5. 聖堂の秘密
「どこへ行っていたのですか」
教会へ帰りつくころには時刻は夕方近くになっており、正門前では一筋残さずきちんと髪の毛を収めたウィンプルの上に黒いベールをかぶった老シスターが二人の帰りを待ち構えていた。
いつものしわ深い無表情に、静かな怒りをたたえた顔で。
「外出の許可を出した覚えはありませんよ、アルド。その上勝手に彼女を外へ連れ出したりなどして。もしものことがあったらどうするのですか」
「う。……ご、ごめんなさい」
厳しく眉をひそめるシスターの前では、さすがのアルドも悄然と小さくなって反省の表情を見せる。
子供たちを世話しているこのシスターは決して怖い人ではない。それはよくわかっているのだが、シエルは彼女の灰色の目が苦手だった。彼女のほうもシエルの目に見つめられることを好ましくは思っていないだろう。彼女がシエルを一瞥するとき、その瞳の中には常に得体の知れないものに対する恐怖があることをシエルは知っている。だから、苦手なのだ。
「あの……」
何だかアルドばかりが責められているようで居たたまれなくなったシエルがおそるおそる口を挟もうとすると、シスターは深く嘆息して目をすぼめた。
「貴女もですよシエルさん。敷地内でなら自由にお過ごしいただいて構いませんが、外出するときには神父様のご許可が必要なのですから」
「まあまあ、それくらいで許してあげてくださいシスター・ソフィア」
そこに朗らかな声をかけてきたのは、黒いカソックを身にまとった男性だった。
いつも優しい笑顔を浮かべている、聖エルフィーヌ教会の神父様だ。
「神父様」
今年で四十八歳になるというマリエル神父は、左手に持った杖で不自由な身体を支えるようにしながら歩いてくる。三年前に馬車から転落し、右脚を悪くしてしまったらしい。
神父様の姿を認めたシスターは頬に手をやって短い溜息をつき、「……今回だけですからね」と釘を刺して去っていく。マリエル神父はシエルたちに穏やかな笑みを向けた。
「おかえりなさいシエル、アルド。あまりシスターに心配をかけてはだめですよ。フィニアン、二人を迎えに行ってくれてありがとう。ご苦労様でした」
「ただいま神父様。すぐに見つかってくれてよかったよ」
フィニアンはそう言いながらマリアン神父のほうに近づいていき、自分の右手を支えとして差し出す。すまないね、と神父様は微笑を深めた。その眼差しはシエルたちのほうに向けられた。
「二人とも、町は楽しかったですか?」
「え、えーと……」
投げかけられたその言葉に何と答えればいいのか、アルドは言い淀む。それを見たマリエル神父は優しく言った。
「アルド、私は怒っているわけではありませんよ。きみはずっと塞いでいるシエルのことを心配して、楽しい場所に連れて行ってあげたいと考えた。ちがいますか?」
「! いや、ちがっ……くはないけど……」
「二人とも怪我などしてなくてよかった。きっと天使様が無事にお守りくださったのでしょう」
顔を真っ赤にして反論しようとしたアルドとともに愛情のこもった手で頭を撫でられ、シエルは何だか恥ずかしいような申し訳ないような、何とも言えない複雑な気持ちになった。
十年前に王都からやってきたという聖エルフィーヌ教会の神父様は、町の人から尊敬と信頼を集めている。教会孤児院の子供たちが毎日不自由なく暮らすことができるのはひとえにマリエル神父の人柄のおかげなのだと、以前シスターが言っていた。
「夕食まではまだ時間がありますから、よかったら町での話を聞かせてくれませんか」
そう乞われたのはアルドとフィニアンではなかった。神父様はシエルに言ったのだ。
するとフィニアンは急に何か思い出したように「あっ」と声を上げた。
「……っと、そうだった。僕とアルドは夕食の支度を手伝ってこなきゃ。行っておいで、シエル」
「え、おれも?」
言うが早いか、フィニアンはアルドを連れて行ってしまう。シスターが戻っていった孤児院のほうへ。
残されたシエルはマリエル神父の顔を見上げた。
「少し歩きましょうか」
西の空には夕暮れの色が萌しつつある。
辺りの景色は黄色みを帯びた太陽の光にあたたかく照らされ、朝のうちに瑞々しく咲いていた花々は、間もなく眠るようにその花びらを閉じるだろう。
マリエル神父がシエルを伴って向かった先は、聖堂だった。
聖堂の正面から無数の彫刻が施されたアーチ扉をくぐって中に入ると、内部はひんやりとして薄暗い。
「神父様」
「どうしましたか?」
「わたし、入っていいの?」
