8. 狼の森
教会に行くため丘の坂道を上ってくる人たちとすれ違いながら、シエルはフィニアンとともにこっそり教会を抜け出した。
目立たないようにと、大きな頭巾がついた黒いローブを貸してもらった。長い白髪もその中にしまいこみ、できるだけ顔を上げず、離れないようについていく。まるで影法師のようだ。
セレームの領主様――エヴァンゼール伯爵の住む屋敷は、教会の丘から少し離れた南西の町外れにあるという。
その辺りは建物がほとんどなく、木々が林立して森のようになっている。フィニアンはあえて舗装された道から外れ、その森の中へと歩いていった。町とは違い、人がめったに足を踏み入れることもない森の中にはまだ冬の間にうずたかく積もった雪がほとんど溶けずに残ったままだ。しかし辺りは春の訪れを教えるような木漏れ日に包まれ、小鳥のさえずりが響いている。草の茂みをこそこそと揺らして動いたのは、野ウサギだろうか。
「一ヶ月前にきみが倒れていたのはこの辺りだったよ」
と、フィニアンは森の中を少し進んだところで立ち止まってシエルに教えた。
指し示されたその場所には、しかし何かがあるわけではない。ただ雪に覆われた地面があるだけだった。
「どうしてこんなところにいたんだろうって思っていたけど、ここをこのまま進んでいけば領主様の屋敷の近くに出られるはずだ。――どうかな、何か思い出せそう?」
そう問われて、シエルは注意深く周囲の景色を見回した。
ローブを貸してもらえてよかった。雪があるせいか、少し寒い。この澄みきった冷たい空気や、積もった雪を踏みしめる感触。何となく覚えがあるような気はするが、はっきりと思い出せそうにはなかった。
「……やっぱり、覚えてない。ごめんなさい」
「いや、いいんだ。とりあえず、手がかりになりそうなものを一つずつあたってみるだけだから」
それよりも雪に足をとられて転ばないようにと、フィニアンはそう言ってまた歩き始めた。
シエルに協力してほしいとは、つまり事の真相を確かめるというのだ。
三年ぶりの再会だったという昨夜の領主様の来訪を受けて、神父様の心中もきっと穏やかではないだろう。そして、シエルのことも気がかりに違いない。フィニアンにしても同じだが、それはおそらくシエルのことをただ心配してくれているだけはないのだろうということに、シエルはもう気づいている。自分でも感じていたことだからだ。
何となく、自分は聖堂に入ってはいけないような気がしていた。
神父様はたとえ罪を犯した人であっても聖堂の扉はいつも開かれていて、誰でも入っていいのだと言ってくれた。しかし、そのような聖なる場所に足を踏み入れることが許されていないものもある。
邪悪なものや不吉なもの。たとえば、物語に出てくる悪魔やそれに従う魔女……そしてそれらの悪しき力を用いて、何かよくない方法でこの世に生み出されたもの。
フィニアンは明らかに、昨夜現れた領主様に対してそのような不吉さを感じている様子だ。そしてもしも領主様がそのようなものに関わりがあるというなら、〝娘〟かもしれないというシエルも同様だろう。むしろそうだと言われれば、自分のこの特異な両目や容姿についても納得ができてしまう。
いくら美しい天使像の瞳と同じだといわれても、普通の人間がこんな目をしているはずがないのだから。
(でも、もし本当にそうだったら……)
わたしは一体どうすればいいのだろう、という不安が込み上げてくる。
シエルは自分を見て怯えた人々の顔を思い出す。そして同時に、アルドや神父様の笑顔と、あの広場の賑やかな光景を。
天使様の祝祭に不吉なものがあってはならない。……真相を確かめる必要があるというのは、つまり、そういうことなのではないだろうか。
「フィニアン」
思わず名前を呼んでしまった。少し先に行っていたフィニアンはすぐに振り向いた。
「どうかした?」
「あ……ううん、何にも」
「何か答えてほしいことがあるなら答えるよ。まだきみに話していないこともあるけど、隠しているわけじゃないから」
まるで頭の中を見透かしたようにそう言われ、シエルは内心ぎくりとした。
いま一番知りたいのは、この人がいま何を考えているのかだ。領主様のこと。シエルのこと。その口ぶりからして、フィニアンはきっとシエルの存在が何か不吉なものである可能性も考えているに違いない。領主様が来訪した昨夜の真相を確かめるというのは、シエルの正体を確かめることにほかならない。確かめて、そのあとはどうするつもりなのだろう。
けれど、それを正直にきくのは怖い。想像するにしても、シエルはまだこの人のことをあまりにも知らないから。
「じゃあ……フィニアンはいつから教会にいるの?」
「三年前から。どうして?」
しばらく迷った末にそうたずねると、フィニアンは質問の意図を確かめるように問い返した。
「神父様と友達って言ってたから、それが不思議で」
