44.翡翠色の目
――みゃあ。
居間の安楽椅子で微睡んでいたラセルは、外から猫の鳴き声が聞こえた気がしてハッとして、慌てて窓に駆け寄った。
しかし、昔に造られた古い石造りのアーチや柱が残されている庭の風景は雪に埋もれて真っ白で、しかも暗くて何も見えない。
「急にどうしたんだよ」
と、今までじっとしていたラセルが突然動いたことに驚いたらしいアルドが声をかけてきた。
パチパチと薪の爆ぜる音がする。アルドは暖炉のそばに胡座をかいて座りこみ、膝の上に広げた本を読んでいたようだ。
「いま、ケルシーの声が聞こえた気がして」
「気のせいだろ。この雪ん中だぜ?」
アルドは呆れたようにそう言いつつも、読みかけの本を持ったまま立ち上がり、こちらに近づいてくる。
もしケルシーがいれば、暗闇の中でもキラリと目が光って見えるはずだ。もしくは、雪とは異なるクリーム色の毛並みがもぞもぞと動いていたりしないか。よくよく目を凝らして探してみるけれど、その姿を見つけることはできなかった。
疑わしそうにしながらも一応ラセルと一緒に窓の外を見て探してくれたアルドは、「ほら、やっぱりいねえじゃん」と言った。ラセルはうつむいた。
あれから――祝祭の最初の祈りの朝から一度も、ケルシーの姿を見ていない。
こんなに寒いのにどこへ行ってしまったのだろう。
庭の片隅に置いている皿の中の餌は一口も食べられていなかった。いつもなら、姿が見えなくても餌だけはきちんと食べているのに。
何だか、あの冬の日を思い出す。
餌も食べずにいなくなってしまったあの子を探して町に行き、探し疲れて途方に暮れて、道端に座り込んでしまったあの日を。
「たぶんあの猫、本当の家がどっかにちゃんとあるんだよ。おれたちよりよっぽどいい毛皮着てんだし、冬の間だって雪の中をうろうろしてたんだから、そんなに心配しなくても平気だろ」
アルドがそう言ったのは、どうやら彼なりにラセルを気遣ってのことらしい。口調はいつものようにぶっきらぼうだったが、ラセルはそれを感じ取ることができた。
気持ちが塞いでしまっているために、ありがとう、というお礼の言葉を素直に口に出すことはできなかったけれど。
「……そうだといいけど」
「探しに行こうなんて考えんなよ。フィニアン兄ちゃん、もういないんだからな」
そんなラセルに、アルドは釘を刺すように言った。
まるで何かを知っているような口調に聞こえたので、ラセルは訝しく思って彼を見た。
「何だよ」
「別に。……今、なんでそんな言い方したのかなと思っただけ」
「そりゃ、お前が一回あの猫を探しに行ってみんなに心配かけたからだろ」
「そっちじゃなくて、フィニアンのこと」
アルドは黙った。
理由は何となくわかる。おそらく昨夜彼を追いかけていった神父様が、ほかのみんなには言っていないことを彼にだけ話すか何かしたのだろう。しかしここでそれを聞き出せるほど、ラセルは彼と仲良くはない。
フィニアンはもう戻ってこない。
言われなくても、そんな気はしていた。
「……ぼく、ずっと思ってたんだけど」
ラセルは視線を落とし、窓のへりをつかんだ。
そう。ずっと思っていたことだ。
赤ん坊の時に捨てられて拾われたラセルにとっては、彼は物心ついたときから教会にいる大人の一人だった。
ほかの子供たちと遊ぶのがあまり好きではない――というのはたぶん言い訳で、みんなの輪に入ることができないラセルが一人で寂しさを堪えていると、絵本を見せてくれたり、物語を話してくれたりした。
むしろ一人でいるほうが落ち着くようになってからも、時々押し寄せてくる寂しさに耐えきれなくなりそうなときは、なぜか必ず気づいてそばにいてくれた。
あの日もそうだった。
そんなふうに優しくしてもらったのも、不思議に思っていたのも、きっとラセルだけではないはずだ。
「フィニアンって、本当は天使様だったんじゃないかな」
「…………」
