47.ニヴオールの魔女
遠い昔――それはもう誰も覚えていない、千年以上も昔のこと。
緑豊かなニヴオールの村に冬をもたらす北の山には雪の妖魔が棲むとされる城があり、吹雪を恐れる村の人々は毎年、幼い子供を妖魔への生贄として差し出していたのだという。
しかし当然のこと、吹雪が妖魔の仕業であるというのは当時の人々の迷信に過ぎない。実際には妖魔なんてどこにもいない。遠い昔に打ち棄てられたその古城には住む人もなく、生贄として捧げられた子供たちは寒さに震え、孤独に泣き、飢えに苦しんで命を落としていった。
その忌むべき風習もやがて絶え、妖魔の迷信は人々の間から忘れられた。村は小さな町となり、樹氷の森には犠牲となった魂と古い城だけが残されていた。
特別な力を持って生まれたことで町の人々から畏怖された彼女は、生まれつき声を発することができない代わりに、亡き人の魂や精霊と言葉を交わすことができたという。そのためにますます気味悪がられて町を追われ、レターニア山の古城に移り住むことになったのだ。
そうして百年、二百年と、彼女はずっと一人きりだった。
土地の力の溢れ口であるレターニア山には青く美しいセーレム・サファイネの鉱脈が眠っていたが、鉱夫たちもその古城には決して近づこうとしなかった。採掘場で働く鉱夫は長生きできない。高値で取引されるセーレム・サファイネを身に着けた者の幸福は長く続かない。レターニア山に咲く青い花の吐息を吸った者は、死病に取り憑かれることになる――それはかつて町を追放されたニヴオールの魔女の呪いなのだと、人々は囁いていた。
彼女は山に棲む灰色狼たちに頼んで、そんな人々を山から遠ざけようとした。
土地から溢れ出る力は人々の生命を蝕み、冷たい死に至らしめる毒であることを、彼女は知っていたからだ。
だから彼女は人々の肺を冒すほどに溢れすぎた力を青く美しい花に変え、死の結晶に人々が近づかぬよう、自身にまつわる恐ろしい伝説によって町を守っていた。
しかし――あるときからその力が急激に失われ始めると、町には恐ろしい寒波がやってくるようになった。
その力は、土地の生命力そのものでもあったから。
寒波によって十分な実りを得られなくなった人々はかつての迷信を思い出し、ニヴオールの魔女の怒りを鎮めるために再び生贄を送り始めた。
伝承によれば、氷の世界で生きる魔女は暖かな人間の血肉を好むという。また、幼い子供を好むという。そして、青く美しい目は何よりも魔女を喜ばせるのだという。
もっともらしい理由をつけて不要な人間を北の山に送り出すその儀式は、ただの口減らしに過ぎなかった。
あの日、生贄に選ばれた子供に代わって――自分の子供を行かせたくない、行かせるのなら自分も行くと泣いて皆を困らせていた母親に代わって、彼が自ら進んでレターニア山に赴いたのも、決して町を守るためなどではなかった。
どうだってよかったからだ。
遠くにそびえる北の山にたどり着くことができようが、できまいが。途中で斃れようが、どうなろうが。
どのみち憐れんでくれる人もいない自分の人生を振り返ることもなく、ただ虚しく歩いただけだった。
親は死に、兄弟もなく、明日のパンと引き換えにあらゆるものを求められ、そのためだけに生かされていた身体が病に冒されれば、あとは醜い死体になる前に、できるだけ遠くに自分の命を捨てに行くだけだった。
そんな彼を助けてくれた理由について、彼女はこう言った。
『だってあなた、まだ生きていたし、すごく綺麗だったから』
まるで少女のように可憐な姿をしたニヴオールの魔女は、そんな気まぐれで彼の命を拾い上げたのだ。
彼は恐ろしい魔女だと聞いていた彼女の本当の姿を知った。
押し寄せる寒波と吹雪から町を守るために、本当なら土地の力が弱まってとっくに凍りついている畑から少しでも実りが得られるように、彼女自身が持てる力と命を削るようにして土地を延命させていたことを知った。
「……町の人は、きみがそこまでしてあげるほどのことを何かきみにしてくれたの?」
その代償として、彼女の細い手足がセーレム・サファイネの結晶のように変わってしまっているのを見て、彼は問いかけずにはいられなかった。
