45.知らなかったこと
「シエル、起きて」
ぐっすりと深く眠りこんでいたシエルは、誰かにそっと揺り起こされて目を開けた。
いつまでも聞いていたくなる、耳に心地いい声。真っ黒な服。まだ寝ぼけている頭を撫で、寝乱れた髪を撫でつけてくれる、優しい手。
「……フィニアン?」
目を開けたはずだが、もしかしてまだ夢を見ているのだろうかと思った。
夢か現かよくわからないまま起き上がると、寝台のそばに膝をついていたフィニアンが微笑む。
「おはよう。よく眠れた?」
「うん……えっと、朝……?」
「そうだよ。そのまま横になるとせっかくの服がシワになるからよくないと思ったけど、フィンドールさんが帰ってこないなら仕方ないし、寝ちゃったのを起こすのもかわいそうだし。ハリト、きみを起こさないようにすごく気をつけてたよ。ちゃんとベッドに寝かせてあげようにも、きみが彼にくっついてて離れようとしないから」
彼らしい柔らかな韻律で紡がれる言葉を聞くのは何だかすごく久しぶりのように感じて、シエルはこれが夢なのか現実なのか、いよいよわからなくなる。
カーテンの隙間から光が差しこんでいるので、外はもう明るい時間だということは確かだった。あれから――ここでハリトと黒い鳥のフィニアンと一緒にフィンドールの帰りを待っていて、ハリトと二人で毛布に包まって、シエルはどうやらそのまま眠ってしまったらしい。
その様子をずっと見ていたように微笑ましく話しているフィニアンの様子からすると、これはちゃんと目が覚めていて現実で、夢を見ているわけではなさそうだ。
しかし、どうして彼が青年の姿でいるのだろう。
やっぱり夢なのだろうかとシエルが混乱しているのを見て取ったのか、フィニアンは微苦笑を浮かべた。
「あのあとしばらくして、夜のうちにフィンドールさんが帰ってきたんだ。お屋敷から資料をたくさん持って帰ってきて、ハリトはそれを読むのを夜通し手伝わされてた。僕も手伝ったけど、さっきやっと全部読み終わったところ。それで、フィンドールさんがきみを起こしてくるようにって」
シエルは思わず手を伸ばし、大変だったらしい一晩のことを穏やかに語る彼の頬にふれた。
精巧な陶人形を思わせる繊細さで形作られたその頬は絹のように柔らかくひんやりとした感触で、確かにそこにあって、しっかりとふれることができた。
フィニアンはそんなシエルの手に自分の手を重ね、少し首を傾けて、自分から頬を寄せるような仕草をした。
黒い鳥の小さな身体でシエルに親しみを伝えてくれていたときの仕草を、真似してみせるように。
「夢じゃないよ。僕はちゃんとここにいる」
「……消えないの?」
「うん。もうだいじょうぶ。フィンドールさんが下で待ってるから、おいで」
ともあれシエルは差し出された手を取って寝台から降り、梯子を使って下に降りることになった。
寝起きの覚束ない手足で梯子を降りるのは少し怖かったが、まず脚を下ろしてから一段、二段と慎重に降り始めたところで――突然下から両脇を掴まれ、身体がふわっと軽くなり、脚が梯子から離れて宙に浮いた。
「ひゃあっ……!」
「やっとお目覚めですかお嬢サン。本来でしたら寝る前はきちんと髪を解いて、服も着替えなければ駄目ですヨ? 今回は仕方がないので大目に見てあげますが、身だしなみを整えるというのはまずそういったところが肝要です」
などと言いながら軽々とシエルを床に降ろしたフィンドールは、もうすっかり見慣れたあの奇抜な服装に戻っていた。
突然の浮遊感に心臓がひっくり返りそうになっていたシエルは何度も瞬きして、目の前の道化師を見上げ、それから昨日とはずいぶん様相が変わった一階の光景を見た。
あの大きな机の上に何冊もの書物が積み上げられている。机だけではなく床にまで散らばっている紙片は古いものから新しいもの。何かの図が描かれた、いかにも古くて大きな羊皮紙も広げられている。
「ハイ! というわけでこれから対策会議を始めますヨ。ほらハリト君起きてください、いつまでも惰眠を貪っている暇などありませんからネ」
机に突っ伏していたハリトはその態勢で眠っていた――とはとてもいえないような浅い睡眠だったのではないかと思うが、すぐ近くでパンパンと手を打ち鳴らされて、かなりうるさそうにしながら緩慢な動作で頭を起こした。
それでもシエルのほうを見て目が合うと、おはよう、と言うようにその目で挨拶してくれた。だいぶ疲れている様子だが。
「もう少しくらい寝かせてあげたほうがいいと思うけどな」
と、後から降りてきたフィニアンが気の毒そうに言った。梯子を伝うというより、ひょいと音もなく飛び降りてきたのでシエルは少し驚いた。元々があの黒い鳥だからなのか、青年の姿でもずいぶん身のこなしが軽いらしい。
夢ではない、とは思うのだが――もしかして夢を見ているのではないかという疑いがいまいち拭い去れない、どうにも現実味が薄い感覚にシエルは戸惑っていた。
「おっといけない。貴女の朝ご飯を忘れるところでした」
テーブルにつこうとしたその直前にふと思い出したように、フィンドールはそう言って振り向いた。
朝ごはん、とこの人が言うのが何を意味するのはもうシエルも理解している。その言葉に従ってすぐにドレスのポケットから薬袋を取り出そうと、深いポケットの底まで指を届かせてから、シエルは(……あれ?)と頭の中から血の気が引く音を聞いた。
昨日、あれほど言い含められたことだから。
