48.天使の祝福
冬の主にそう命じられたかのように、極寒の風は止まっている。
雪は降っている。ここが永久の冬山であることを客人たちに教えるために。
フィニアンが言った通り、寒くはない。しかし、吐く息は真っ白に凍る。どうやら何かの魔法の力が働いているらしく、やはりここは本当なら暖かな毛皮をまとった獣や雪の精しか生きられない、人にとっては冷たく過酷な死の世界なのだ。
「! わっ……」
足が雪の深みに嵌ってバランスを崩してしまいそうになったとき、ハリトが後ろから支えてくれた。
おそらく、小柄なシエルがそうなることを見越してすぐそばにいたのだろう。特に慌てた様子もなく抱きとめてくれた腕につかまって、シエルはお礼を言った。
「あ、ありがとう」
どういたしまして、と彼は首を横に振る。
すると、それを見ていたフィンドールがおどけた口調で話しかけてきた。
「アララお嬢サン、やっぱり無理せず私におんぶしてもらうべきなのでは? 遠慮なく甘えてくださっていいんですヨ?」
「い、いい。自分で歩けるよ」
「それは残念」
言うほど残念には思っていなさそうにあっさりと話を切り上げて、フィンドールはこの雪山の冬の主――フィニアンの後についていく。一応客としての礼儀をきちんとわきまえて、その案内を妨げることがないように振舞っているらしい。
当のフィニアンは足を止めて振り向き、心配そうにシエルを見た。
「シエル、だいじょうぶ?」
「うん」
山の上に向かって続く道にはゆるやかな傾斜がついている。道らしい道ではなく、彼曰くここは大昔の古城の跡地で、かつては石と氷の美しい城が聳えていたのだという。
だから雪に埋もれたあちこちに石造りの建物の跡があって、それは聖エルフィーヌ教会と似ている。フィニアンの時代にはまだその城があったというなら、もしかしたらそれぞれ同じ時代を物語る建造物なのかもしれない。
人間だったときに自ら魔女の生贄となった彼は、かつてここでその魔女と共に暮らしたのだという。
それが、八百年前のこと。
おそらくフィニアンは自分にかかわるすべてのことを語ってくれた。まるで遠い時代のおとぎ話のように。でも、それが彼の――そしてこの町の、まぎれもない本当の過去であるのだと。
自分が人間だったときのことはよく覚えていないのだと彼は言う。しかし、それははたして本当なのだろうか。
どうでもよかったからだ、と彼は言った。
もしかしたら、人として生きていた頃はほとんど一度も笑ったことがなかったのではないかと思わせるようなその言葉の響きから、シエルは昔の彼を想像した。
聖典の物語は、過去の真実が人々の口伝えに語り継がれていく中で少しずつ欠け落ち、その断片と断片をつなぎ合わせ、やがて一つの美しい物語として編纂されたものなのだろう。その中には恐ろしい魔女としての彼女もいるし、聖女としての彼女もいる。そしておそらく、結果的には自分を最後の犠牲にすることで町を救った彼のことも、きっと人々の間で語り継がれていたはずだ。
悲惨な境遇に生まれ落ち、それでも他者を思い、人々を守るためにその命を捧げた――誰よりも清らかで美しい心を持った、天使様のように。
その心をどれほど穢されても傷つけられても、最後まで町の人々を恨むことさえしなかった彼に対する、心からの懺悔と贖罪の思いをこめて。
きっと、それが物語の始まりだったのではないだろうか。
「フィニアン」
と、シエルは彼の名前を呼んだ。
何だか無性に名前を呼びたくなったのだ。薄青色の瞳はいつもよりもずっと深く、優しい眼差しをシエルに向けてくれた。
「どうしたの、シエル」
「…………」
シエルが何も言えずにいると、フィニアンは何も言わずに微笑んだ。
そして、再び歩き始める。雪の斜面の上へ上へと足を運ぶのには難儀するとはいえ、不思議と疲れはしない。進むにつれて辺りの木々はだんだんとまばらになり、景色が、空が前方に開けていく。
「もうすぐ見えてくるよ。ほら、ここからならよく見える」
まるで露台のような見晴らしの良い高所に出て、フィニアンはその方向を指さした。
シエルがハリトの手を借りながらようやくそこにたどりついた瞬間、ひときわ強い風が吹いた。
「これは素晴らしい」
風に負けない朗々とした声で、フィンドールが真っ先にその眺望を褒め上げる。