「ああ。僕はもともと貧民で、神父様は十年前にこの町へきてから貧民窟の世話もしてくれてたんだ。町の人も以前の神父様も貧民窟には近寄ることさえしなかったのに、本を貸してくれたりもした。それで仲良くなって名前を教えてくれたから、僕が勝手に友達だと思うようになっただけだよ。三年前に怪我をして身体が不自由になったとき、できなくなってしまったことを手伝ってほしいって頼まれて、それから教会に住ませてもらうようになったんだ。……そんなに不思議だった?」
シエルが彼の大きな秘密の一つのように感じていたことは、どうやら彼にとって何の秘密でもなかったらしい。そんなことをきかれたのが意外だったというようなフィニアンの表情に、シエルは拍子抜けした、というよりも安堵した。
こんなふうに答えてくれるとは思わなかった。シエルから見たフィニアンの立場はどこかふれがたい多くの秘密に包まれているように感じていただけで、気になるのなら、きけばよかったのだ。
「なら、領主様のことは? どんな人?」
「領主様のことは神父様から話を聞いただけで、直接会ったことはないよ。僕が知ってるのは三年前に夫人を亡くしてから領主様の人がすっかり変わってしまったこと。あと、それからしばらくして領主様についていろいろな噂が流れるようになって……去年の冬に町で恐ろしい事件が起きたとき、領主様のことをみんなが疑っていたことかな」
「……事件?」
薄青色の目がこちらを見た。
言うべきかどうか、フィニアンは少し考えるように間をおいてから、「人が殺されたんだよ」と言った。
「一人目は誰も名前を知らない浮浪者、二人目は家出して夜遅くまで帰らなかった女の子、三人目は友達だったその女の子を心配して領主様の屋敷を訪ねに行ったきり帰ってこなかった、アルチザン通りのガレットさんのところで働いていたレジーナ」
「! ガレットさんって」
シエルは昨日、リンゴのタルトをくれた焼菓子店の老婦人のことを思い出した。もしかして、とフィニアンが口にしていた名前だ。
「うん。昨日きみとアルドに親切にしてくれたのは、たぶんガレットさんだと思うよ」
フィニアンは微笑んでそう言ってから、少し声を低くして続けた。
「レジーナはもともと教会にいた子で、あのときは僕も神父様と一緒に領主様の屋敷を訪ねに行ったんだ。でも、領主様に会うことはできなかった。町の人たちはみんな恐ろしくて外出を控えるようになって、そのあとはもう新しい犠牲が出ることはなかったけど……結局犯人も何もわからないままで、死んだ人たちが殺された理由さえわかってない」
口調は変わらず穏やかだったが、シエルはその声音に深い悲しみがにじんでいるのを感じた。
フィニアンが何を思って、どんなことを考えているのか、シエルはようやく理解できてきた気がする。
シエルは本当にこの青年のことを何も知らなかったのだ。
「……だから、僕が知りたい真相というのはどちらかといえばその事件のほう。もちろんきみの正体も知りたいけど、もしきみが普通の女の子じゃなかったとしたら不吉だから祝祭の前に町から追い出そうとか、そんなことを考えてるわけじゃないから安心して」
フィニアンはそう言うと、いつもの彼らしい微笑を浮かべてみせた。
やはり頭の中を見透かされていたのかもしれない。もしかしてここまでつまびらかに話してくれたのはすべて、シエルの不安と疑問を払拭するためだったのでは……と、ますますつかみどころがなくなってしまった気がしたが、でも、きっと言葉に嘘はないのだろう。
疑問が解決すると、また新たな疑問が生まれる。
「でも……そんな事件があって、領主様がそんな状態なのに、祝祭をするの?」
シエルが投げかけた三度目の質問に対して、フィニアンはすぐには答えなかった。
それは漠然とした疑問だった。ほんの数ヶ月前の冬の恐ろしい出来事と、春の祝祭を迎える喜びに満ちた光景とがシエルの中で結びつかなかったのだ。
フィニアンから返ってきた答えは、一種の謎掛けのようなものだった。
「そんな状態だからこそだよ。冬が終われば春がくること。雪はいつか止むこと。冬の間に恐ろしいことが起きると、みんなそれを信じられなくなるんだ。この不幸な出来事は、終わらない冬の始まりなのかもしれない。春はきたけれど、また雪が降るかもしれない。けれど七年に一度の祝福の春を無事に迎えることができたら……恐ろしい事件が終わったことも、ようやく信じられるのかもしれないね」
しばらく歩いて、ようやく森の向こうが見えてくる。
そこには木々に囲まれた大きな屋敷があり、広い庭と立派な鉄格子の門が見えた。シエルとフィニアンは森の中に隠れるようにして遠くから屋敷の様子をうかがってみたが、人のいる気配はない。門は固く閉ざされ、庭も長年手入れがなされていないのか、立ち枯れの木や雑草が目につく。
「シエル、あの建物に見覚えはある?」
「…………」
