42.優しい涙
――夕刻を告げる鐘が鳴っても、フィンドールは帰ってこなかった。
町には相変わらず雪が降り続いている。積もった雪はさらにうずたかく、物の見分けもつけられないほどになってきた。風もますます強くなる一方で、これでは帰ってくることができないのではないか、という心配がよぎる。
二階の窓からじっと目を凝らして黒いコート姿を探すように外の様子を見つめていたシエルはふと、自分があの道化師の心配をしている、ということを不思議に思った。
いや、と思い直す。それは何も不思議なことではない。……あの人はわたしの新しい主人で、彼女が言っていたように、きっと前よりもずっと善い主人なのだから。
たぶん。
きっと、そうなのだろう。
窓枠に嵌め込まれたガラスは氷のように冷たい。空が分厚い雲に塞がれているために、外はもう暗くなり始めている。
彼女は今頃どうしているだろうか。
何となく、シエルと同じように窓の外の雪を眺めているのではないかと思う。
刻一刻と近づいてくる自分の命の終わる時を待ちながらも、言われたとおりに最後の〝願い〟を考えているかもしれない。
最後に叶えてもらえるというなら、彼女は何を願うのだろう。
「……ハリト、寒くない?」
シエルはローブの胸元に入れた黒い鳥を両手で抱き、彼のほうを振り向いた。
床に座っている彼は防寒用の外套を着たままで、昨日までのシエルのようにフードを深く下ろしている。そのため顔はよく見えないのだが、吐く息が白い。それを見て改めてこの人は人間なのだと思うと、自分よりもずっと寒い思いをしているのではないかと心配になったのだ。
ハリトはフードの影の下からこちらを見て、首を横に振った。
『きみが寒くないのならいい。……それと、その鳥だが』
短く答えた少年の声が、ついでのように何かを伝えようとする。
その鳥、と言葉で指し示した黒い鳥がシエルの胸に抱かれているのを見ながら、彼は静かに言った。
『知能まで小鳥になっているわけではないことをきみに伝えてほしいと言っている。寒さも感じてはいないから、そのような心遣いも不要だと』
「え?」
シエルは目をしばたたかせた。
思わず、ローブの合わせから顔を出している黒い鳥に目を落とす。つぶらな薄青色の瞳と目が合った。
しかし相変わらず本物そっくりの作り物みたいに大人しく、鳴きもしない。それにこの姿では喋ることができないのだと、本人も言っていた。
「フィニアン、何か言ってるの?」
少なくともそんな様子はなかったはずなので、シエルは首を傾げてしまった。
とはいえ、この人の言うことに疑いの余地はない。不思議そうにしているシエルを見て、ハリトはようやくその秘密を教えてくれた。
『あなたたちの耳には聞こえない言葉だ。……きみが先程疑問に思っていた彼女のことについては、その鳥が語って聞かせてくれただけだよ』
そう言われて、シエルは彼の顔と黒い鳥とを交互に見た。
黒い鳥のほうもハリトが自分の意思を伝えてくれたのだとわかったのだろう。コトリと首を傾げ、シエルの手の中で小さく翼を動かした。
ローブの中から出してあげると、黒い鳥はそのまま羽ばたいてハリトのほうに飛んでいき、彼が抱えているバコラの上に止まった。
先ほどもそうしていたが、どうやらそこがお気に入りの止まり木になったらしい。
「……あなた、本当に不思議な人ね」
と、シエルはハリトに向けて言った。
あなたたち、と彼が言っているように聞こえるその言葉は、おそらく〝普通の人間〟とでもいうような意味合いで発されているのだろう。
つまり彼は普通の人間ではない、ということだ。普通の人間とは違う話し方をして、普通の人間には聞こえない音を聞いているのだから、それは事実なのかもしれないけれど。
彼の生い立ちを聞いた後だと、その言葉は故郷と一族を失ってしまった彼がこの世界で一人きりの孤独な存在なのだということを、シエルに実感させるようだった。
けれどそれすら感傷ではなく、ただの事実として彼は受け入れているらしい。
「全部思い出したけど……あなたみたいな人に会ったのはたぶん、もう思い出せないくらい、ずっと昔のことだったの」
シエルはそう呟いたが、自分が彼にどのような反応を、どのような返答を求めているのかはわからなかった。
それこそ、ただの感傷のようだった。
おかしな話だ。彼のほうが人間で、わたしのほうが人形であるはずなのに。
彼女のこともそうだ。
黒い鳥から全て聞いたと言いながら、動揺も衝撃もなく、凪いだ湖のように心を保っているのは彼だけだ。
もちろん、実際に対面したわけではないというのは大きいのだろうけれど。
彼はシエルの言葉を受け止めたあと少し考えて、意外なほど穏やかな答えを返してきた。
『それほど遠い過去の光景なら、俺も見てみたい。きみは俺が知る全ての歌どころか、既に失われた歌まで知っている可能性があるということか』
「……驚かないの?」
