人の愛と呼ばわる
二人は二階の東側の部屋で夕食を取った。ヴレードルの日没を見ながら、ヴァイオレットが食べたいと言ったコテージパイを食した。無言の夕食となったが、二人での食事だったのでヴァイオレットは不満ではなかった。
食事を終えて、ヴァイオレットは再びゆっくりと湯船に浸かった。湯船の中で暮らすことを考えていると、皮膚が白くふやけていることにぎょっとして慌てて風呂から上がった。
脱衣所で待機していたロボットが、ハンガーラックにずらりと並んだ服を示した。
「お召し物は自由にお選びください」
「ありがとう。これも極小のキューブでできているのかしら?」
「いいえ、アレクシス様のご指示で購入した物です。明日以降のお召し物もご準備しております」
ヴァイオレットは改めてハンガーラックにずらりと並ぶパジャマを見た。少なくとも二十着はあり、触れるまでもなく上等な生地に洗練されたデザインのものだった。
それから、時計で時間を確かめ、アレクシスの別荘に来てからまだ数時間しか経っていないことを再確認した。
「歓迎されていると受け取るべきかしら……?」
ヴァイオレットはあれもこれもと目移りしたが、最終的にフリルのついたコットンのロングワンピースを選んだ。ワンピースに袖を通し、ロボットの前でくるりと一周回った。
「似合うかしら?」
「お似合いです」
「ありがとう」
良い気分になったヴァイオレットはロボットに先導されて自室として宛がわれた西フロアへ向かった。
部屋はパジャマのデザインに合わせてか、クラシックな地球西洋様式の設えになっていて、ペールグリーンの壁には様式化されたユリとアイリスが描かれていた。さらに、純白のバラが透明の花瓶に生けられていて、懐かしい甘い香りを漂わせていた。
ヴァイオレットは部屋の角に置かれた青い一人掛けのソファーに座って部屋を眺め、昨日から今日の出来事に思いを馳せた。精神的なショックは治療によりかなり軽減されていたが、それでも手が震えた。
「ヴァイオレット様、精神的動揺を検知しました。また、悪夢の兆候が見られます。ご就寝前に治療を推奨しますが、いかがしますか?」
部屋の隅で置物のようになっていたロボットが近づいてきて問うた。
「ありがとう、ロボットさん。でも、心配ご無用よ。思い出して怖くなっただけだから」
ロボットの表情ディスプレイにうるうるした目が映り、ヴァイオレットはついくすっと笑ってしまった。
「人の役に立てないと悲しいのかしら? でも、あなたとずっと一緒にいられるとは限らないし、依存するのも怖いの。だから、アドバイスをいただけるかしら?」
「何なりとお申し付けください」
「こんなにも怖いことが建て続けに起こったのは生まれて初めてのことで、どう受け止めていいのかわからないの。これからのこともうまくいかない気さえしてきて……。どうか教えてくださらない?」
ロボットがアームを伸ばし、ヴァイオレットの手のひらに先端を乗せた。ヴァイオレットは柔らかなアームを優しく握った。
「まずは深く息を吸ってください、風呂から上がられた時と比較して十パーセント程度酸素摂取量が減少しています」
ヴァイオレットが意識して呼吸を繰り返すと、ロボットがディスプレイに大きく丸を表示させた。
「続いて、私のアームを軽く握り、離し、握るのを繰り返してください。肌触り、弾力、今この瞬間に体が感じ取るものに意識を向けてください」
言われた通りにロボットのアームの先端を握ったり離したりして、何とも言えない柔らかくも固くもある感触に集中した。夢中になってむにゅむにゅしていると、ロボットのディスプレイにまたしても丸が表示され、続けて笑顔が表示された。
「脳波が安定し、悪夢の兆候も減少しました」
「ありがとう、ロボットさん」
ヴァイオレットは礼を言ってからも、しばらくロボットのアームを握っていた。そうしながら冷静さを取り戻した頭で考えた。ヴァイオレットを取り巻く状況はひっ迫している、このまま漫然とアレクシスの別荘で過ごすことはできなかった。だが、幸いにも見合い相手たちはすでにヴァイオレットに対し結婚の条件や見返りを提示し終えている。あとはヴァイオレットが決断するだけだった。
「ロボットさん、寝る前にアレクシス様と話したいのだけれど、今夜のご予定はわかるかしら?」
ロボットは表情ディスプレイに確認中と表示し、十数秒ほどで元の目と口に戻った。
「お会いになるそうです、こちらへどうぞ」
アレクシスは一階の執務エリアで椅子に座って目を瞑っていたが、ヴァイオレットが近づくと目を開けた。ヴァイオレットのパジャマ姿を見て怪訝な顔をした。
「寝る前に少しだけお話がしたかったんですの。ごめんなさい、このような恰好では無礼だったかしら?」
「無礼だとは思っていないが、仮にも結婚を申し出ている相手の前でそんな恰好をして……。俺を試しているのか?」
「試す? 一体何を?」
ヴァイオレットもまた怪訝な顔をした。二人は同じ表情で見つめ合っていたが、先にアレクシスが目を逸らした。
「エンナ人は、ひょっとして妊娠しない民族か?」
「にんしんって、何ですの?」
ヴァイオレットは霧の中から現れた椅子に腰かけた。
「ヒトが自分の体の中で胎児を育てることだ。エンナ人は子房を使ってしか子どもを作れないのか?」