フィニアンにあの一粒をあげたあと、ちゃんと間違いなく、ポケットにしまったはずなのに。
――ない。
「ふぃ、フィンドールさん」
「ム? ああ大丈夫ですヨ、薬袋なら私が持っています。ホラここに」
てっきり失くしてしまったものかと思い顔を青ざめさせるシエルに対して、フィンドールはまるで当たり前のように自分の懐から薬袋を取り出して見せた。
いつの間に、取ったのか。
いや、この人のことだから、この程度のことは今さら驚くほどではないけれど。
ともあれ失くしたわけではなかったことを知ってほっとする。シエルはその安堵とともに胸の中の空気をすべて吐き出し、次に自分が何をすべきかわかっているので、雛鳥のように自分から口を開けた。
既に近づいてきていたフィンドールは、それを見て一瞬虚をつかれたような反応をした。
「……本当にいい子ですね、貴女は」
と、微笑むような呟きが聞こえた、その直後。
ピエロの仮面は焦点が合わないほどの距離にまで近づいてきて、シエルの顎をくいとつまんで上向けさせ――餌が与えられるのを待っていた無防備な唇を、唇で塞がれた。
歯列を押し開いてぬるりと入り込んできた舌が内側の粘膜を犯して、その舌伝いに、何かどろりとした、酷い鉄錆の味が口いっぱいに広がった。
それは絶対に受け入れてはいけない味だと身体が拒否反応を示したが、口を塞がれているので吐き出すこともできず、溺れるほど溢れた唾液と一緒に、シエルは涙目になりながらそれを嚥下した。
ごくんと喉が上下するのを手でふれて確かめてから、フィンドールはようやくシエルを離してくれた。
離れた途端、彼はその場で突然大きな衝撃に打たれたかのように頭を押さえ、情けない悲鳴を上げだした。
「イタタタタタタタタタ……ッ! ご、誤解! 誤解ですからネッ!? いくら私でもそんな趣味はありませんと何度言えばッ……!」
その天罰めいた現象に耐えながら必死に訴える弁明の言葉は、シエルではなくハリトのほうに向けられている。ハリトは人として信じられないというような顔をしてフィンドールを見ていた。
フィニアンは慌てて自分の元に保護するようにシエルを引き寄せ、心配そうに顔を覗きこんできた。
『大事ないか、お嬢さん』
「シエル、だいじょうぶ?」
と、二人同時に言われて「う、うん」と頷く。
大丈夫といえば、大丈夫だ。驚いたけれど、躯を傷つけられたり痛い思いをしたわけではない。
それに――あのどろりとしたものを体内に取り込んだ瞬間、第五元素石を与えられたときと同じ感覚があった。
でも、それは何だったのか。
おそるおそるフィンドールのほうを見ると、ようやく苦痛から解放されたらしいフィンドールは「やれやれまったく」とぼやきつつ、手にした薬袋をシエルに向けて振ってみせた。
「これ、もう中身が空なんですヨ」
「……え?」
「ゆえあって全て使い切ってしまいましてネ。なのでやむをえず、原料をそのまま与えたのです。ホラ、目が覚めて頭も冴えたでしょう?」
「め、目は覚めたけど」
にっこりと何事もなかったかのように笑いかけられ、思わず自分の唇にふれる。
あれだけ入っていたはずの第五元素石を、全部。
なくなってしまったから、代わりに。
口移しで。
彼が飄々と口にした言葉を頭の中で反芻した結果、シエルはすべての疑問を一つの言葉に集約した。
「なんで……?」
そもそも、どうしてなくなったのか。
どうして何も言わずに、いきなり口づけるような真似をしたのか。
それによって、どうしてこの躰の隅々まで活力が充溢することになったのか。
するとフィンドールはあっけらかんとした口調で答えた。
「なんでも何も、第五元素石は私の血液から精製したものなのですヨ」
「え」
「勿論、精製したものと比べれば補給効率は格段に落ちますがネ。それでも一食分程度のエネルギーには足りるでしょう」
――つまり、さっきわたしが飲まされたものは。
うそ、とシエルは声に出して呟いた。
フィニアンも驚いて、言葉を失っていた。
ハリトは元から知っていたのだろう。既に何度も摂取した物質の正体を今初めて知ってしまった二人を見て、何とも言えない顔をしていた。
シエルへの給餌を済ませたフィンドールは呆然としているシエルとフィニアンを椅子に座らせ、テキパキと全員分のお茶を淹れ、お詫びのつもりなのかやけに美味しそうな焼菓子まで出してから、ようやく本題に入る。
「こちらは伯爵のお部屋より拝借してまいりましたセレームの周辺地図、ならびに彼の研究資料と手記です。幸い貴女に寝床を取られたハリト君が夜を徹してお手伝いしてくれましたので、内容の確認は昨晩のうちに全て済ませることができました」
「えっ」
とようやく我に返ったシエルが思わず声を上げてしまったのは、〝寝床を取られた〟の部分だった。どうやらさっきまで使わせてもらっていたあの寝台の主だったらしい彼は、何も知らずに寝ていたシエルに対して首を横に振った。
『そこは気にしなくていい。寝ようと思えばどこでも寝ることはできるから、大した問題ではないよ』
「ご、ごめんなさい」
『きみが謝る必要はない。今後解決すべき問題ではあるが、今はより大きな問題を考えなければいけない』
ハリトは疲れていても普段と全く変わらない声でそう言って、フィンドールのほうを見た。
フィンドールはすっかり気を取り直した様子で、「コホン」と咳払いして話を続けた。