母親の衣服の裾を引こうとする幼子のように、シエルは思わず問いかけた。
おかしなことを訊く子だと思ったのだろう。不思議そうに振り向いたマリエル神父は、微笑みながら言う。
「ここはみんなが天使様にお祈りをするための場所です。扉はいつも開いていて、誰でも入っていいのですよ」
「……誰でも?」
「はい。たとえ罪を犯した人であっても、天使様は迎え入れてくださいます。シエル、天使様が罪もないきみを拒まれるはずがないでしょう?」
やわらかな深みのあるその声は、見上げるほど高い天井の穹窿によく響く。
天使様の教えを語るのに、これよりも素晴らしい声はないだろうとシエルは思う。そんな神父様に導かれて、シエルはおずおずと広い身廊に足を踏み入れた。
何だか夢の中で歩いた場所を再び訪れたような、何とも不思議な心地がする。
誰にも内緒だとフィニアンは言っていた。
はたして神父様は、あの夜のことを知っているのだろうか。
ステンドグラスに彩色された青い光は夕陽の色といりまじり、あの夜とはずいぶん印象が違う。つめたい月の静謐をたたえた青い光。それが今は、まるで古びた本の挿絵のような、どこかやさしいぬくもりさえ感じさせる。
「この聖堂のガラス絵は、国中の教会で最も美しいとされているのですよ」
こつ、こつ、と石の床に杖の音を響かせながら、マリエル神父はゆっくりと奥へ進んでゆく。
身廊を進んだ先にあったのは、あの夜に見せてもらった――エルフィリア・ブルーのガラス絵。
夢の記憶を確かめるように最奥部の三連窓を見上げたシエルは、息を詰めるような嘆声をもらした。
人々に青い花を与える、少女のように可憐な天使様。
その美しい微笑みはあの夜と少しも変わらず、けれどあの夜とは違うやわらかな暖色の光をいっぱいに満たして、あの夜にここへきたのは確かに夢ではなかったのだということをシエルに伝えていた。
「――この図像は、『青き花の天使』と呼ばれるものです。描かれている花の名前はエルフィリアといって、七年に一度だけ北のレターニア山に咲き、セレームに祝福の春を告げる花と呼ばれています」
ガラス絵の天使様から降り注ぐ神聖な光の中で、マリエル神父の声が厳かに響く。
シエルは思い切ってたずねた。
「あの……神父様」
「何でしょう?」
「もうすぐ、天使様のお祭りがあるってフィニアンにききました。七年に一度の…今年は、特別なんだって」
マリエル神父は「そうですよ」とやわらかく答えた。
「……やはり、何も覚えてはいませんか?」
シエルを見つめる眼差しに労りの色が深くなる。
セレームに住んでいれば、毎年の祝日に覚えがないはずがないのだということにシエルはようやく思い至った。七年に一度の祝祭にしても、シエルの年齢なら幼いころの記憶があってもおかしくはない。おそらく、それさえ忘れてしまっただけなのだ。
何も答えられないシエルに、マリエル神父は言った。
「では、シエル。今年はきみにとって初めての祝祭になりますね」
「……はじめて?」
シエルはきょとんとして問い返した。
暗い堂内にはロウソクの灯りに照らされている天使様の祭壇がある。檀の中央には小さな純白の天使像がまつられていて、マリエル神父はもっと近くにくるようにとシエルを招き寄せた。
「素敵な天使様でしょう」
「うん」
「両方の目をよく見てみてください」
言われるがままにシエルはじっと目を凝らす。そして、あっと小さな声を上げた。
天使像の大きな両目が、内側から青い燐光を放っていることに気づいたからだ。きらきらと、無数の星々のように。
そう――まるで、シエルの目と同じように。
「これは大昔、レターニア山から掘り出された宝石です。天使様の物語よりも古い時代、あの山では特別な宝石が採掘されていたそうです」
シエルはその像から目を離すことができなかった。
マリエル神父はそんなシエルの肩にそっと手を置いた。
「この石には、昔この教会を建てたばかりのころ、像の両目をどうしようかと悩んでいた彫刻家のもとに、冬の魔女が聖エルフィーヌへの贈り物として山の狼に運ばせたのだという伝説があるんです」
「……冬の魔女が、天使様に?」
シエルは目を瞠って振り向いた。
神父様が人々に教える天使様の物語は、いつも冬の魔女がどんなに恐ろしいかという話から始まる。セレームに忌まわしい呪いをかけた冬の魔女は天使様の奇跡によって眠りについたはずだ。どうしてその魔女が、天使様の像の瞳に貴重な宝石を贈るようなことをしたのだろう?