「他にどうやって子供を作るんですの? 病院で細胞を採取してもらって、子房の中で育てますわ」
ヴァイオレットは故郷の親戚の家で見た子房を思い起こした。
ハンモックの上に置かれた真っ白な丸いポッド。触るとつるりと滑らかで、ほんのり温かかったのをよく覚えていた。
この中で赤ちゃんが育ってるんだよ、おまえもこの中にいたんだよ、と教えてくれたのは父だった。
「なるほど……。妙な反応をして申し訳なかった、よく似合っている。さて、脱線させてしまったが、話とは何だ?」
ヴァイオレットはやけにどきどきしている胸を深呼吸で落ち着かせてから言った。
「アレクシス様。婚約の話、答えが決まったのでお伝えさせてください。私、アレクシス様と婚約したいですわ」
返事を聞いたアレクシスが僅かに身を乗り出した。対するヴァイオレットは恥ずかしくなってきて椅子の背もたれに体重を預け、さらには腕を組んだ。だが、そうまでしてもアレクシスの表情を確認することはできなかった。
「先に言っておきますけれど、自分でしっかりと考えた決断ですわ。エンナの惑星間貿易は変えていくべき大きな課題ですもの。故郷に戻ってアクラシエル商会様との取引ができるよう話をまとめます。その代わり、お金も住むところも、お約束通り自由にさせていただきますわ」
早口で言い切ったヴァイオレットは、そうっとアレクシスの反応を窺った。だが、それは想像していた嬉しげな表情ではなく、むしろ不安に惑うそれだった。
「喜んでくださると思ったのに、どうしてそんな顔をなさるの?」
自分の言葉で、ヴァイオレットは自分自身ががっかりしていることに気づかされた。
「嬉しく思っている。だが、君は本当にいいのか? 俺は、君を愛するかも怪しいのに?」
ヴァイオレットは立ち上がり、両手を広げた。それから蚊の鳴くような声で言った。
「アレクシス様、私を抱きしめてくださいますか?」
アレクシスは立ち上がって、躊躇いがちにヴァイオレットを抱きしめた。
ヴァイオレットよりも頭一つ分背の高いアレクシスに抱きしめられると、体がほとんどすっぽり覆われてしまった。ヴァイオレットもアレクシスの背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。恥ずかしくて胸が痛いのに、それでも心は安らぎを覚えた。
「エンナ人にとって、抱きしめ合うことが愛情表現ですわ。大切な人とこうして毎日抱き合って、このまま話をするのです。両親は、抱きしめ合うだけでお互いがどんな一日を過ごして、今どんな気持ちでいるのかが分かると言っておりました。それは積み重ねの賜物です。私とアレクシス様は、きっとそうはなれないけれど、でも時々、本当に時々会って、こうできたら嬉しいですわ」
「……つまり君が求める愛とは、心ではなくて行動であると?」
「心の伴わない行動なんてきっと存在しませんわ。アレクシス様が嫌だと仰るなら、これきりにいたしますわ。私はすでにアレクシス様に多くを求めすぎていますもの」
アレクシスの体からは、かすかに戸惑いや緊張を感じた。ヴァイオレットはアレクシスの背中を撫で、表情を見ようと顔を上に向けた。彼の表情もまた同じものを表していた。
「けれど、これきりになるのなら、すこしだけ寂しいですわ。エンナを出て、ほとんど初めて家族以外の人と触れ合ったんですの。それまで触れられると自分が様々な気持ちになることなんて知りませんでした。触られるだけでなんだか嫌な人、嬉しい人、どちらでもない人。アレクシス様は、不思議な心地がしますわ。急に抱き上げられたり膝に乗せられたりしたのに、嫌ではなかったんですの。どうしてこんなにも違うのでしょう?」
アレクシスは問いかけに答えずに、ゆっくりと顔を近づけて唇と唇を重ねてきた。ヴァイオレットは目を瞬く。
「キスをした。これが俺の知る愛情表現というものだ。どう感じた? ……嫌だったか?」
「いいえ、嫌ではありませんでしたわ。ですが、あまりに近すぎて、とても恥ずかしくて、どうにかなってしまいそう」
ヴァイオレットが言葉を続けようとした時、またしても唇を重ねられた。それは幾度も繰り返された。柔らかい唇同士を重ね合わせるのは、癖になる感覚で、徐々に体の力が抜けて恥ずかしさが溶けていくのを感じた。口の中に入ってきた舌が舌を撫でた時には、ヴァイオレットはアレクシスにしがみついていた。
「キスだけでこんなことになるとは、余程相性がいいのか……」
アレクシスが思案気に言って、ヴァイオレットの顎の裏を指でくすぐった。それだけで何も考えられなくなるほど気持ちが良くて、ヴァイオレットはアレクシスの腕の中で身をよじった。
「傷つけたりしない、続きをしよう。金も自由も愛も全てを約束するから、俺を選んだことをどうか後悔しないでくれ」
アレクシスはヴァイオレットを抱き上げ、部屋を出た。霧散した執務室の壁が元に戻ると、フットライト以外の照明が落ちた。
ヴァイオレットは、続きの意味もわからないのに、漠然とした期待と不安で胸が詰まっていた。もう一度キスしてほしくてアレクシスを見上げると、彼は微笑んだ。灰色の目は、見たこともない色に蕩けていた。