思わず尋ねるシエルに、ハリトはおそらく微笑した。
『元より不思議に思っていたことだ。真実に驚きはしないよ』
――そのようにしてすべての事実を受け入れながら生きるのは、どれほど難しいことなのだろう。
この人も、彼女も。
シエル自身はきっとこんなふうに物事を考えるようになったのが教会で目覚めたときからなので、難しいと感じるだけなのだろうか。
ふと、ベッドの上にたたんで置いてある今朝の毛布に目が止まった。シエルは一つ思い立ち、小柄な自分にとっては大きくて重いその毛布を少々苦労しながら持ち抱え、彼のそばに運んだ。寒くないようにかけてあげようと思ったのだが、それでようやく彼は少し驚いたような顔をした。
『ありがとう、お嬢さん』
驚きながらもお礼を言ってくれたことで、シエルはほっとした。やっぱりずいぶん身体が冷えているようだ。
しかし、と彼はその厚意を遠慮するように言った。
『気持ちは嬉しいが、俺よりもきみのほうが暖かくしているべきだ。少女なのだから』
「平気だよ。寒くても、風邪をひいたりはしないし」
『きみがよくてもこちらがよくない』
そう言って嘆息したハリトに腕を引かれ、横に座るよう促される。
促されるままにシエルがすとんと腰を下ろすと、彼は自分よりもシエルのほうが暖かく包まれるように毛布を分けてくれようとした。シエルの気遣いを無下にはしないが、自分のことなどはいいから、と言うように。
それはきっと――彼に妹がいた頃の日々と、同じように。
おそらく彼自身がそのように意識しているつもりはなくても、見た目の年頃のせいか、シエルに対しては自然とそのような振る舞いになってしまうのかもしれない。確かに兄であればそうして妹を守ってあげるべきなのだろう。しかしシエルは彼の妹ではないし、寒いと風邪を引いてしまうのは彼のほうだ。
「それなら……」
シエルは今までフードの影でよく見えなかった彼の顔を窺うように覗き見てから、おそるおそる身体を寄せた。
たとえ造り物でも、この身体に人と同じ体温が備わっていてよかったと思う。
そもそも譲り合う必要はない。毛布を分けてもらうのではなく、一緒に入ってしまえばいいのだ。
旅する彼らにとって限りある燃料は貴重なものであるはずで、簡単には調達できないものを気軽に使うわけにはいかない。その寒さをどちらかが我慢するよりも、二人でいるのなら二人で寄り添ったほうが暖かい。
それにいつの時代も、遠く離れた違う国でも、人々は凍える冬の夜を乗り越えるために身を寄せ合って生きてきた。
聖典の書に記されているのがすべて本当のことではないとしても、それが人のあるべき姿であるというのは疑いようのない真実だとシエルは思う。きっとそうあるべきで、そうありたいと思う。
「……こうしたほうがあったかいよ」
バコラを抱える腕の邪魔にならないよう気をつけつつ、彼の右肩に寄りかかるようにくっついてみると、そこは思いのほか居心地がいい。
不思議と緊張はしなかった。むしろ、今日はずっと緊張してばかりだったのが、こうしていると次第に緩んでいく。少し眠くなってしまいそうな気さえするのは、ここは安心できる場所であるという証拠だろう。
『きみは』
と、ハリトは何かを言いかけて黙った。
それから、小さな溜息をついた。
少し呆れているような。仕方ないな、と思っていそうな。いずれにしても、その溜息にはシエルの行動を咎めるような響きはなかった。
先に言いかけていたおそらく自分の言葉を引っ込めて、その代わりに、ハリトは違うことを言った。
『……きみはこの町で過ごした日々のことをどのように思っているのかと、彼が尋ねている』
「え?」
シエルが問い返すと、バコラのてっぺんにいたはずの黒い鳥がパタパタと降りてきた。
思わず手を差し出してしまう。すると鳥はシエルの手の甲に乗り、薄青色の宝石みたいな二つの目で、何かを語りかけるようにじっとこちらを見つめてくる。
実際に何かを言っているのだとしても、やはりシエルの耳には何も聞こえない。
ハリトは誰にも聞こえない鳥の声をシエルの代わりに聞き取って、シエルに向けられたその言葉の内容を伝えてくれた。
『彼女のことも含めて、きみの言葉が聞きたいそうだ。答えてあげるといい』
――この町で過ごした日々についての、わたしの言葉。
彼はどんな思いからそんなことを尋ねているのだろうかと、シエルは黒い鳥の目を見つめ返した。
何度見ても魂を奪われそうになるくらい綺麗な、薄青色の目。
一ヶ月前のあの夜、ごうごうと外の吹雪の音が聞こえる暗がりの中で目蓋を上げて、わたしは一番最初にその目を見た。
白い指先にふれられると、あたたかくて不思議な力が流れこんできて、からっぽの躯を満たしてくれた。
今思えば、わたしは彼が持っていた精霊の力を分けてもらっていたのだろう。そうして目覚め、優しい彼の声を聞いて、その言葉に耳を傾けながら最初の日々を送るうち、いつしか胸の中には初めての感情を芽生えさせていた。
