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星のアンブロシア  作者: 榑井タキ
第二章 黒鉄の馬車
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4. 記憶の歌

 尖塔の上から見下ろしたとき、セレームの町はまるで迷路のようだと思った。

 上から見れば時計塔の広場を中心にした町のつくりがよくわかったけれど、実際に歩いてみると自分が今あの町並みの中のどのあたりにいるのか、どの道をどのように歩いてきたのか、まったくわからなくなってしまう。


「ねえアルド。道、ちゃんと覚えてる?」

「当たり前だろ。夕方までには帰るから、そんなに心配すんなって」


 住宅が並ぶ路地から広い大通りに出ると、そこにはたくさんの人が行き交っていた。

 石畳で舗装された道は広々として、両側には窓辺にきれいな布や花を飾った瀟洒(しょうしゃ)な建物が並んでいる。甘く香ばしいにおいを漂わせているのはパンや焼き菓子を売るお店。おしゃれな看板を掲げているあの店は衣服や帽子の仕立て屋で、その隣は雑貨店。時計塔広場の南に位置するこの辺り一帯は職人(アルチザン)通りと呼ばれているらしい。


 頭巾の下に顔を隠しながら辺りを見回してみると、誰も彼もが幸福そうに笑っている。建物の屋根や道の端には白い雪のかたまりが残ってはいるけれど、ほんの少し前までこの通りの全部が雪に覆われていたなんて、シエルには想像もつかない。長く厳しい冬の気配が去った今、町の中にはどこかほっとしたようなあたたかな空気が流れていた。


「おやま。あなたたち、教会から遊びにきたのかい?」


 そのとき何気なく通りがかった店から声をかけてきたのは、ひときわ甘いお菓子のにおいを身体にまとわせた女の人だった。

 アルドとシエルがびっくりして立ち止まると、女の人はふくよかな薔薇色の頬をにっこりと笑ませて言った。


「誰か大人は一緒じゃないの? じゃあ、こっそり抜け出してきたんだね」

「な、なんでわかるんだよ?」

「服装を見れば一目でわかるものだよ。神父様には内緒にしといてあげるから、安心おし」


 シエルはアルドと互いに顔を見合わせた。

 店内には様々な種類の焼き菓子が売り物として並べられている。透明なシロップが塗られてつやつやしているパイや丸く膨らませて粉雪のように白い砂糖をまぶしたお菓子、こんがりと焼き色のついた生地の中に、ナッツや干し果実がたっぷり入っている小さなケーキ――どれも教会の食卓では見たことがなく、食べたこともない。

 その香りにつられてしまったのか、ぐう、とおなかの虫が鳴く音がした。アルドだった。店主の女性は声を立てて笑った。


「いいよ。今日だけ特別だからね。どれかひとつ、好きなのを選んで持っておいき」

「えっ、いいのか?」

「おなかが空いてるんだろう。この町じゃ、おなかを空かせた子供には親切にしてあげるものなんだよ」


 店主はそう言って二人を店の中に招き入れ、売り物のお菓子を近くで見せてくれた。「……ほんとにいいのか?」とアルドもさすがに遠慮がちにお菓子を選び、何度も目移りした末に、甘く煮詰めてキャラメル色になったリンゴのタルトを包んでもらった。