ラセルが口にしたことを、アルドは否定しなかった。
今朝の神父様は食堂に簡易的な祭壇を設えて、子供たちみんなを集めてお祈りした。
この雪が早く止むようにと天使様にお願いするのではない。
天使様の奇跡がなければ、この町には二度と春が訪れることはなかった。
人々はそのことを忘れかけている。だから祝祭の日を前に、そのことをきちんと思い出して、今までの春に心から感謝するようにと。
その心が届けば、きっと冬の魔女は人々を許してくれるだろうと。
おそらくそれは聖典の書には記されていない、神父様自身の祈りの言葉だったのではないかと思う。
だから、ラセルは祈った。
フィニアンが――天使様が大切にしてあげていたあの真っ白な少女の無事も、ちゃんと祈った。
「……っていうかアルド、本なんかろくに読めないくせに何を調べてるの」
何か返答を期待していたわけではないので、ラセルはアルドが手にしている本を見て言った。それは子供向けに書かれている聖典の書で、神父様が子供たちに天使様の物語を教えるときに使うものだ。
何かやましいことでもあるのか、アルドはぎくりと肩をこわばらせる。ラセルはわざと首を傾げてみせた。
「神父様に言いつけたほうがいい?」
「や、やめろよ。ほかにやることねえんだから、本くらい読んだっていいだろ」
「ふうん」
「……絶対誰にも言うなよ?」
別に圧をかけたつもりではなかったのだが、アルドはラセルの視線に呆気なく屈した。
ちょうど今、この居間には誰もいない。昨日の今日で近寄りがたい雰囲気をまとっていたアルドを避けるようにして、食事とお祈りを終えたあと、みんな自分の部屋に戻ってしまったからだ。
「禁忌の山に行く方法」
アルドは小声でぼそりと白状した。
は? とラセルは聞き返す。だから、禁忌の山に行く方法だよ、とアルドはもう一度繰り返した。
「考えてみろよ。あんな遠い山に、一日で行って帰ってこれるわけないじゃんか。ってことは、何か特別な方法があるんじゃねえかなって」
「そんなこと知ってどうするの」
突拍子のないことを言い出したことに驚くよりも、不審が勝る。
無駄な行動力にあふれた彼のことだ。もしや、という嫌な想像も頭をよぎった。
「まさかとは思うけど、教会からお祈りしてもどうせ届かないから禁忌の山まで行って直接お祈りしようとか、安直なこと考えてないよね? 馬鹿だよ?」
「ば、馬鹿って何だよ」
――信じられないことに、どうやら図星だったらしい。
ラセルは彼の目の前で溜息をついてみせたが、言われてみれば確かに、とも思う。
レターニア山は遠い。大人の足でも二日か三日はかかるだろう。間違いなく、子供が歩いて辿り着ける距離ではない。
しかし七年に一度の祝祭のときは、子供たちがみんなであの山へ行く。それは昔から何百年も続いている習わしだというのだ。
まるで当たり前のようにそう聞かされていたけれど――行き方がわからないというのは、考えてみればかなり不思議な話だった。
「でも、子供が禁忌の山に行かされるのって」
ラセルは窓の外の暗い空を見上げ、ふと心に思ったことを呟いた。
「まるで天使様の物語に出てくる、七人の子供たちみたいだよね」
自分たちが犯した罪を償うために、自ら犠牲になるためにレターニア山へ向かったという子供たち。
かつて罪を償うために行ったのと同じことを、何の罪を犯したわけでもない今の子供たちにさせるのは、実はとても酷いことなのではないだろうか。
「天使様って子供に優しいはずなのに、本当にそんなこと望んでるのかな」
「だから、絶対そんなわけないと思ったんだよ。絶対、そうじゃない秘密の方法があるんじゃねえかって……」
意外と食いついてきたアルドと二人で問答のような言い合いになりかけていた、そのときだった。
――みゃあ。
今度は間違いなく、さっきよりもはっきりと猫の鳴き声が聞こえた。