シエルは頭に結んでもらったリボンが強風にさらわれてしまわないよう手で押さえ、びゅうと吹きさらわれた長い髪がそのまま風に遊んでいるのを感じながら、眼下に広がる光景を見た。
――ここはあの日尖塔のてっぺんから見た、遠い遠い北の山。
だから、すべてを見下ろすことができるのだ。
どこまでも広がる鈍色の雪空の下、見渡す限り白く覆われてしまった冬の大地。
そして……ここからだとずいぶん遠くに見える、円形の外壁に囲まれた灰色の町。
一番高い丘の上に、聖エルフィーヌ教会の青い尖塔がある。
町の中心には古くて大きな時計塔が建っていて、広場があって。
その周りに大小さまざまな石造りの建物が密集し、何本もの石畳の道が交差して、まるで迷路のようになっている。
ちょうどそのとき――ごおおおん、ごおおおん、と重々しく鳴り渡る時計塔の鐘の音が聞こえてきた。
「ここは彼女が眠る場所なんだ」
と、フィニアンは柔らかいのによく通る声で言った。
辺りは白い雪に埋もれた灰色の岩塊がごつごつと顔を出しているだけで、人工物らしきものは何もない。彼は澄み渡る冬空と同じ色をした目に憂いをこめて、暗灰色の雲に塞がれた空を見上げている。
しかし一つ瞬きをするとその憂いは淡雪の見間違いだったかのように消え、フィニアンはおそらくこの世で最も美しい微笑を浮かべて振り向いた。
「大地の深いところに、この土地の力の源であり、土地に生まれた精霊が還る場所があると彼女は言っていた。たとえ地表の力が枯れてしまっても、そこにはまだ力が残っている。この心臓はむしろ本来そこにあるべきもので、その力を取り込めばたぶん、元通り以上の循環機能を取り戻すことができるよ」
「フム?」
その言葉を聞いたフィンドールが首を傾げると、フィニアンは少しだけ苦笑する。
遠く懐かしい過去を思い出すように。
まるで憑き物が落ちたように、いつもより透明に澄んだ目で。
「本当は最初からそうすべきだと僕は思っていたんだけど、彼女がそれを許してくれなかった。彼女は僕にこの町を守ってほしいとは言ったけれど、僕は別にこの町を守りたいと思っていたわけじゃない。だから、僕が彼女の言う世界の美しさや暖かさを知らないままで再び〝犠牲〟になるようなことだけは、どうしても許してくれなかったんだ」
それに、と彼は言う。
「土地の力が増えすぎると、今度はその毒が人々を冒して冬死病が蔓延してしまう。だから土地が死なないように、力が溢れないように、七年かけてゆっくりと循環させる必要があった。僕は彼女のように器用じゃないから、もしすべての力をいきなり与えられていたら、一年でこの町を滅ぼしていたと思う」
「笑えない御冗談を。……しかしなるほど。確かに心臓がその力の源から切り離されているわけですから、元々必要以上の力を使うことができない制限があったというわけですネ」
フィンドールはフムフムと相槌を打ってその話に納得している様子だが、シエルの目にはただ彼の姿しか映っていない。
きっとこの土地で最も冷たく、最も強い風が吹き抜ける断崖の上にまで進み出て、フィニアンは眼下の広大な景色を愛おしむように眺めている。
何百年もの間、彼はずっとそうしてこの土地を、そしてあの町の人々を見守り続けてきたのだろう。
たった、一人で。
シエルは思わず彼に駆け寄りたい衝動に駆られたが、ハリトにそれを止められてしまった。
風に飛ばされてしまうから、これ以上近づくのは危ないと。
しかし――その姿を見ていたら、どうしようもなく胸が騒ぎだしたのだ。
「シエル」
でも、とハリトに向かって駄々をこねそうになったシエルは、彼に名前を呼ばれてハッと振り向いた。
フィニアンはそんなシエルを見つめていた。
微笑を絶やさず、胸に手を当てて。
彼は大きく深呼吸してから目を閉じると、聖堂で唱える祈りの聖句のように美しい響きの言葉を紡いだ。
「これからも長い旅をするきみが、何度でも春を迎えられますように。星の瞳を持つきみの姿が次の新しい伝承になって、誰もに愛された天使のように語り継がれますように。……きみがこれから旅する中でたくさんの物語を教えてくれるこの世界が、いつまでも愛すべき美しいものでありますように」
そういえば彼が天使様に対して祈りの言葉を唱えているところなど一度も見たことがないシエルは、それが祈りではなく別れの言葉であることに気がついた。
