7. 隠し事
起床のベルが聞こえて間もなく、シエルの部屋の扉をほとほと叩く音がした。
「シエルさん」
扉を開けて中に入ってきたのは、まだ薄暗い早朝にもかかわらず既にきっちりと身なりを整えているシスター・ソフィアだった。
「神父様から、今日は部屋の外に出ないようにとの言いつけです。わかりましたね?」
「え?」
シエルは思わず聞き返したが、シスターは必要なことを言い終えるとすぐに出ていってしまった。すたすたと扉から離れていく足音を聞きながら、シエルは言われたことをぼんやりと頭の中で反芻した。
今日は子供たちみんな、朝日より早起きをしてお祈りの準備をする。だから昨夜はいつもより早く消灯して就寝するようにと、シエルはシスターから言われてその通りにしていたのだ。
(……やっぱり、よくなかったのかな)
理由は想像できる。いくら神父様がいいと言っても、やはり子供たちの中にはシエルのことを怖がる子もいる。シエルが参加するときいて嫌がる子がいたとしたなら、それは仕方のないことだろう。
何だか拍子抜けしたような気持ちになりつつ、こうなったことでどこかほっとしている自分もいた。
孤児院の中の気配に耳をそばだててみれば、あんまり朝が早いので小さな子がぐずっている声がする。それをなだめる子、楽しそうに笑っている声。しばらくすると、子供たちは連れ立って孤児院の外へ出ていき、その気配は聖堂のほうへと遠ざかっていった。
建物の中には一人、シエルだけが残される。
外はまだ暗い。
着替えそこねた部屋着のまま、窓辺の机に寄せた椅子に座って暗い外を眺めていたシエルは、肺の中にたまっていた重い息を吐き出した。
――別に、何かを期待していたわけではないけれど。
シエルは朝食も夕食もこの部屋の中で一人でとる。毎日シスターがシエルの分だけを部屋まで運んできてくれるので、食堂には足を運ぶこともない。孤児院の日課も自分にはかかわりがない。つまりこれは、ただいつも通りの日常が戻ってきただけのこと。
昨日の冒険が楽しい夢だったかのように思い出される。アルドも今頃はみんなと聖堂にいるはずだ。もしかしてとは思ったが、昨日シスターにこってり叱られているはずなので、昨日の今日でまたシエルを呼びにくることはなかった。
シエルも、今日はさすがに聖堂の小部屋へ忍び込む気にはならなかった。今日は祝祭の日を迎えるための大切なお祈りなのだ。儀式の邪魔になることがあってはいけない。これ以上シスターに余計な心労をかけないよう、言われた通りに大人しくしていよう――シエルはそのように気を取り直して机の上のランプに灯りを入れ、分厚い聖典の書を開く。昨日、聖堂の中に連れて行ってもらったのだ。天使像も間近で見せてもらった。シエルは目蓋の裏にあの光景を思い浮かべることができるし、部屋にいても心をこめて祈ることはできる。天使様の花が無事に咲くことを祈る今日の儀式の中で、神父様はどんな祈言を唱えるのだろうか。
ページを捲り始めてしばらくして、再び部屋の扉を叩かれる音がした。
「おはようシエル。起きてる?」
フィニアンの声だった。
孤児院の中にはもう誰もいないと思っていたので、心臓が大きく跳ねた。
シエルは指で追っていた文字から顔を上げて振り向いた。
「う、うん。起きてる」
「入っていいかな」
そう断りを入れてから扉を開けたフィニアンは、いつもの黒いコートを着ていないためか、少し雰囲気が違って見えた。
子供たちはみんな複数人で一つの部屋を一階に与えられているが、フィニアンはシエルと同じニ階の一番奥に自分の部屋を持っている。神父様に言われてシエルを呼びに来たわけではなさそうで、どうやら子供たちがみんなお祈りに行くのを待ってから、今朝の事情をシエルに説明しにきてくれたらしい。
「実は昨夜遅くに、きみを訪ねてきた人がいたんだよ」
と、フィニアンは珍しく深刻な様子で言った。
シエルは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……わたしを?」
「神父様が会って話をして、そのまま帰ってもらったんだけどね。たぶんまた訪ねてくると思う」
「ぜんぜん気がつかなかった」
シエルがそう言うと、フィニアンは少し笑った。昨日はたくさん歩いたせいか、自分で思う以上にぐっすりと眠りこんでいたのかもしれない。
しかし、一体誰がシエルを訪ねて教会にくるというのだろう。当然、心当たりなどあるはずもない。
「どんな人だったの?」
「さあ。僕は会ってないんだ」
それは嘘だとなぜか瞬時にわかった。
フィニアンは困ったような微苦笑を見せたものの、目が笑っていない。もしもシエルの身内の人間が訪ねてきてくれたのなら喜ばしいことのはずだが、そうではないのだろう。
シエルはこわごわとフィニアンの目を見つめた。すると、フィニアンはシエルを安心させるようにいつも通りの笑顔で言った。
「迷子とか家出とか、いなくなった子供を探して家族が教会をたずねてくるのはよくあることだよ。それが夜の遅い時間になることも珍しいことではないし……」