彼が生まれるよりもずっと昔に町を追放され、それから何百年も一人で町を守り続けてきたのだという彼女は、もはやかつて共に暮らした人々の顔や名前さえ覚えていないはずだった。
それでも、彼女は彼の問いにこう答えた。
『わたしはわたしが一度でも愛したものを最後まで信じたい。美しかったものは、今も美しいのだと信じていたい』
町は美しくて暖かく、人々は優しかったと彼女は言った。
かつてそうだったのだから、今もきっとそうであり、ずっとそうあるべきなのだと。
もしも今はそうでなくなってしまっているというのなら――失われたぬくもりを取り戻し、人々が優しい心でいられるように、いつまでも守ってあげたいと。
『あなたにも覚えていてほしい。あなたが犠牲になったことは、無意味なんかじゃなかったって信じてほしい』
山に捧げられる生贄や野に捨てられる亡骸を見るたびに、彼女は心を痛めていた。
かつて優しかったはずの人々が、こんなことをしなければいけないほどに飢え、凍え、苦しんでいることに、ひたすら自分の無力を嘆いていた。
だから、自分を犠牲にすると決めたのだ。
『あなたにこの世界の美しさを知ってもらうために、春の暖かさを知ってもらうために、わたしの全てをあなたに預けていくことを決めたから』
その体と心をすべて捧げて、永久にこの町を守り続ける心臓となるのだと。
春の訪れを知らぬ永劫の冬の町に生まれ、心まで氷のように冷たくなっていた彼に、彼女はその心臓を託した。
世界は美しくて、春は暖かくて、人々は優しい。
彼女がそう信じ続けてきたものを、彼もいつか信じることができるように。
そうあってほしいと願い続けた、彼女のその願いが叶う日が、いつかきっと訪れるように。
『そのときはきっと、笑った顔を見せてね』
彼女は最後にそう言った。
レターニア山の冬の魔女は確かに存在した。
けれど優しい彼女は、人々が山の美しさに魅入られて命を捨てにくることを望んでいなかった。
だから、伝承の中の彼女は恐ろしいものであるべきだ。
しかし同時に、彼女は自らの幸福を捨ててこの山に身を捧げ、人々の幸福を祈り続けた聖女であったことも語り継がれるべきだった。
遠い昔、彼女が住んでいたあの古城はもうない。
流れすぎた時の重みによって朽ち果てたその石壁が、柱が、崩れ落ちた階段が雪の中に残されているだけの――そうだと教えられなければもう誰にもわからなくなってしまった冬の城の跡を歩いて案内しながら、彼はそんな昔話を語った。
思い返すと本当に、気が遠くなるくらい昔の話だ。
昔の自分のことなんてもうほとんど覚えていない。そんなことよりも、この世界は彼女が教えてくれたような美しいもので溢れていたことを知ったから。
長い冬が終わり、訪れる春。
町の人々の営みの忙しさ、日々の喜び、その笑顔。
小さな子供の手の柔らかさやあたたかさ。
それらは確かに、いつまでも守りたい、守り続けたいと思えるものだった。
『ねえハリト』
と、彼はこの短い間ですっかり友人のようになった青年にこっそりと呼びかける。
ように、ではない。間違いなく信頼できる友人だ。少なくとも、彼自身はそう思っている。
精霊の声を聞くことができる青年は、彼の昔話を聞いて心を揺らしている少女が雪に足を取られて転んでしまわないよう、その華奢な肩をすぐに支えることができるように見守りながら歩いていたが、彼の呼びかけを受けてこちらを見た。
大切な少女のことを安心して任せられる心優しい青年に、彼は言った。
『約束通り全部話してあげたから、きみも約束を守ってね』
『わかっている。あなたが望んだ通りにしよう』
青年の姿には似つかわしくない、教会にいる子供たちのように幼い少年の声で、彼は彼らしい誠実な返事をした。
もっと早く出会っていたら、もっと親しい友人同士になることができただろうか。
彼はついそんなことを思った。しかし、もう目的地はすぐそこだ。
遠い異国からこの町にやってきたエメラルドグリーンの美しい瞳を見つめ、彼は心からの感謝を伝えた。
『ありがとう。きみに天使様の祝福がありますように』