ハリトがシエルをこれ以上行かせないようしっかりとつかまえている理由も、たちどころに理解した。
「待って、フィニア――」
「それじゃあまたね。その目にきれいなものをたくさん映して、いつかまた帰ってきてくれると嬉しいな」
咄嗟に身を乗り出して呼び止めようとしたシエルに、彼は最後に笑ってくれた。
今まで見たことがないような、明るい、晴れやかな笑顔を見せてから、ためらいもなく行ってしまった。
その身のすべてを任せるように、断崖に吹きすさぶ風の中へと。
「フィニアン…………っ!」
シエルは声を限りに叫んだが、その声は無情な風に吹き散らされただけだった。
嘘。
うそでしょう、と頭の中で幾度となく繰り返す。シエルは瞬きすることも忘れて、しかし足腰から力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
一瞬の出来事だった。
今、聞いた言葉。彼がずっと話していた言葉。ここにやってきた意味。
まさか、彼は最初からこのつもりだったというのだろうか。
『お嬢さん』
衝撃で心の支えを失ったかのようにへたり込むシエルの腕をつかんで支えてくれていたハリトが、頭の中にそっと呼びかけてきた。
『あいつはきみに見せたいものがあるそうだから、泣いてはいけない。しっかりと目を開けているように』
「…………え……?」
ハリトはそう言って、呆然としているシエルの顔をエメラルドグリーンの右目でひたと見据えて、彼が身を投げた地上の方向へと促すように目を向けた。
シエルは彼に肩を支えられ、錆びたようにこわばってしまった首をどうにか動かし、再びその方向を見た。
おお、とフィンドールが離れた場所で感嘆の声を上げるのが聞こえた。
シエルも目を瞠った。
見えたのは、光だ。
目の前にあるレターニア山の断崖が、見下ろす大地に積もっていた雪が、空を覆っていた雲が。
どこからともなく溢れ出した黄金色の光によって、見えるものすべてが黄金色に輝くように包まれていくのをシエルは見た。
「これ……天使様の……」
知らず、呟く。シエルはその光景を知っていた。
何度も何度も繰り返し読んだ聖典の書に記された文字が、同じ光景を描いていた。
シエルの頭の中にはその光景が、神父様の厳かな声としてよみがえる。
『その金色の光はレターニア山を包みこみ、まばゆいほどに輝きました。永久に降り続くと思われた雪は止み、氷は見る間にとけてゆるやかな川の流れを作り出し、凍てついた大地には次々に芽吹く草木の縁が広がってゆき、レターニア山の裾野には、七枚の花びらを持つ青き花が一面を覆うように咲きました。……長き冬の呪いはとけ、村に再び春が巡ってくるようになったのです』
――聖エルフィーヌの奇跡。
伝承の中で魔法のように物語られていたその光景を目の当たりにして言葉を失うシエルのすぐそばで、不意に、ハリトがここまで背負ってきたバコラを下ろす気配がした。
「……?」
何をするのだろうかと思って見ると、彼は光り輝く雪の上に腰を下ろしてバコラを抱き、その弦を軽く爪弾いた。
金色の光は少しずつ弱まっていく。それが消えてしまわないように――つなぎ止めようとするかのように。
彼の指がその最初の一音を祈るように鳴らした次の瞬間、シエルは思わず息を飲んだ。
知っている曲だったからだ。
それは彼が本来この楽器で奏でるべき故郷の曲ではない。教会の聖堂で子供たちがいつも歌う、あの聖歌の旋律だった。
どうして知っているのか、と尋ねることさえ忘れてしまう。なぜなら空気を震わす弦音の調べに呼応するようにして、弱りかけていた光が息を吹き返すように強まり、周囲に露出している岩塊までが光り始めたから。
「これは」
と、呟いたのはフィンドールだった。
まるで、その中で長い間眠りについていた精霊たちが目覚め、聞こえてきた旋律を喜んで歌い合うように。
溢れるほどの黄金の光に満たされた灰色の岩塊が、変わっていく。
内側から青く、透き通っていく。
キラキラとした星の光を宿し、青色の神秘的な輝きを放ち始めたその岩塊こそがセーレム・サファイネだったのだと、シエルがようやく知った頃。
辺りにはいつの間にか、見たことのない青い花が一面に咲いていた。