「……わたしの家族かもしれなかったのに、どうして呼んでくれなかったの?」
思わずフィニアンの言葉を遮るようにシエルの口から出てきたのは、正当な疑問だった。
どうも先ほどからずっと、妙にはぐらかされているというか、わざと要点をかわされているような気がしてならなかった。普段のフィニアンは決してこのような違和感のある話し方をする人ではないのもあって、なおさら不審に感じる。シエルが眉をひそめていると、おそらく自分でも自分の言動に無理があると感じていたのだろう。フィニアンはため息をついた。
「うん。そうだよね、ごめん。全部は話さないほうがいいと思ってたけど、やっぱり正直に話すよ」
観念したようにそう言って、薄青色の目がシエルのことをじっと見つめる。
薄暗い部屋に机の上のランプだけでは心もとないのもあり、表情に精彩を欠いているとその顔は本当に人形のように見えてしまう。
「昨日、この教会をつくった昔の領主様の話をしたのを覚えてる?」
椅子に座るシエルと向き合うように、フィニアンはベッドの上に腰を下ろした。
唐突な問いかけだと思ったが、シエルは戸惑いながらも頷いた。もちろん覚えている。
人々は毎日教会で祈るだけでは食べていくことができない。この国では王都の貴族たちが所領をわけあって、それぞれの領地で必要な土地の整備、作物の生産とその収穫量などを管理している。物語の中にはよく領民から搾取する悪い領主の姿が描かれるが、疫病からこの町を救うために私財を投じて教会を建て直したという百年前のセレームの領主様は、今でも語られるほど良い領主様だったとフィニアンは話していた。
「あの領主様の家は百年前からずっと天使様の信仰を大切にしながら続いていて、今はひ孫の代になってる。王都の貴族はふつう同じ王都の貴族同士で結婚するものなのに、今の領主様は父親がセレームの商家の娘と結婚したから、この町で生まれてこの町で育ったんだ。十年前、この孤児院をつくるために多額の寄付もしてくれた。……その人が昨夜、きみを訪ねてきたんだよ。白髪で宝石を嵌めたような目をした、自分の娘がここにいるはずだって」
「!」
ゆっくりとした口調で伝えられた事実に、シエルは大きな衝撃を受けた。
その特徴は、間違いなく自分のことだ。
フィニアンもきっとそう思ったのだろう。しかし、彼は首を振った。
「でも、そんなはずはないんだよ」
フィニアンは注意深く言葉を選んでいる様子で、明確にそれを否定した。
「今の領主様に子供はいない。小さい頃の病気が原因で子供を作ることができない身体になってしまったんだって。結婚相手は王都からきた美しい女性でね、子供には恵まれなかったけど二人はとても仲が良かった」
でも、と伏せられた睫毛が瞳に暗い影を落とす。
悲しい過去を思い出すように。
「三年前、セレームで冬の病が流行したときに領主様はその最愛の夫人を亡くしてしまった。それ以来、再婚相手を探すこともなくずっと屋敷に閉じこもって、人前には姿を見せなくなってしまったんだ」
フィニアンはそう言って、さらにもう一つ。シエルに小さな驚きをもたらす事実を教えてくれた。
領主様の亡くなった夫人というのは、神父様の妹らしい。
しかし、それはそこまで驚くべきことではないのかもしれない。
神父様は十年前に王都からきた人であり、聖職者になることができるのはもともと王都の貴族の出身者に限られている。きっと、そういう偶然もあるのだろう。
「だから昔は交流があって、とても親しかったんだって。なのに三年前すべてが失われてしまって、領主様が神父様の親友として教会を訪ねてくることもなくなった。それなのに昨夜、三年ぶりに訪ねてきたんだ。友人同士の再会の挨拶を交わすこともなく、いるはずのない娘を探して」
どういうことなのかは僕にも神父様にもわからない、とフィニアンは言った。
ただ、だからといって力なく途方に暮れているわけでも、得体のしれない出来事に怯えているわけでもないようだ。フィニアンは薄青色の目で、呆然としているシエルをまっすぐ見つめていた。
「シエル」
と、彼は改めてシエルの名前を呼んだ。
シエルの両手は自分でも知らぬ間に膝の上でスカートの布地を固く握りしめていた。いつも陶器のようになめらかでひんやりとしたフィニアンの両手がその手を取り、いつもよりずっと強い力で握られる。
心臓が大きく鳴った。
フィニアンは一度迷うように瞳を揺らしてから、見たことがないほど真剣な顔つきで言った。
「僕はエリオットの友人として彼の力になりたい。シエル、きみにはそれに協力してほしい」
――初めて聞いたようなその名前が神父様の名前だと気づいたのは、少しあとでのことだった。
言葉の意味を考えるよりも、シエルはただその真剣さに押されるように頷いた。
「ありがとう」
と、フィニアンは心なしかほっとしたように微笑む。
その顔にいつもの穏やかさが戻るのを見て、シエルはようやく自分がひどく緊張していたことに気がついた。
外から鳥の声が聞こえる。いつの間にか、白く明るい朝の光が窓から差しこみ始めていた。




