイオレット一人だった。


 何か着るものを探そうとした時、壁が霧散してロボットが部屋に入ってきた。ロボットはアームで服のかかったハンガーラックを引っ張っており、ヴァイオレットの前で止まった。


「おはようございます、ヴァイオレット様。朝食のご用意ができていますが、召し上がりますか?」

「おはよう、ロボットさん。いただくわ」


 ヴァイオレットは着替えて部屋を出た。ダイニングエリアに着くと、アレクシスが待っていた。ヴァイオレットは目を合わせられず、か細い声で挨拶をして席に着いた。


「おはよう、ヴァイオレット。体の具合はどうだ?」

「……それをお尋ねになるということは、昨日のことは、ひどいことだったんですの?」

「ひどいことをした覚えはないが、無理をさせた覚えはある。だから尋ねた」


 ロボットが部屋に入ってきて、テーブルの上に朝食を配膳した。ヴァイオレットは水の入ったコップをひっつかんでごくごく飲み干し、空のコップをテーブルに置いた。部屋に静寂が満ちた。


「心配ご無用ですわ」

「それは何よりだ。さて、今日は君に婚約宣誓書にサインしてもらいたい」

「い、今書きますわ!」


 ヴァイオレットが手を突き出すと、ロボットが背面の収納スペースを開けて公文書作成専用の筆記具と、婚約宣誓書を取り出してテーブルに置いて、部屋を出て行った。


 ヴァイオレットは筆記具を掴んでサインした。署名が強制によるものでなく自由意志であることを証明するために精神状態まで記録する筆記具は、ヴァイオレットのやけに高い心拍数まで記録していた。


「俺も書くからペンを貸してくれないか?」


 ヴァイオレットは宣誓書を凝視したままペンを握りしめていたが、アレクシスに言われてまだ書類が完成していないことに気づいた。


 ペンの端を持ち、アレクシスの手に触れないよう細心の注意を払って受け渡しを行った。アレクシスは呆れ混じりに笑った。


「私ばかり落ち着かなくて、理不尽ですわ」

「自分ばかりだと思うなら、脈でも計ってみるか?」


 言って、アレクシスはシャツの袖をまくってテーブルの上に腕を置いた。ヴァイオレットは人差し指をアレクシスの血管の上に置いてみたが、自分の心拍も上がってきて、当然計測などできなかった。


「わかったか?」


 結果など分かり切っているはずのアレクシスに問われて、ヴァイオレットはふんと鼻を鳴らした。


「そんなことより早くお名前を書いてはいかがかしら?」

「そうするよ」


 アレクシスは宣誓書を自分の前に置いてサインをした。


「俺も全く冷静ではないよ、君と出会ってからずっとどうかしている。昨日は特に、今朝も同じだ。君が一度も俺の顔を見ないからそうとわからないだけだ」


 ペンを置く音が静かな部屋に響いて、余韻さえも耳に聞こえてきた。静寂にアクセントがついているように二人きりであることが殊更際立ち、これ以上目を背けることはできなかった。ヴァイオレットは顔を上げ、すぐに灰色の目と視線がぶつかった。


「ああ、やっと目が合った」


 その声のせいで手の中に熱い肌の感触が蘇ってきた。体の奥でぶりかえした熱のせいで、ますます顔が熱くなり、じわりと肌に汗が滲んだ。


「そろそろ食事にしよう、君もお腹が空いただろう」


 ヴァイオレットは頷いて、そのまま視線を下げた。それでも体温は下がらなかった。


 二人はまたしても無言で食事を取った。ヴァイオレットはあまり食欲がなかったが、果物だけでもと無理して食べた。


 朝食を終えた時、コーディネーターから婚約宣誓書を受理したと連絡が入った。いつもの淡白な文面ではなく、派手な装飾文字を使って絵文字までついていた。


「改めてどうぞよろしく、ヴァイオレット」

「こちらこそよろしくお願いしますわ」

「取引や結婚の具体的な話は……また明日以降にしようか。君の故郷では、婚約のしきたりはあるか?」

「自分で育てた最上級の花を贈り合いますわ。でも、ここでは難しいことですから、アレクシス様の故郷の風習に合わせますわ」

「わかった。君の故郷の風習に倣えず申し訳ないが、俺から婚約指輪を贈ろう」


 アレクシスはポケットから小さな箱を取り出した。中にはダイヤモンドから削り出した指輪が入っていて、アレクシスはそれをヴァイオレットの左手薬指に嵌めた。


「君の趣味に合わなければいくらでも買い直そう」

「そんな、とんでもないですわ。大事にします」


 ヴァイオレットは輝く指輪を様々な角度から眺め回した。一つのダイヤモンドからカッティングされた指輪は、光の角度によって色とりどりにきらめいて、見ていて飽きることがなかった。