「もしかしたらそれは、天使様と冬の魔女の間で交わされた約束だったのかもしれませんね」
「?」
当惑するシエルを前に、マリエル神父は少しだけ身体を屈めた。
右手を伸ばしてシエルの頭巾を下ろし、白髪の頭を撫でるためだった。
「明日からはエルフィニアの花が無事に咲くよう毎日お祈りをして、みんなで天使様をお迎えする準備をしますよ。教会の飾りつけをしたり、人々の配るためにたくさんのパンやお菓子を用意しなければいけません」
きみも手伝ってくれますかと、マリエル神父は小柄なシエルに目線の高さを合わせて微笑んだ。北部トランバニア生まれの人に特有のものだという灰色がかった目に、あらわになったシエルの白い顔が映っている。
みんなで、と神父様は言った。
まるで当たり前のように、シエルは自分が祝祭に参加することを許されているのだと知った。
「――大丈夫。天使様はきみのことをいつも見守っておられるのですよ、シエル」
シエルを包みこむような、あたたかな笑み。
なぜだろう。顔立ちは似ても似つかないはずであるのに、その笑顔にはあの人の面影が重なって見えた。
広場で出会った、あの男の人。……どうしてこんなにも心に残っているのだろう。
「神父様」
シエルが不安の中から小さく呼びかけると、マリエル神父は溢れる眼差しを受け止めて、優しい目で言葉の続きをうながした。シエルは胸元の懐中時計にそっと両手を重ねた。
「広場にきているよその人たちも、みんな教会にくるの?」
「? そうですよ。彼らは祝祭のために街道を旅してくるのですからね」
穏やかな表情に変化はないが、その目にはどうしてそんなことを問うのだろうという素朴な疑問とわずかな興味があらわれている。
「……何か、もう一度見たいものがあるのですか?」
その言葉にシエルを咎める響きはなかった。
シエルはマリエル神父にうながされて身廊の長椅子に座り、町で見たもの、聞いたもの、色々なことを訥々と話した。アルドと一緒に華やかなアルチザン通りを歩いたこと。広場の時計塔がとても大きかったこと。リンゴのタルトを食べたこと。
それから。
「……大きな箱のような鉄の馬車、ですか?」
「えっと……違うの。馬車だけど、馬じゃなくて、機械で動く……?」
「それは珍しいですね。フィニアンが喜んでいたでしょう?」
「うん。……どうして?」
「彼はそういったものが好きなんですよ。この国にはない珍しいものが」
「そうなの?」
「ええ。私はそういったものには疎くて、よくわからないのですが」
「動くところは見れなかったけど」
ああそれで、とマリエル神父は納得したように笑みを大きくした。シエルがそのことを残念に思っていて、あの機械の馬車が動いているところをフィニアンに見せてあげたいと思っている、と解釈したようだ。
何となく、あの楽士さんのことは話さなかった。
理由はわからない。ただ、何となく。
シエルは深く呼吸して、両手で押さえた胸の奥にその思いをしまいこむように目を閉じた。
また会えたらと思ったけれど、それはおそらく叶わぬ願いなのだろう。
もしあの人が教会にやってくることがあったとしても、たくさんの人の中からあの人を見つけ出して、自分から声をかけに行くことなんてシエルにはできない。遠い異国の人。きっともう、二度と出会うことはない。
だからしまっておこう、とシエルは思った。
彼が奏でていたあの楽器の音色も。記憶の中に眠っていたあの歌も。
せめて、忘れてしまわないように。