「ほら、お嬢さんは?」

「わ、わたしはいいです。おなか空いてないから」

「遠慮しないで。……あら?」


 と、店主は不意にシエルの顔をまじまじと見た。シエルはその怪訝そうな声にハッとして、慌てて頭巾を引き下げる。

 心臓が口から飛び出してしまいそうだ。

 店主はどんな顔をしてシエルを見ているのだろう。それを見るのが怖くて下を向いたシエルに対し、店主は腰をかがめてシエルの顔を覗きこんできた。


「あんた、ずいぶん大きな目をしてるねえ。まるで教会の天使様みたいじゃない」

「……え?」


 予想もしていなかった言葉に、思わず顔を上げる。

 シエルの目を間近で見て驚いていた店主は、にこやかに相好を崩した。


「今年の天使様は祝祭を待ちきれなかったんだね。みんなには内緒にしといてあげるから、バレないように町を楽しんでいくんだよ」

「あ、ありがとう……」


 店主はシエルにもアルドと同じリンゴのタルトを包んでくれ、二人はお礼を言って店をあとにした。


 そのときちょうど、ごおおん、ごおおん、と鐘の音が鳴り響く。

 正午を告げる時計塔の鐘の音だ。

 途端、あちこちで羽を休めていた鳥たちが飛び立っていく。騒がしく飛び立つ鳥たちを目で追って、シエルは通りの向こうに見える時計塔を見上げた。

 太陽が高い。明るい光が飽和して、細めた目に長く大きな影が焼きついた。

 セレームの町の真ん中で鳴らされる大時鐘――空を背負うようにそびえ立つ時計塔は、こうして見るとなんて大きいんだろう。


「なあ、よかったなシエル。あのおばさん、お前のこと天使様みたいだってさ」


 横からアルドがにこにこしながら話しかけてくる。自分のことのように嬉しそうなその口調が、シエルには何だかくすぐったい。

 大通りの雑踏の中、アルドは足取りを弾ませた。


「お前もそろそろ腹減っただろ。さっきのお菓子、どこかに座って食べようぜ」

「うん」

「みんなに悪いから、お菓子もらったことは絶対秘密だからな」


 二人は道端の段差に腰かけ、タルトの包みをあけた。さくさくの生地に砂糖煮のリンゴの甘味がぎゅっとしみこんだタルトはほっぺたが落ちそうなくらい美味しく、シエルは黙々とそれを平らげてしまった。アルドは美味しさのあまり声を上げ、あっという間に最後の一口となったタルトをそのまま食べきってしまうのをずいぶん惜しんでいた。ようやく思い切って口に放り込み、「よし、行こうぜ」と勢いよく立ち上がる。


 今回の冒険の目的地は時計塔広場だ。もう、すぐ近くまでやってきた。

 広場には時計塔を囲むようにベンチや花壇、噴水までそなえた公園があり、果物や野菜、布などを扱う露店がひしめき合う市場があり、四方にのびる大通りからは、外門から町に入ってきた貨物馬車や乗り合い馬車が石畳に轍の音を響かせながらやってくる。引きも切らずに出入りする人々の靴音や話し声、笑い声、ときに聞こえる怒鳴り声――まるで突然別の町に迷いこんでしまったかと思うほど賑やかで、教会にいたのでは見ることのない、活気に満ちた人々の笑顔があふれかえっていた。


 そして、広場を賑わせているのはそれだけでない。雑踏の中で異国の旅芸人が奏でる楽器の音や歌。野太い声、甲高い声。次々と披露される大道芸の数々に観衆は称賛の拍手を惜しまず、あちらでもこちらでも大きな歓声が上がっている。


「わあ……! アルド、すごい、人がたくさん」


 と、そのとき後ろから誰かが勢いよくぶつかってきた。まだ小さな兄弟だ。二人はシエルにぶつかったことなど構わず、楽しそうに笑いながら駆けていく。

 彼らにとって、今日の時計塔広場は非日常の喜びに満ちているのだろう。

 まるで魔法のようだ。

 町を歩くことがこんなに楽しいなんて、正直思ってもいなかった。

 周りを見回せば数えきれないくらいの人がいる。服装はさまざまで、髪の毛の色は栗色や金色、赤金色や白金色。一見して異国の人とわかる、濃色の髪や黒い肌の人もいる。髪や肌にこれだけ違いがあるのなら、目の色だってそうだろう。シエルが知る教会の人たちは縁や灰色、茶色の目を持つ人が多いけれど、きっとほかにも見たことのない色の目を持つ人がいるに違いない。


 夜空で不気味に際立つ不吉の星も、真昼の明るい空では目立たない。昼間の光の下でこんなにたくさんの人の中にまぎれていれば、シエルの髪が白くても、瞳の中に無数の星が光っていても、それに気がつく人なんていないのだ。そんなものよりも派手派手しく人々の目を楽しませるものが、ここにはたくさんあるのだから。


「なあシエル、あっち行ってみようぜ!」


 アルドが興奮して指さした先ではひときわ大きな歓声が上がっていた。

 まず驚いたのは、人だかりの向こうでいきなり上がった火の柱。中には悲鳴を上げる人もいた。一体何事かと思って覗いてみたら、信じられないことに口から火を噴いている巨人のような体躯の大男がそこにいた。あんなことをして熱くないのだろうか。珍しい動物を連れてきている人もいる。大きな顔の周りに豪奢な毛をふさふさと生やしたあの神々しい生き物は何だろう。怖いもの知らずの見物人が近づいていこうとしたが、巨大な猫にも似たその生き物が地獄の番人みたいに恐ろしい唸り声を発すると、たまらずその場でひっくり返って転がるように逃げ出した。周りの人たちはどっと笑った。シエルもつい一緒になって笑っていたが、そのときだった。


