49.聖典の奇跡
――同時刻。
今日も止まない雪空を見上げて不安の中にいた人々は、その空が突然黄金色に輝き、町中に眩い光が溢れ出すのを見た。
あれほど降り積もっていた雪は溶けるというよりも光となって消えてゆき、重く垂れこめていた雲も千切れて消えてまたたく間に晴れ渡り、暖かい春の陽光がセレームの町に降り注いだ。
それはほんの短い時間の出来事だったが、家の中にいた人はみな大慌てで外に飛び出して、たまたま外にいた人たちはいつまでも呆けたように空を見上げ続けるばかりだった。あるいは、驚いて腰を抜かしてしまうなどした怪我人も出た。
「ねえ、おかあさん」
そんな大騒ぎの中、物珍しげに通りの様子を眺めていた幼い少女はふと母の顔を見上げた。
生まれて初めての祝祭も、少女にはよくわからない。
ただ、楽しいお祭りが始まっていたはずの暖かい春に冷たい雪が降り始め、外に出ることを禁じられた。大人たちが悲嘆に暮れる様子を恐ろしく感じながらも、少女は母に言われた通り、一生懸命天使様に祈っていた。
こんなに寒くて暗い冬はいや。どうか、みんなが笑顔になれる、暖かい春に戻してくださいと。
その祈りが届いたのよ、と母は涙ぐんでいた。
少女は、そんな母にぽつりと言った。
「今ね、いたの」
「……何がいたの?」
「天使様」
「え?」
母はその言葉に驚いていたが、「ええ、そうね。きっと天使様がきてくださったのよ」とまた新たな涙を拭った。
少女は確かに見たのだ。
聖典の書に記された奇跡を目の当たりにして興奮し、あるい母のように涙する人々でごった返している大通り。今まで誰も経験したことのない、セレームの町が始まって以来の大変な喧騒の中――誰よりもきれいな服を着た、まっしろな天使様が走っていくのを。
その手には見たことのない青い花が携えられていたのを、確かに見たのだった。
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アルドからすれば極めてどうでもいいことではあるが、昨夜帰ってきた猫は結局ケルシーなのかケルシーじゃないのかわからないらしい。
どうせ猫にきいたって本当のことなど確かめようがないのだから、人間側が好きなように、いいように結論づければいいだろう。たとえば、どこかの誰かのように記憶喪失になってしまったのだとか。見た目がそっくり似ているだけで、やっぱり違う猫なのだとか。別にどっちだっていいし、アルドにとってはどうでもいい。
そんなことよりも、フィニアンがいなくなってしまった分までしっかり働かなければならないアルドは忙しくて大変だ。今朝もお祈りが終わったあと、町の人に配るためのパンを焼く手伝いをした。そして本当ならこれをフィニアンが家無し通りにまで運んでいたらしいのだが、家無し通りなら自分の古巣だからと、アルドは自ら進んでその仕事を引き受けてしまった。
いなくなってしまった人間の仕事は、誰かが代わってやるしかない。
何となく、それを引き受けるのは自分の役目だろうとアルドは思ったのだ。
そうしてパンが焼けるまでの間、寒さでかじかむ手をこすり合わせながら雪かきの手伝いに行こうとしていたとき――まるで聖典の書に記されているような奇跡を見た。
アルドだけではない。ほかの子供たちも、教会にお祈りにきていた町の人たちも、シスターも、神父様も。
みんな見た。たまたま間が悪く、見ることができなかった不運をこれから一生嘆くことになるだろう人々も、すぐにそのことを知った。
『もうこの姿できみのそばにはいてあげられないかもしれない。でも、きっと何とかするよ。僕の心配はしなくていいから、きみは子供たちが怖い思いをしないように守ってあげて』
雪が金色の光に変わり、キラキラと輝きながら空に還っていく。あんなに暗かった曇り空がどんどん晴れていくのを見上げながら、アルドはあの夜、どこか悲しげに微笑んでいたフィニアンの姿を思い出していた。
『アルド、あの子なら大丈夫だよ。この雪が止んだらきっとまた会える。だからそれまで毎日きちんとお祈りして、神父様を困らせないようにね』
秘密めいた彼の言葉には、いつも不思議な説得力があった。
彼は嘘をつかない。というより、明らかな嘘でも本当のことにしてくれそうな、ある種の魔法使いみたいな雰囲気をアルドは感じていた。
だから、彼が言うならきっとそれは本当にそうなるのだ。
雪が止んだらまた会える。それまできちんとお祈りを欠かさず、神父様を困らせるどころか、いつも以上にしっかりと手伝いをしているのだから。
「……アルド?」
そのとき、夢にまで見た少女の声が聞こえた気がした。
いや。もしかしたら夢かもしれないと思って、振り返る前に思い切り深呼吸をした。
けれど、今のがもし気のせいだったら。いいや。そんなはずがない。絶対に声が聞こえたはずだと、弱気の虫を振り払って意を決して振り向いたアルドは、間違いなく夢でも気のせいでもなく、確かにそこにいた白髪の少女の姿を見た。
そしてそのまま言葉を失った。
なぜかといえば――何だかずいぶん久しぶりに見るあの少女が、今まで見たことがないくらい可憐で、とてもきれいだったから。
「どっ……どこ行ってたんだよ、おまえ」
思わずどぎまぎして声をうわずらせるアルドに、少女は大きな宝石みたいな両目をパチパチと瞬きさせた。
突然いなくなったくせに、こっちが心配していたことなんて想像もしていなさそうな顔だった。
それにしても本当に今までどこで何をしていたのか、シエルはあのくたびれた紺色のチュニックとは全然印象が違う、まるで貴族のご令嬢みたいな格好をしていた。ボサボサだった白髪もつやつや光っていて、髪飾りのリボンまで結んで、長いまつげにふち取られた両目は相変わらず誰よりも大きくて――貴族の令嬢どころか、世界一高級な人形みたいだった。
「し、心配かけてごめんね。あの、これ、神父様に」
シエルは自分が人形ではない証拠を示すように、パッと頬を赤らめて下を向く。少女がいつものように言葉につっかえながらおずおずと差し出してきた物をみて、アルドは「……は?」と思わず自分の目を疑った。
ついさっき、野から摘んできたばかりのような瑞々しさを保っている花。
長めに手折られた緑色の茎。新鮮な花びらはきれいな薄青色で、数えてみたら七枚あって。
聖堂のガラス絵をまったく同じ形をしているその花を見て、アルドはまさかと思って息を飲んだ。
そのまさかなのだと、シエルは知らせにきたのだ。
「レターニア山に、エルフィリアの花が咲いたの。天使様が……みんなのために祝祭の春を取り戻してくれたこと、神父様に伝えてくれる?」




