50.手向けの花
――後に〝赦しの春〟として長く語り継がれることになる祝祭の花の知らせは、聖エルフィーヌの御使いに選ばれた少女によって教会に届けられたという。
それからほどなくして……町に恐ろしい冬をもたらしたすべての雪が輝く奇跡の光となって、人々が取り戻した春の青空に消えていったあと。
祝祭の春を告げる青い花は、奇跡の喜びを人々に伝えるのを待ちきれなかったかのように咲き出した。
レターニア山の裾野どころか、セレームの町の中にまで。
もちろん、聖エルフィーヌ教会が建つ丘にも。
喜びに包まれる職人通りや時計塔広場にも。
家無し通りの人々が今日も一日を過ごす地べたにも。
そして、あの森の中にあるエヴァンゼール伯爵の屋敷の裏庭にも、エルフィリアの花は咲いていた。
「というわけで、お約束は果たしましたヨ。貴女が見たいと願ったこの花の件に限り、主に尽力したのは私ではなくフィニアンさんですがネ」
「……まさか本当に見せてくれるとは思ってなかったな。どうやったの?」
傍らに寄りそう灰色狼の毛並みのぬくもりを感じながら、ヴェロニカは午後の陽が当たる裏庭に出た。
そこは表の庭園とは違い、ヴェルレーヌが手植えした花々を育てていた場所なのだ。もう手入れする者がない庭の花はほとんど枯れてしまっていたが、そんな庭に場違いなほど青く美しい花が咲いているのを見て、ヴェロニカは思わず手を伸ばした。
しかし伸ばしたその手はもう肌の白さを失っており、指の先から崩れてしまう。
どうやら、ふれることは叶わないようだ。
悲しくはなかった。この目で見ることさえ、本当は叶わないはずだったのだから。
それを見ていた道化師はやおら屈んで花を手折り、ヴェロニカの目の前に差し出した。
青い花の甘い香りが鼻先をくすぐる。顔を寄せて息を吸うと、腐りかけた胸の中を芳しい花の香が満たしてくれた。
「……ところできみ、今日は変な服を着てるね。仮面も変だけど。それも何かの仮装?」
「イイエ?」
ヴェロニカに花を差し出したまま、道化師はにっこりと笑った。
笑うピエロの仮面のせいで、その笑顔はどうにも胡散臭い。
道化師めいた奇抜な服装について問われた男は、相変わらず冗談なのか本当なのかわからない口調で答えた。
「本当の自分は、本当に大切な人にしか見せないことにしているのです」
「ふうん」
こちらから尋ねはしたが、正直どうでもいいことだ。どうでもいいのならなぜ尋ねたりしたのだろうかと、思わず自分で笑ってしまった。
「ところで、その狼さんはどこから出入りしているんです? 町の門から入ってきては騒ぎになると思うのですが」
「ちょうどこの森の奥に、外壁が崩れているところがあるらしいよ。この子が出入りしてくるおかげでそのことを知ったみたいだけど、知っていて直さなかったのは領主の怠慢だね」
「フム。伯爵はよほど奥方を溺愛していらっしゃったようですネ」
そんな他愛ない話をしていると、灰色狼が切なげに鼻を鳴らした。
この命がいよいよ尽きようとしていること。言葉で理解できなくとも、きっと獣は感じ取ることができるのだろう。
「そばにいてくれてありがとう、グレーベル。……きみのおかげで、ぼくは寂しくなかったよ」
大きなその体にもたれかかり、吐息混じりに囁きかける。
もう獣のぬくもりも花の香りもわからない。けれど、それは確かにそこにある。
ああそういえば、と眠りにつく前に思い出す。
これほど世話になっておきながら、きちんと礼を言うのをすっかり忘れていたのだ。
ありがとう、と動かそうとした唇に何かが優しくふれて、その言葉を遮られた。
声なんて、もう出せなかったけれど。
「どうか安らかにおやすみください。次に目覚めるときは、そこが美しい貴女に相応しい花の香りに包まれた場所でありますように」
そんなことはおそらく気にもしていないのだろう、あの道化師の声が遠い子守唄のように聞こえた。
あたたかいな、と最後に思った。
何に対してそう思ったのかはわからない。ただあたたかくて、何だかほっとした。
そうして彼女は、ようやく眠ったのだった。