 ――――……た……


 不意に、何かが聞こえたのだ。

 声、だろうか。誰かの声。今、誰かに呼ばれたような気がした。

「アルド?」

 ではない。じゃあ、誰だろう。

 辺りを見回しても、近くにそれらしい人はいない。空耳だったのだろうか。

 しかし耳を澄ますと、やっぱり何かが聞こえる。

 それは、音だ。

 広場で演奏されているほかのどんな楽器とも違う――不思議な震えを帯びた、声のような。

 みんなが一斉に息を止めたように、辺りは急に静かになった。

 シエルはふらりと向きを変え、音に引き寄せられるように進んだ。

 広場の、ちょうど反対側。賑わいの中心からずいぶん離れたところに十数人の男女が集まっている。知らぬ顔で通りすぎようとして、足を止める人もいる。音楽はそこから流れてくる。

 誰かに切々と語りかけるようなその旋律はひどく繊細で、どこか哀しい。


 ようやくその場所にたどりついたシエルは、どうにかして演奏の様子を見ようとめいっぱい背伸びしてみたが、いかんせん背丈が足りない。それなら人々の隙間から見えないものかとあちこちから覗きこんでみるが、どうにも見えそうになかった。

 演奏はまだ続いている。

 シエルは再度背伸びを試みようとした。できることなら、もっと近くで聴いてみたい。こんなにもどかしい気持ちになるのは初めてだった。

 だって、この曲。


(……聴いたことがある)


 いつ?

 どこで?

 わからない。けれど間違いなく、それはシエルが知っている曲だった。

 目を閉じると意識はどこまでも深い水底に沈んでいく。ゆらゆらと遠のいていく水面の光を眺めながら、記憶の中に眠っていた旋律に耳を澄ます。


 砂の海に時は過ぎず 夢はまだ醒めぬ

 星よ 約束の日はいつ来る


 ――自分の唇が異国の歌を口ずさんでいたことに、シエルは気づいていなかった。

 気がつくと演奏は止んでいた。

 違う。

 止めてしまったのだ。


「…………あ」


 そして気づくと、聴衆の視線は演奏者ではなくシエルのほうに向けられていた。

 この場にいる全員の視線を受けて、シエルはようやく我に返った。

「! あ、わ……っ」

 頭の中がたちまちパニックになる。どうしよう。今すぐこの場から逃げるにしても足が震えてしまって言うことを聞かない。衆人の注目を受ける耐え難い羞恥と猛烈な後悔に襲われ、ぎゅっと力いっぱい引き下げた頭巾の端を握りしめて震えながら下を向いていたシエルは、足元に差しかかった影にぎくりと肩をこわばらせた。

 誰かが近づいてきて、シエルの目の前で立ち止まっている。

 しかし何も言ってこない。沈黙の秒数をいくつか数えたあと、シエルはおそるおそる目線を上げた。


「――――――」


 シエルの前に立っていたのは、見たことのない大きな弦楽器を抱え持つ、異様な風体の男の人だった。

 襤褸《ぼろ》のようにすりきれた外套を身にまとい、鍔の広い帽子をかぶっている。背は高いけれど、棒きれを組んで服を着せただけの案山子みたいに痩せていて、年齢はよくわからない。

 褐色の肌を隠すように、顔面の左半分が白い包帯に覆われているからだ。

 その理由は明らかだった。どうやら包帯の下に大きな怪我をしているようで、肌がひどく爛れたようになっているのがわかる。鼻や唇が不自然にゆがんだ形に引き攣れてしまっているのも、おそらくその怪我のせいだろう。シエルは一瞬、物語に出てきたシバラという怪物のことを思い出した。

