51.聖女の御使い
聖堂の周りでは今まで雪の下で眠っていた花たちが咲きほころび、草葉のしずくがキラキラと光っていた。
あの扉を通ってレターニア山からガルガンチュアに帰ったシエルは、春の奇跡の証として一輪だけ摘みとったエルフィリアの花を手に、急いで教会へ向かった。あの山で起きた出来事を、誰よりも早く神父様に知らせなければいけないと思ったから。
偶然再会することになったアルドに事情を話すと、彼はいつものように有無を言わさずシエルの手を引っ張って聖堂に連れて行こうとした。
「ま、待ってよアルド、わたしはいいから」
「いいわけないだろ! 神父様だってお前のこと心配してたんだから、顔くらい見せろ!」
もはや憤慨しているようなアルドに対して強く抵抗することなどできるはずもなく、シエルは半ば引きずられるようにしてついていく。
聖堂には何やら大勢の人が集まっているようだった。聖典の書と同じ奇跡を目の当たりにした人々が、町中から押し寄せるようにして教会に殺到しているのだ。その真っ最中に、アルドは人混みを無理やりかき分けるようにして、シエルを神父様のもとへと連れて行った。
「神父様!」
赤毛の少年のよく通る声のおかげで、人々に囲まれていたマリエル神父はこちらに気がついた。
シエルはあまりの恥ずかしさと居た堪れなさで顔を上げることができずにいたが、それでも目立つ白髪を見てシエルだとわかったのだろう。「神父様……っ!?」と周りの人々が驚く声を上げる。マリエル神父は我を失ったように目の前の人を押しのけて、途中からは杖をつくのさえもどかしくなったのか、ついにはほとんどよろけて倒れこむようにして、アルドが慌てて横に避けるほどの勢いで、聖堂の入り口にいたシエルを抱きしめてくれた。
「よく戻ってきてくれました。……私は君に何と言って謝ればよいのかわかりません」
「し、神父様」
シエルは激しく狼狽した。広い聖堂を埋め尽くすほどの人々が、みんなこちらを見ているからだ。
そんなことには構わず、「顔を見せてください」とマリエル神父は深いしわを刻んだ目尻いっぱいに涙を浮かべてシエルを見つめた。
町の人々からすれば、ここ数日の間、一体何が起きていたのか皆目わからないことだろう。
祝祭の春を迎える日に降り出した雪。大いなる災いを告げるように訪れた冬。そして突然起きた光の奇跡によって、町は再び春のぬくもりに包まれた。
シエルが手に持っていたエルフィリアの花を見て若草色の目を驚愕させたマリエル神父は、何があったのかということをシエルに尋ねた。
いつしか、聖堂はしんと静まり返っていた。
シエルは否応にも自分に集まってくる人々の視線を感じる。隠してもいない白髪や、大きすぎるほどの奇妙な両目を、明らかに気味悪がられている気がする。ひそひそと隣同士で囁き合い始めたのが大きなざわめきになりかけたとき、マリエル神父が「静粛に」と振り向いて言ったことで、聖堂内は再び水を打ったように静かになった。
シエルはごくりと唾を飲みこんだ。静寂に包まれた聖堂の中では、その音さえ響いて聞こえるようだった。
「どうぞ、話してください。ここにいる人々にも聞こえるように」
「わ……わかりました」
穏やかな声でうながすようにそう言われ、シエルはひどく緊張しながら――あくまでも目の前の神父様に向けて、訥々と話し始めた。
この、短い数日間に起きた出来事を。
聖典の書の物語を参考にしながら、伏せるべきところは伏せて、隠すべきところは隠して。
つまり――本当のことは、ほとんど話すことができないのだけれど。
町が祝祭の春を迎えようとする一方で、天使様は三か月前に起きた事件や冬死病の犠牲に胸を痛めていたのだということ。
まるで彼らの犠牲を忘れてしまったかのように春を謳歌する人々の姿に、深い悲しみを覚えてしまったのだということ。
だから暖かな春の力が弱まって、目を覚ました冬の魔女がそのことに怒り、人々から天使様を取り上げてしまおうとしたのだと。
けれど心優しい天使様は、人々の心を信じている。
この冬の災いによって、これまで冬の犠牲になってしまった多くの人々のことを思い出してくれることを。
彼らのために、人々が祈りを捧げてくれることを。
そのように信じている、そんな天使様の心に打たれて、冬の魔女は怒りを鎮め、人々を赦すことにしたのだと。
様々な出来事を頭の中に思い浮かべながら、シエルはそんな拙い物語を語った。
まるで、聖典の物語の続きみたいに。
「――天使様の深き御心と、かの聖女の御使いとしてこの教会にお越しくださったあなた様に、心からの感謝をお伝えいたします」
広い聖堂によく響く神父様の厳粛な声を聞き、シエルは思わずぎょっとして顔を上げた。
心なしかこの数日でずいぶんやつれてしまったようなマリエル神父は、それでも若草色の瞳に明るい光を湛えてシエルを見つめていた。
そして何だか眩しそうにその微笑を深めたかと思うと、さりげなくシエルの耳元に顔を寄せ、こっそりと言う。
(ここにはたくさんの人がいますからね。本当のことは、またいつか教えてください。……私たちは、あなたの帰りをいつでも待っていますからね)
マリエル神父はそう言って、おそらく本当ならシエルの頭を撫でてくれようとした。
しかしシエルのことを〝御使い〟と言った以上そのようなことは許されるはずもなく、聖エルフィーヌ教会の神父様は丁重に、シエルのための帰り道を開けるよう人々に言った。
