43.愛しき人
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部屋に戻ると、今まで床で眠っていたらしい灰色の狼が起き上がり、律儀に座り直して彼女を出迎えた。
「いい子だね」
その頭を撫でてやると、嬉しそうに尻尾を揺らす。ヴェルレーヌは――ヴェロニカは目を細めた。
新しく与えられた名前の響きは、正直に言うと悪くない。
ヴェロニカ。その花はこの屋敷の裏庭にも咲く。それがこの地域、特にレターニア山の麓に自生する美しい野花であることを彼女は知っている。人の手で改良された品種も美しいが、この屋敷の主であった伯爵夫妻は野生種の可憐さをより好んでいた。
そのようなことを話に聞いたわけではない。ただ、なぜか知っている。
自分が生命として生まれる以前の光景も、なぜだかこの目で見たかのようにはっきりと記憶している。
例えば、まだ髪の色が残っていた彼が書庫の本を掻き集めて必死に読み漁る姿。
あの部屋に閉じこもってしまった主の寝食を心配し、何度も扉を叩いた使用人を怒鳴りつける姿。
彼はいつも苦悩していた。そして、やがては誰のことも信じることができなくなった。
ガラス瓶の中に浮かぶ不定形の生命を、あの彼はどんな思いで妻と呼んだのだろう。
もう、既に狂ってしまっていたのか。
それとも本当に妻の魂を呼び戻すことができたのだと、信じていたのか。
彼が愛したヴェルレーヌがこんなことを望んでいるはずがないということは、誰よりも彼自身がわかっていただろうに。
「……本物の彼女には会えたかい、ローラン」
そう語りかけ、寝台にもたれて眠っているかのような彼の白茶けた髪を指で梳く。
あの白い男が抜け出た途端、その頬はすっかり土色に干乾びてしまった。眠るように安らかな表情を最後に浮かべることができたのは、彼にとって唯一の救いだったといえるかもしれない。
正しい裁きを受けることもなく、本当の意味で願いを叶えることもできず、最後には何を思っていたのだろう。
けれど、もう何もかも終わってしまったことだ。
今この時くらい、一人の哀れな男として慰めてやったっていいだろう。
「フム、その方が本物の伯爵なのですネ?」
「!」
扉を閉めてきっちり内鍵をかけたはずの部屋の入口から声がして、ヴェロニカは思わず飛び上がりかけた。
唸り声を上げだした狼を手で制しながら振り向くと、音もなく開けて閉め直した扉を背にして、あのふざけた道化師が立っていた。
これはさすがに、苦言の一つくらい呈してやるべきだろう。
「人の寝室に無断で入ってくるのはどうかと思うんだけど。……この子に噛み殺されても知らないよ」
「それは恐ろしい。ご無礼、どうかお許しください」
などと口先だけで言いながら、道化師は仮面の下で飄々とした笑みを浮かべている。
灰色狼のグレーベルはいよいよ姿勢を低くして威嚇している――というより、ひどく怯えて警戒しているようだ。これ以上近づいてくるようなら、飛びかかってもおかしくはない。
「その狼は貴女が飼っているのですか?」
「……いいや。飼ってるわけじゃない」
グルグルと唸り声が響く。しかし向こうは狼の存在を脅威に感じている様子もなく、武器や敵意を見せてもいない。怯えの理由は何か本能的なものだろう。
逆立った背中の毛を撫でつけるように宥めてやりながら、自分まで緊張していたことに気づき、ヴェロニカは頭を振った。
「この子はグレーベル。本物のヴェルレーヌの……何だろう。友達? みたいなものだよ」
「フム?」
道化師は興味深そうに反応して顎を撫でている。
その様子が少々癪に障るが、獣との距離感は一応わきまえているらしい。というより、それ以上一歩でもこちらに踏み入れば襲われる、という境界線が視えているかのように絶妙な位置で足を止めている。
ヴェロニカは溜息を吐き、仕方なく説明を続けた。
「彼女がこの町に嫁いできた最初の祝祭の年に、ローランにせがんで、町の子供たちと一緒にレターニア山に行ったんだと。……ちなみにこれはぼくの記憶じゃなく、彼女の日記に書き残されていたことだよ」
そう言い足したのは、彼女の大切な思い出を自分の口から赤の他人に話そうとしていることに対して後ろめたい思いがあったからだ。