――既視感はあった。
たとえるなら、夢の中で過ごした場所と偶然よく似た場所を現実で見つけたような。
玄関ポーチがあって、一階も二階もすべての部屋のカーテンを閉め切っている。外から中の様子を知ることはできないが、シエルは何となくカーテンの向こうを想像できる気がした。薄暗くて、少し黴臭いような、枯れた花のにおい。
そのとき、ふと目を凝らしたカーテンの隙間から、誰かがじっとこちらを見ていることに気がついた。
気づいた瞬間、ひゅっと喉が鳴った。
「フィ、ニア」
「え?」
「フィニアン、あの部屋、人が」
どく、どく、と血流の音が耳まで聞こえる。
シエルの体の奥の奥にある何かが、怯える小動物のように竦んでいる。やがて体中が震え出した。
ひどく薄気味悪い気配がする。正体の見えない幽霊が背後に忍び寄って、シエルの首に手を伸ばしている。
墓地の地面から立ち上るような冷たく湿った空気が肌にふれて、首をつかまれるその寸前、シエルは振り向いた。
「…………ローラン?」
そして、そう呟いていた。
シエルにはそれが自分の発した声とは思えなかった。ハッとして、とにかくここから離れなければという一心で、すぐ横にいるフィニアンの服をぐいとつかむ。しかし、フィニアンは動かなかった。
「シエル」
硬い声で注意を引くような囁きは、少し震えていた。
少し離れた場所で、がさっと枯れた枝草を踏む音がした。
息が止まった。
――――狼だ。
レターニア山に棲んでいるという獣。灰色の美しい被毛に、がっしりとした四肢、豊かな毛並みの長い尻尾。シエルは物語の中でしか見たことがない。大型のイヌくらいだと思っていたが、それよりもずっと大きい。いや、きっと普通の狼よりもかなり大きい。
「どうして町の中に……?」
フィニアンも驚愕している様子で呟いた。
狼は広い山の中に縄張りをもち、群れで行動する獣のはずだ。石の外壁に囲まれた町の中の森などにいるはずがない。
ぐるぐると低い唸り声が響く。こちらをひどく警戒して、威嚇しているのだ。
「……シエル、落ち着いて。背中を見せないようにゆっくり下がって。狼の目を見ないように。絶対転ばないように、走らないように」
フィニアンの顔を見る余裕もなく、こく、こくと頷いて言われた通りにする。
黒くぬかるんだ土と、地面を覆う雪、露出した石に足を取られないよう気をつけながら、少しずつ、ゆっくりと後退する。先にシエルを逃がすつもりなのか、フィニアンは狼と対峙したままで、その場から動いていない。
「フィニアン」
思わずその背中に声をかけると、フィニアンは振り向かずに大きな声で言った。
「だいじょうぶ! 僕の心配はしなくていいから! そのまま下がって!」
ぎゅっと心臓を握りしめられたように息が詰まった。
足が小刻みに震えている。言われるがまま、下がるしかない。狼の目を見ないように。転ばないように。言われた指示を頭の中で繰り返しながら、一歩、また一歩と後ろに足を進めていく。一体どこまで離れればいいのだろう。既にフィニアンも狼も木立の向こうで、姿は見えない。もう止まっていいのか。ここで待てばいいのか。
焦燥に駆られたシエルがたまらず再び名前を呼ぼうとしたとき、空気を引き裂くような獣の吠え声がした。
「…………!」
それは本能的な恐怖だった。
シエルは恐怖に対する身体の本能として、弾かれたように駆け出した。走るなと言われたことも忘れて、息を切らしながら、足をもつれさせて何度も転びかけながら、恐怖を振り切るようにして走って逃げた。
(どうしよう)
フィニアンを置き去りにしてしまった。その事実に思い至ったとき、ざあっと音を立てて全身の血の気が引いていった。
狼は獲物を追い立てる狩りをする生き物だ。走って逃げたら追いかけてくるのでは。でも、追ってこないということは。ちゃんと逃げ切ることができたということだろうか。じゃあ、フィニアンは。彼はどうなったのか。
無我夢中で走ったせいで自分のきた方向もわからない。胸が破裂しそうなほど呼吸が苦しくなり、シエルはその場にへたりこんだ。せめて呼んで、無事を確かめないと。自分の無事も知らせないと。そう思うのに声は出ず、身体が動かない。頭がしめつけられるように痛い。きっと今までこんなに走ったことなどないはずのひ弱な身体は体力を使い果たしてしまったようで、ついには地面の上に倒れてしまう。
目を開けようとしても、とてつもなく目蓋が重い。そればかりか、直にふれているはずの地面の感触や、土のにおい、身体の痛みも、感覚が次第に鈍くなってゆく。
完全な暗闇に落ちる前に、誰かが呼びかけてくる声が聞こえた。
これは悪い夢だろうか。
身体が動かない。声も出ない。けれど、誰かがそこにいる。
「フィニアン……?」
くちびるが紡ごうとした言葉が声になっていたかどうかはわからない。
シエルは、そのままふつりと意識を失った。