それはアルドの耳にも聞こえたようで、アルドは再び窓の外を見るなり「あっ」と声を上げた。
「! ケルシーだ……!」
いつの間にそこにいたのか、崩れた石壁のすぐそばに、まぎれもないクリーム色の猫の姿がある。
みゃあ、ともう一度、ケルシーは翡翠色の目で、明らかにこちらを見て鳴いた。まるでラセルを呼んでいるようだった。
ラセルは居間から玄関に向かって外に飛び出し、扉を開けた途端に吹きつけてきた雪風に負けてしまいそうになりながらも、大急ぎでその場所に駆けつけた。
「ケルシー」
逸る気持ちを必死に抑えて、驚かせないように名前を呼ぶ。雪の上にうずくまっているクリーム色の毛並みは、雪粒まみれになっている。
聞こえなかったのだろうかと思ってもう一度名前を呼ぶと三角の耳がピンと立ち、ようやくこちらに気づいてくれた。
ラセルはそろそろと近づいて、我慢できずに「おいで」と手を差し伸べた。しかし、さっき自分を呼んでいたはずのケルシーは寒さに震えるように――あるいは怯えるように小さく縮こまっており、いつものようにその手にすり寄ってこようとはしない。
「? ……どうしたの、ケルシー」
思い切って手を伸ばし、すっかり冷え切ってしまっているその毛並みにふれる。
すると驚いたように、ケルシーは全身の毛を逆立ててラセルのことを威嚇した。ラセルはびっくりして手を引っこめた。
一瞬、頭が真っ白になった。ケルシーだと思ったのに、まさか違う猫なのだろうか。
しかし見た目はどう見てもケルシーだ。もしかしたら、あんまり寒くてパニックになってしまっているのかもしれない。
ラセルは意を決して両手を差し込み、雪の上からケルシーを抱え上げた。
「ご、ごめんね」
抱き上げられると察した途端に激しく抵抗して暴れ出した猫の様子に思わず泣いてしまいそうになりながらも、とにかく必死に抱えこむ。剥き出しになった鋭い爪が服を貫通して腕に食い込み、皮膚が破れて血が出ているのがわかる。でも、抱き上げるときの感触や、腕に感じる重さはやっぱりケルシーと同じだった。ケルシーそっくりのこの猫は、もしかしたらケルシーではないのかもしれない。わからない。どちらにしても、こんな雪の中にいるのを放っておくわけにはいかない。
ラセルは散々暴れる猫を必死に宥めながら抱きかかえ、孤児院の中へと連れて帰った。
「だ、大丈夫かよお前! 血だらけになってんじゃんか……!」
そんなふうにして戻ってきたラセルの姿を見るなりアルドが血相を変えて叫んだので、部屋にいた何人かの子供たちもやってきて、それからはちょっとした騒ぎのようになった。
興奮してしまったケルシーは部屋の隅に逃げ込んでラセルのことをフーフーと威嚇していたが、ずいぶん空腹だったようで、あたためたミルクをあげるとしっかり飲んでくれた。けれど、あまり近づくと威嚇される。まるで今日初めて出会った猫のようだった。
「……きみはケルシーじゃないの?」
これ以上怖がらせてしまわないように気をつけながら、それでもラセルは猫に問いかけずにはいられなかった。印になるようなものはつけていなかったから、この猫がケルシーなのかどうか、確かめる方法がないのだ。
そしてそのとき、ようやく気づいた。
目の色だ。
ケルシーの目は翡翠色だった。でも、この猫の目はまったく違う。明るい榛色だ。
つまり、やっぱり違う猫だということなのか。
(そんなわけない)
と、ラセルは心の中で否定する。
窓の向こうでラセルを呼んでいたあのときの声は、絶対にケルシーだった。
しかし現実として――まるで初対面のように目の前の人間を警戒している猫の姿を見ながら、ラセルはいつまでも困惑していた。
そして、結局誰も気づかなかった。
窓の外には、翡翠色の目で彼を見つめる白い男が佇んでいたことにも。
その姿が雪とともに吹き散らされ、煙のように消えてしまったことにも。
そんな些細な出来事に気がついた者は、誰一人としていなかった。