ああそうか、と今になって気がついた。
人形として長い年月を過ごしてきたはずのわたしが、どうしてシエルになることができたのか。
それはきっと、彼に恋をしたからだ。
彼が語ってくれるこの町の物語。聖堂のガラス絵の美しさや、可憐な天使像。それを造った人々の物語。語り継いできた人々の物語。
わたしはその全てに恋をした。
彼が語ってくれる物語の中の人々の優しさやあたたかさに憧れて、わたしも彼らと同じように生きてみたいと思った。
けれどこの世界は決して美しいものばかりではなく、恐ろしいものや醜いもの、奪い奪われること、優しかったはずの人を怪物に変えてしまうおぞましい狂気が存在することを、わたしは知った。
しかしそれらはわたしが生まれるずっとずっと昔から、いつの時代にも存在していたはずのものなのだ。
もちろん彼だって、そのことを知らなかったはずはない。彼はそれらから目を背けて美しいものばかりを見つめてきたわけではない。
どんなにおぞましい狂気の底にも、汚い吹き溜まりの隅にも――決して許されるべきではない罪人の心の中にさえ、彼が最も愛する美しいものが存在することを、彼は知っている。
たとえ取り返しのつかない過ちを犯してしまったとしても、人が誰かを心から想う――その愛だけは決して罪ではないのだ。
けれど犯した罪は罪であり、失われた命は二度と戻ってくることはない。
時計の針も、戻すことはできない。
どんなに深く愛していても、どんなに大切に想っていても。
それだけは、どうしようもないことだ。
「わたしは……誰も何も奪われずに、何も奪わなくて済むように、みんなが幸せで暮らせたらよかったのにって思うよ」
たとえば三年前、本物のヴェルレーヌが病に命を奪われることがなかったら。
死んだ彼女を想うあまり、伯爵が人の道を踏み外してしまったことに、ほかの誰かがもっと早くに気づけていたら。
けれど死んだ彼女だって伯爵だって、こんな結末を望んでいたわけではない。――あの白い男がいなければ、少なくとも三ヶ月前の事件が起きることはなかったかもしれないけれど。
彼が大切なものを奪われることもなく、人々は今頃何も知らずに、祝祭の春を謳歌していたのだろうけれど。
けれどすべては運命の歯車がそのように噛み合わされただけ。「もしも」なんて考えても意味はなく、ただ虚しいだけ。
しかし、それらのすべての罪を背負わされて生まれ、それらのすべての人々の幸福と引き換えの命を与えられた彼女のことは、あまりにも可哀想だとシエルは思う。
彼女は、何も悪くないのに。
なぜ罰を受けるべきではない人がすべての罪を負い、自ら犠牲になることを選ばなければいけないのだろう。
なぜ、人々のために自らを犠牲にできるような人が、幸せになれないのだろう。
それはこの美しいはずの世界の、最も大きな欠陥であるようにも思われた。
「伯爵と彼女のことが知られたら、町の人たちは絶対に許さないと思う」
でも、とシエルは言葉を続けた。
花のように美しくて強い心を持っている彼女のために。
そして遠い昔――人々のために犠牲となり、そんな人々を愛して守り続けてきたという彼にも、その思いを重ねて。
「だからって……彼女が町の人たちのために春を願ってること、自分は生きてちゃいけないって思ってること、何も知られないまま死んでしまうのは可哀想。……誰にも知ってもらえなくても、何か一つくらい報われてほしいって、わたしは思うよ」
わたしの中に怒りや憎しみといった感情が湧いてこないのは、きっと彼と――フィニアンと一緒に過ごしてきたおかげだろう。
すべてを知った今、おそらく彼も同じ気持ちでいるはずだ。
今更誰かの罪を糾弾しても、誰も幸せにはならない。
だからどうか彼女には少しでも幸せな最期と、これ以上誰も不幸にならない結末を。
けれど、そのように祈り、願うことしかできない自分はあまりにも無力だ。
そして今、誰よりもその無力さを感じているだろう黒い鳥は、シエルの手の甲の上で何かを伝えるように大きく翼を羽ばたかせた。
『――今きみが言ったことは、かつてニヴオールの魔女が彼のために言ったのと全く同じ言葉だったそうだ』
そんな彼の言葉を、ハリトは静かに代弁してくれた。
あくまで代弁者として、彼自身の感情を込めることはなく、淡々と。
『その想いのために人は千年生きることもできるし、千年の繁栄を願って死ぬこともできる。気恥ずかしいので面と向かっては言えないが、聞かせてくれてありがとう、と言っている』
シエルは思わず息を止めて目の前の黒い鳥を見た。
鳥の表情に変化はない。しかし薄青色の目には言葉よりも雄弁な想いがこめられて、あの青年と同じ優しい眼差しをシエルに注いでいる。
シエルの頬には、なぜか一筋の涙が流れた。
それが何のために流れた涙なのかは、そのときはまだわからなかった。