しかし、本来人間の町にいてはいけない野生の獣であるこの子の存在を知られた以上、弁明は必要だった。
「レターニア山の狼は冬の魔女に仕える下僕で、エルフィリアの花を守る役目を仰せつかっているのだという伝説は知ってるかい? 実際はどうだか知らないけど、狼にしては長命で知恵深くてね。この子はそのときに怪我しているのをヴェルレーヌが見つけて手当して、恩返しのつもりなのか何なのか、それから時々山の花を届けにくるようになったんだとさ」
「ほう。まるで御伽噺のようですネ」
道化師は感心したように言った。
グレーベルはようやく落ち着いてきたようだ。まだ完全に警戒を解いてはいないが、ひとまず座ることにしたらしい。その暖かい毛並みにみなぎっている深い忠誠心を手の平に感じ、ヴェロニカはそっと目を伏せた。
「……けれど、彼女は死んでしまった」
果たして獣が死という概念を理解できるのかどうかはわからない。
ヴェルレーヌがもういないことをこの狼が理解しているのかどうか、それを確かめる術もない。
しかしヴェルレーヌの死後、この狼は山に帰らなくなったらしい。ヴェロニカはやはりその姿をずっと見てきたかのように知っているが、どうやら彼女が裏庭に遺した花畑や、彼女が愛していたローランを守ろうとでもしているようだった。彼女のドレスを着た〝ヴェロニカ〟のことも、おそらく守ろうとしてくれているのだろう。
「そんなこと、しなくたっていいのにね」
ふっと笑うと、グレーベルは何かを感じ取ったように鼻先を寄せてきた。
――自分が死んだあとのことを思うと、唯一気がかりなのはこの子のことだ。
守るべきものが何もなくなったことを理解すれば自然と山に帰っていくのか、それとも、誰かと交わした約束に縛りつけられているかのように、誰もいない屋敷をいつまでも守り続けようとしてしまうのか。
こうして事情を話す機会があったのは幸いだったかもしれない。灰色の毛並みを撫でつつ、ヴェロニカは正直に打ち明けた。
「何か一つきみに頼むとしたら、正直この子のことをお願いしたいかな。ちゃんと住処に帰れるように」
我ながらずいぶんとしおらしい口調になってしまった。
そのささやかな願いを聞いて、道化師は呆れ半分に肩を竦めて言った。
「それは貴女が死んだあとの話でしょう? その程度のことはアフターサービスの範囲内で承りますヨ。まあ、どうにかしましょう」
「ならよかった」
「ウフフ。貴女、その狼サンにはずいぶんとお優しいのですネ」
「そりゃあ善悪も何もない獣だからね。人の都合で不幸になるようなことがあってはいけないだろう」
ニヤニヤ笑いがいちいち不愉快ではあるが、口に出して指摘するほどの嫌悪感はない。それに案外、この道化師は言葉を過剰に装飾するきらいがあるだけで、嘘偽りを口にすることは滅多にないようにも思えてきた。
あるいはこれは、そう思わせるように仕向けられた罠なのだろうか。
何だっていい。
どうせ、この目で見たものを信じることしかできないのだから。
「ところできみは、本当は何者なんだい」
ヴェロニカは首を傾げ、改めて尋ねた。
すると道化師は半歩下がって右手を胸に当て、いかにも貴族らしい丁重な礼をして見せた。
「ルシウス・ヒューベルテュス改め、シュトゥルムル・ストゥルトゥス・フォリス・ルル・ティラトゥススティリス・フィンドールと申します。以前クロアドゥール建国議会に所属していたこともありますが、今はただのしがない機術士であり、奇術士です」
「……一応きくけど、それは本名?」
「フフ、まさか。本名などありません。とうに忘れてしまいましたからネ」
あまりの胡散臭さに顔を顰めるヴェロニカに対し、道化師はにっこりと笑う。
「僭越ながら貴女に敬意を表して本当のことを申し上げますと、私は呪われの身ゆえに死ぬことができないのです」
「は?」
「昔、世界を滅ぼしてしまって」
ヴェロニカは思わず目を見開いた。
今の言葉は何かの聞き間違いだったのだろうかとこちらが考え直す間もなく、道化師は愉快そうに肩を揺らし、真面目な声色からパッと一転させた明るい声で言う。
「なーんて。冗談ですヨ?」
「あ、ああ、そう」
「しかしハリト君にも誰にもお話しておりませんので、これは私と貴女だけの秘密です」