 それは罪を犯した報いに身体を業火で焼かれ、その恨みをもって人々を呪いながら、焼けただれた醜い姿で永遠に荒野をさまよっているという恐ろしい怪物だ。

 しかし、恐怖は感じなかった。

 包帯に覆われていない右半面の顔はきれいなままで、澄んだエメラルドグリーンの右目はまるで深い森の湖の静かな水面のようにシエルの姿を映していたからだ。


「あ、あの」


 聞くまでもなく、先ほどの曲はこの人が演奏していたのだろう。

 演奏の邪魔をしてしまったことを謝ろうと勇気を出して声を発したシエルだったが、男の人は何も言わずに首を横に振り、ふっと口許をゆるめてみせた。

 気にするな、と言うように。

 そしてそのまますり抜けるようにシエルの横を通り過ぎてゆく。つられるように目で追うと、その後ろ姿はすぐ人混みに紛れていってしまった。

 途端に、今まで忘れたように遠のいていた周囲の喧騒が戻ってくる。

 ぽつんとその場に取り残されたシエルの耳には、背後で交わされる囁き声が忍び込んできた。


「……おい、見たか、あの子の目」

「なんて気味の悪い……」


 ――そんな言葉が聞こえた。

 先ほどまで彼の聴衆となっていた人々の話し声だ。ちらちらと、あるいはじろじろとシエルのことを見ているような視線も感じる。

「あの楽士も、最初は帽子でよく見えなかったけどさ……」

「……っ」

 シエルはたまらず耳をふさぎ、その場から逃げるように駆け出した。

 彼らがどんな顔でシエルを見ていたのか、振り返って確認しようとは思わなかった。

 とにかく走って、ここから離れる。ひどい動悸がしている。視界がぐらぐらと揺らぎ、目が回りそうになる。自分がどの方角へ向かっているのかもわからず走っていたシエルは、すぐに息を切らせてよろめき、石畳の継ぎ目につまづいて、そのままへたりこんでしまった。


「あっ……! やっと見つけた! おい、シエルっ!」


 しばらくして、遠くから聞き馴染みのある声がした。

 アルドだった。

 いつの間にかはぐれてしまっていたらしい。シエルはそのことに気づいてすらいなかったが、アルドは自分のそばから離れていなくなったシエルのことをあちこち探し回っていたのだろう。広場の片隅でうずくまったシエルを見つけるなり、大急ぎで駆け寄ってきた。

「きゅ、急にどっか行くなよ。だいじょうぶか? 具合悪いのか?」

 心配そうに覗きこんでくるアルドに、シエルは首を振った。


「だいじょうぶだよ。ごめんね、人が多くて……つい見失っちゃって」

「おまえ顔色悪いぞ。ほんとにだいじょうぶかよ」

「うん」

 心配そうに眉をひそめるアルドに大きく頷いてみせると、ちゃり、と服の中で懐中時計の鎖がこすれあう音がした。

 シエルは胸に手を当てて深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。だいぶ落ち着いてきたようだ。アルドの顔を見て、ふと思い出した。


「そういえばアルド。機械の家は見れたの?」

「へ? ……あっ、そうだよ! さっきせっかく見つけたのに、お前がいなくなってたからそれどころじゃなかったんだ」

「ご、ごめんなさい」

「お前も見たいだろ。歩けるなら行こうぜ、あっちにあったから」


 シエルはアルドが差し出してきた手を取って立ち上がり、指し示されたその場所に向かった。

 そこには大勢の人が集まっており、なるほど巨大な鉄製の箱のようなものが見える。


「ほら、あれだよあれ」


 その大きさは、まさに一軒の家かと思うほどだ。黒い鋼鉄の板と木材とを組み合わせて作った、ひどく不格好な形の箱……としかシエルには表現できない。たくさんの煙突らしきものやよくわからない形状の物体が上やら横から突き出ていて、箱の下には車輪のようなものがいくつも並んでついているが、馬車の車輪よりも遥かに頑丈そうだ。


「――なあおい、こんなもんが本当に動くのか?」

「嘘じゃねえよ。昨日の朝、南の開門と同時にこいつが煙を吐きながら町に入ってくるのを見たんだ!」

「これ、クロアドゥールの最新の機械って話よ」

「機械の家なんでしょう? 中はどんなふうなのかしら」


 集まった人々はみんなこの巨大な物体に興味津々で、口々に色んなことを言い合っている。クロアドゥールというのはトランバニア王国の東にある大きな国の名前で、そこでは機械を作ることが盛んらしい。すっげえなあ、とアルドは感嘆していた。