 かざした手の向こうのアレクシスと目が合って、ヴァイオレットはまたしても冷静さを失った。


「も、もうよろしいかしら? 私、外へ出かけたいんですの」

「構わない。ヴァイスを連れて行くのを忘れずに。俺もこの後仕事で出るが、夕食の時間までには戻る」

「わかりましたわ、私も、それまでには戻るようにいたします」


 ヴァイオレットは踵を返して部屋を出た。エントランスホールへ行くと、ヴァイスがリードを咥えて待っていた。出会い頭にヴァイスをもみくちゃに撫でた。ヴァイスは納得いかなさそうな顔をしていたが、されるがままになった。思う存分撫でまわしてから抱き着いて匂いを嗅いだ。ヴァイスは犬らしくない清潔な匂いがした。


「私、なんだかおかしくなってしまいましたわ……」


 ヴァイオレットはため息を吐いて、ヴァイスを抱きしめたまままたもみくちゃにした。


「ねえ、ヴァイス。あなたのご主人様はどうして私にお金も自由も愛も約束してくださったのかしら?」


 ヴァイスは小声でキュウキュウと鳴いた。その声を聞くだけで堪らない気持ちにさせられた。


「わかっているわ、本当は。アレクシス様はきっと私のことが、好きなんだわ」


 声にしてみれば、何とも短い音だった。あっけないその長さとは裏腹に、ヴァイオレットの頭の中では次々とアレクシスの声や表情が浮かび続けていつ終わるともしれない状態だった。


「ああ、でも、でもよ。私はまだアレクシス様に肝心なことを打ち明けられていないわ。惑星が欲しいだなんて言ったら、そのために結婚したかったとお伝えしたら、百年の恋だって冷めてはしまわないかしら?」


 ヴァイスは困ったように鳴いた。ヴァイオレットはヴァイスの頭を首を背中をお腹を撫でて、それからぎゅっとヴァイスを抱きしめた。


「でも、騙し続けるのはやっぱり無理よ。帰ってきたら話をするわ。まだ婚約した段階だもの、私の本当の目的を知って結婚したくないと思われても間に合うわ」


 気分が落ち着いてから、ヴァイオレットはヴァイスを連れて外に出た。別荘の敷地から出るだけで一苦労だったが、めげずに歩いて外に出た。落ち着ける場所を求めて、近場のカフェに入った。コーヒーを注文して、テラス席に座った。ヴァイオレットがぼーっとコーヒーの湯気を眺める傍らで、ヴァイスが足元で伏せをしながら道を歩く人々をじっと観察していた。


 湯気が消え始めたあたりで我に返り、ヴァイオレットはコーヒーを飲んだ。すこし意識がはっきりしたが、深く物事を考えられるレベルではなかった。昨夜のことが意識に侵食してきてどうにもならなかった。


 考えるべきことはいくらでもあった。アレクシスにどうやって話を切り出すか、もし破談になったらどうするか、うまくいったとしてエンナに戻って両親にどうやって説明するか、エンナとアクラシエル商会の商談の場をどうやって設けるか、等々。


 ヴァイスの唸り声が聞こえて、ヴァイオレットは身を固くした。急にヴァイオレットの向かいの椅子が引かれ、一人の女が座った。一糸乱れぬ漆黒の髪を前下がりのボブカットにしていて、なめらかすぎる肌と完全左右対称の顔のパーツと相まってヒューマノイドのようだった。


「アクラシエルの意味を知っている?」

「……え?」


 ヴァイオレットは突然の事に混乱して、碌な返事もできなかった。


「天使の名前。天使ラジエルの別名で、天地の全ての知識を書き記した本の著者とされているの。といっても、全部古代地球人の書いたでたらめだけれど。この宇宙の何処を探しても神は存在せず、当然天使も悪魔もいなかったんだから」


 女はハイヒールを履いた足を弧を描きながら持ち上げて、優雅に組んだ。ヴァイスの鼻先を靴裏が掠めたが、ヴァイスは動揺を見せなかった。


「あなた婚約してしまったのね。遠い惑星に居たものだから出遅れたの、残念だわ。ちょうど昨日、私もあなたにお見合いを申し込んだところだったのに」

「そ、それは、申し訳ないことをしましたわ」

「いいの、別に。私とお見合いしてくれるなら許してあげる」


 ヴァイオレットが面食らうと、女は声を上げて笑った。


「ダメなの? 私にも金はあるのよ?」


 ヴァイオレットの腕輪が光る。女が送ってきたであろうプロフィールには、ワン・イニョンという名前、それから資産額は三兆地球ドルとあった。


 彼女のことは、天の川銀河事情に明るくないヴァイオレットでさえ知っていた。不老不死技術によって百年以上生き長らえているたった十人のうちの一人であり、天の川銀河の長者番付でこの五十年不動の一位であるエスペラント企業連合の筆頭理事だ。


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