――などと言うものだから、結局冗談なのか本当なのかわからない。
煙に巻かれたようで不可解な気分ではあったが、何だか空恐ろしい感じがして、それ以上詮索する気にはなれなかった。
そして得体の知れないその感覚から意識を逸らそうとしたとき、ふと思いついた。
「そういえば、ぼくの願いについてだけど」
「ああ、今度こそ何かお決まりですか?」
道化師はずいぶんと軽い口調で問い返してくる。
料理の注文でもあるまいに。と、ヴェロニカはつい笑ってしまった。
こちらとしても、あまり神妙にされてはかえって言いづらい。つられるようにこぼした笑みを残したまま、本当にただの思いつきのように、ヴェロニカはその願いを口にした。
「エルフィリアの花が咲く、祝祭の春を見てみたい」
その願いを受けて、道化師の表情はほんの一瞬だけ固まった。
しかしその一瞬の後、なぜかおもむろに顔の前に片手をかざしたかと思ったら、笑うピエロの仮面が困った表情のピエロの仮面にすり替わる。道化師はその顔でうーんと唸り、困り果てたように腕組みして言った。
「なかなかの無理難題ですネェ……」
「そうだね。けれど、なんでも叶えてくれると言ったのはきみだよ」
「わかりました。お約束しましょう」
「え?」
と、間抜けな声で聞き返してしまった。
困り顔だったはずのピエロの仮面は、いつの間にか笑うピエロの仮面に戻っている。
「……正気?」
こちらとしては、絶対に叶わない夢を口にしたつもりだったのだ。
そう、それはまさしく夢というのがふさわしい。
この町の人々が七年に一度の奇跡として讃える青い花の美しさ。ヴェルレーヌにとっての一生の思い出。そして――伯爵がヴェルレーヌに再び見せたいと願っていた、ヴェルレーヌが再び見たいと最後に願っていた、祝祭の春。
その光景がどれほど美しいものなのか、ヴェロニカは知らない。
だから見てみたいと、自然に思い浮かんだ願いだった。
本当なら、もうすぐ手の届くところにあった。しかし――今、こうして自分がこのように生きているために叶わなくなってしまった夢。
「愛する女性のためなら、人は不可能さえ可能にしてみせるものですヨ。その亡骸の主のように」
道化師はそう言って、物言わぬ伯爵に目を向けた。
仮面の下の目元は見えないが、おそらくその眼差しに軽蔑の色はない。少なくとも今この瞬間だけは、死者に対する真摯な敬意とも呼べるものが感じられた。
そして、その目はそのままこちらへと向けられる。
無意識のうちに、ヴェロニカはドレスの胸元を握りしめていた。
ああ。
わかってはいたけれど、そのときがくるとやはりこんなにも恐ろしくなるのだ。
ヴェロニカは一度下を向いて目を瞑り、それから顔を上げ、嫣然と微笑んでみせた。
「そのために何が必要なのかはわかっているよ」
「…………」
「きみはあの白い男と似ているけれど違うようだ。愚かなローランとも違う。約束は必ず守ってくれると信じてあげる」
道化師はしばし沈黙していたが、そんなヴェロニカを見つめて根負けしたように言った。
心からの敬意と、まぎれもない哀惜の情をこめて。
「それは光栄です」
用意のいいことで、彼が懐から銀の刃物を取り出すのをヴェロニカは見た。
ずいぶん損な役割を引き受けてしまったものだと、少しだけ彼に同情する。
嫌悪感。罪悪感。彼が心ある人間ならば、多少持ち合わせているはずだろう。
ひょっとしたら、あの子を先に帰したのはそのためなのかもしれない。ヴェロニカとて、いくらなんでもこんな場面をあの子に見せたくはない。あの子に見せるべきではない。
一応、あの子の新しい主人にはそのような人の心がきちんとあるのだということを知れて、ヴェロニカは安堵した。
「あまり痛くしないでくれよ」
「ええ、一思いに」
そんな彼の――この哀れな自分のために、あの子のために、ほかの誰でもなく自らの手を汚してくれる者の心を少しでも軽くしてやるために、ヴェロニカは微笑んだ。
金属の鋭い切っ先が胸にあたり、仮初の白い肌にふれる、その瞬間まで。
――どうか、可愛いきみが幸せになれますように。
大切な妹のように思っていたあの白い人形の少女の、まだ見たことのない花咲くような笑顔を想像して、ヴェロニカはそっと目を閉じた。