「僕も初めて見たよ、こんなの。機械仕掛けで走る馬車だって聞いたけど、一体どうやって動かすんだろうね」

「!」

 その声が聞こえた瞬間、シエルとアルドは飛び上がって驚いた。

 いつの間にか、二人のすぐ後ろに彼がいた。

「フィニアン」

「兄ちゃん」

 シエルとアルドの驚く顔を見て、フィニアンはにこりと微笑んだ。


「やあ二人とも。きみたちがいなくなったから探しに行くようシスターに頼まれたんだ。無事でよかった」

「も、もうバレたのかよ」


 フィニアンの言葉を聞き、アルドは狼狽してがっくりと肩を落とす。それはつまり、帰ったら厳しいお説教とお仕置きが待っているということだろう。


「すぐにバレるよ。シスター・ソフィアは厳しい人だけど、きみたちが危ない目にあわないようにいつも目を配ってる。祝祭のことを聞いたらアルド、きみがシエルを町に連れ出そうとするんじゃないかってね」

「なんだよそれ!」

 フィニアンが悪戯っぽく片目をつぶってみせると、アルドは心外だと言わんばかりに声を上げた。

 何にしても、シエルはフィニアンがきてくれたことでほっとしている自分に気づいた。アルドのことを信用していないわけではないものの、やはり帰り道は不安だったし、何よりフィニアンが近くにいてくれるだけで安心できる。


「そうだ。二人とも、たくさん歩いておなか空いてない? パンを持ってきたんだけど」

「さっき焼き菓子もらって食べたから平気だよ」

「え、誰に?」

「菓子屋のおばさん。アルチザン通りの真ん中あたりの店」


 二人のために持ってきてくれたのだろうパンをカバンから取り出そうとしていたフィニアンは、アルドの言葉を聞いて目を丸くした。

 そしてどうやらその情報だけで見当がついたらしく、「……ああ、ガレットさんかな」とこれは独り言のように呟いた。


「いいかい二人とも。町の人たちは子供に施しをするといいことがあるって言う人もいるけど、知らない人からむやみに食べ物を受け取ったらだめだよ。あと、パン一つにしても店にとっては貴重な売り物だからね。ガレットさんのところには僕が今度お礼に行ってくるから」

「そ、そんなことよりさ。なあフィニアン兄ちゃん。帰るの、もうちょっと広場を見てからじゃだめか?」

「だめ。もう帰るよ。人に心配をかけたあとは大人しく言うことをきくこと」

「ケチ!」


 顔はにこにこ笑っているが、フィニアンは二人をこれ以上甘やかす気はないらしい。アルドはまだまだ見て回りたいものがたくさんあったのだろうが、今日のところはあきらめてもらうしかない。こればかりはどう考えてもフィニアンの言い分が正しいのだから。

 シエルは広場の景色を見回した。

 もしやまた彼がどこかで演奏をしていないかと耳を澄ませてみたけれど、あの楽器の音色は聞こえない。何だかあの人と出会ったことさえ、夢だったのではないかと思えてくる。


 大きな時計塔。人々が憩う公園の噴水。市場にひしめくカラフルなテントや、周りの建物。その中に、見覚えのあるものは一つもない。


 改めて疑問が浮かぶ。

 この景色を知らないのなら、わたしはどこからきたのだろう。

 教会で目覚める以前のことは何も思い出せない。時々ぼんやりと夢を見るようにどこか知らない景色が頭に浮かぶような気はするけれど、それはこの手につかもうとした途端、霧のように薄れて消えてしまう。

 わたしはどうしてあの歌を知っていたのだろうか。

 あの男の人はきっと遠い国からこの町まで旅をしてきたのだろう。わたしはどこかで、彼のような人に出会ったことがあるのかもしれない。


 砂の海に時は過ぎず 夢はまだ醒めぬ

 星よ 約束の日はいつ来る


 言い合いながら歩いている二人の後ろで、シエルはあの旋律を思い出すように小さく口ずさんでみた。 


「その歌」


 と、フィニアンが肩越しに振り向いた。

「不思議な歌だね。外国の歌?」

 シエルはどきりとした。聞こえていたらしい。

「あっ……う、うん」

「は? 何だよ、おれ何も聞こえなかったんだけど」


 アルドは怪訝そうな顔をした。フィニアンは秘密を共有するように微笑して、それ以上は何も言わなかった。


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