「アルド、御使い様をお送りして差し上げなさい。ほかの皆さんは誰も道を妨げてはなりません」
「は、はい」
呆気に取られていたアルドは慌てた様子でシエルの手を取ろうとして、取っていいのかどうか許可を求めるように神父様のほうを見た。
いいですよ、とマリエル神父の目に許しの色を見たアルドはほっとしたように、改めてシエルの手を――と、その前にごしごしと自分の服で手の平を拭ってから、ようやくシエルの手を取った。
「行くぞ、シエル」
「うん」
赤毛の少年に手を引かれ、シエルは聖堂を後にする。
シエルはもちろん緊張していたが、アルドもひどく緊張していたようだ。
外に出た途端、ずっと止めていた息をようやく吸うことができたみたいに「ぷはあ」と声まで出したのが可笑しかった。シエルが思わず笑ったので、振り向いてそれを見たアルドは「なんだよ」と不満そうにしながらも、やはりほっとしたように笑った。
「おまえ、御使い様だってさ。偉くなったじゃん」
からかうように言われ、シエルは首を横に振った。
「そ、そんなことないよ。……わたしの話、たぶん、すごく変だったし」
「別に変じゃねえよ。みんな、普段ああいう聖典の話ばっかり聞いてるんだしさ。おまえが話してるってだけで説得力あったぜ」
「……そう?」
「おう。だって――」
と、何か言いかけたアルドは「ごほん」と咳払いする。
この少年とこんなふうに話をするのも、本当に久しぶりだ。
なぜか耳まで真っ赤になっているその顔を微笑ましく見つめていたシエルの胸の中には、不意にどうしようもない寂しさがこみあげてきた。
「アルド」
「なんだよ」
「ごめんなさい、そっちじゃなくて」
彼が、シエルの手を孤児院の方向に引っ張ろうとしたからだ。
当然のようにそちらへ向かおうとしていたアルドは、露骨に怪訝そうな表情で振り返る。
「……部屋に帰るんだろ?」
「ごめんなさい」
シエルはもう一度謝った。
その瞬間、アルドの手はこわばった。それに気づかせまいとするかのように、ますます眉間のしわを深くしてシエルを見る。
「お、お父さんが待ってるから。帰らなきゃいけなくて」
「…………」
「みんなと一緒には、もう……」
きちんと伝えなければと、言いながらもどんどんうつむいていくシエルに対し、アルドは黙っている。
視線が痛い。おそらくシエルを睨むように見つめながら、アルドはぼそりと言った。
「どこに帰るんだよ」
「…………」
「もう、会えないのかよ?」
喉の奥から絞り出すようなその声が嗚咽混じりに変わった瞬間、シエルはハッと顔を上げた。
アルドは泣くまいと懸命にこらえているのだろう。男の子だから。シエルの前だから。おそらくそんな理由で、子供らしい大きな目を潤ませて、真っ赤になった鼻先をひくひくさせながら、今にも泣きそうなのを必死に我慢しているようだった。
きっと、彼は本当はわかっていたのだ。シエルがもうここには帰ってこないこと。教会での暮らしに戻ることはないのだということも。
その顔を見たシエルも泣いてしまいそうになった。でも、これから大きくなっていく彼にとってもシエルにとっても、このお別れは必要だった。
「……たくさん親切にしてくれてありがとう。わたしがここで楽しい思い出を作ることができたのは、アルドのおかげだよ」
シエルは彼の手の力がゆるんだのを感じ、つないでいた手をそっとほどいた。
溢れかけていた涙がぽつりと落ちる。シエルはそれを指で拭い、誰よりも強い正義感と不器用な優しさを持っている少年に、精いっぱいの笑顔を向けた。
「元気でね、アルド」
そう言って、一歩後ろに離れる。
――お別れの仕方なんて知らないのだ。
涙をこらえて立ち尽くす少年を前にして、一体どんなふうにこの場を去ればいいのだろう。一歩、二歩と後ずさりして、それ以上ここにいたらどんどん離れがたくなってしまう気がして、たっと踵を返して駆け出そうとした瞬間。
「お前も! ちゃんと元気でいろよ、シエル……ッ!」
叫ぶようなその声を背中に投げつけられた瞬間、両目からわっと涙が溢れ出した。
たちまち前がぼやけて見えなくなって、つまづいて転びそうになった。振り返ってはだめだ。アルドにとっても、自分にとっても、絶対に振り返ってはいけないと自分を叱りつけるようにしながら走っていたシエルは、教会の門を飛び出した。聖堂に向かって坂道を歩く人々はそんなシエルとぶつかりそうになって驚き、慌てて道を空けてくれる。その道を半ばほどまで駆け下りたとき、シエルはとうとう人の身体にぶつかった。
「わぅっ……」
と、いうより。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして坂道を駆け下りてきたシエルを抱き止めてくれたハリトは、まず柔らかい布でシエルの顔を拭いてくれた。
それから、ぽんぽんとあやすように背を叩いてくれた。
目を合わせることも、顔を覗きこむことも、何か言葉を伝えてくることもなかった。
「…………」
シエルはそんな彼の服をぎゅっと握りしめたが、ふと視線を感じた気がして、一度だけ教会のほうを振り向いた。
おそらく、それは気のせいだったのだろう。
穏やかな春の陽射しの中で、聖エルフィーヌ教会の尖塔は今までで一番美しく微笑んでいるように見えた。




