41.罪の伝承
『――親愛なるお兄様へ。
お話に聞いていた通り、セレームはとても美しい町です。
広場の時計塔は王都にあっても不思議ではないくらい大きくて立派です。
それから、聖エルフィーヌ教会のガラス絵は想像よりもずっと素晴らしく、お兄様にもぜひ見せてさしあげたいと思いました。
けれどこの地域の冬はとても寒くて雪深く、街道の行き来にも難儀すると聞いています。早くこちらに来たいと仰っていましたが、どうか暖かい季節を待っていてください。
それまでお体に気をつけて。遠い地でいつもあなたの安寧を願う妹より』
……文箱の中から何度も取り出しては読み返してしまうために、手紙はすっかり古びてしまった。
しかし美しく丁寧に綴られた文字は二十余年の時を遡り、今は亡き妹の声で語りかけてくる。
『――前回のお手紙で、わたくしは大切なことを書き忘れてしまったようです。
伯爵にはよくしていただいていています。ご心配されていたような恐ろしい噂とはまったく違う、とても親切な方ですよ。
お約束の通り、もしも何か困ったことがあればきちんとご相談します。
ですがわたくしはこの結婚を、わたくしの生涯最大の幸福であり、幸運であったと信じています。
だからご心配なさらず、どうかご安心なさってください。
追伸。
ローラン様とお兄様はお年も近いので、きっとお話も合うのではないかと思います。
今年の春には七年に一度の特別な祝祭があるそうです。巡礼にお越しの際は、必ず当家に遊びにいらしてくださいね』
やり取りした手紙はすべて保管してある。どんなに他愛ない内容であっても、大切な妹からの手紙を捨てることなどできようか。
もはや形見となってしまった懐かしい筆蹟を見つめ、ほんの一時、二十余年前の若き日に帰っていた聖エルフィーヌ教会の神父は、コンコンと扉を叩く音に顔を上げた。
このように、居室に下がった後で自分を訪ねてくる人間は日頃二人しかいない。そのうち一人は、もうここにはいない。
「体調はいかがですか、シスター・ソフィア」
微笑みを浮かべて迎えようとしたが、彼女はたった一晩のうちに十年も歳を取ってしまったような顔つきになっており、その悽愴な様に思わず息を飲む。
「……神にお仕えする身としてあるまじき振る舞いをいたしましたこと、申し訳ありません」
彼女の喉の奥にある声の泉は昨日の出来事によってすっかり枯れてしまったようだ。その言葉は表情と唇の動きを合わせ、かろうじて聞き取ることができた。
神父は首を横に振った。
「気に病むことはありません。あなたに混乱を与えてしまったのは私です。私のほうこそ、あなたに謝罪せねばなりません」
「いえ。……いいえ、決してそのようなことは」
「それで、何かあったのですか?」
つとめて穏やかに問いかけると、落ち窪んだ灰色の目にいっそう暗い翳りが差した。
年老いたシスターは疲れ切ったように言った。
「商会の方々と、町の者たちが神父様にお会いしたいと。……いかがしましょう」
「この雪に対する彼らの不安はもっともです。彼らを受け入れ、彼らの訴えに耳を傾けるのは当然の義務ですよ。教会の門を閉ざしてはいけません」
神父は机に両手をつき、苦労して椅子から立ち上がる。
やけに身体が重いのは不自由な脚のせいではない。病み衰えたような姿で扉のそばに佇む彼女は、普段であれば机に立てかけられた杖を取って差し出そうとするところ、暗く思い詰めた目でこちらを見つめている。
その眼差しに込められた疑問を、不信を、そしてその心が今だ恐怖の檻に囚われたままであることを感じ取り、神父は溜息を吐いた。
「あの子のことであなただけの罪を問うことはできません」
口にしたのは慰めではなく、労いの言葉だった。
窓の外の雪はまだ降り続いている。止む気配はなく、もう永遠に止むことはないのではないかとさえ思わせる。
大司教に書き送った手紙は届くのだろうか。おそらくこの身は聖職を剥奪されることになるだろう。むしろ、たったそれだけで済むのならば良い。
あの美しい星色の瞳を思い出し、エリオットは瞑目した。
「……心のどこかで、私も同じ恐れを抱いていたのかもしれませんから」
祝祭の春を待つ酷寒の冬に現れた少女。
あれはこの町の罪を見定めるため天より遣わされた神の使いだったのではないだろうかと、今になって思う。
「神父様」
室内の空気が一段と冷え、シスターが慄く気配が伝わってきた。
神父は彼女に微笑を向けて居室を出た後、密かに吐息を震わせた。
罪咎を負うべきは彼女ではなくこの自分である。
あの日、初めてあの少女の姿を目にしたとき――不吉な予感と恐怖を覚えてしまった、その瞬間から。
自分はかつてのこの町の人々と、同じ罪を犯していたのだ。
豊かな実りが得られなくなること。
人々が飢え、病が蔓延ること。
そうした絶望の中、人は我が身に起こるすべての不幸に己以外の原因を求めようとする。なぜ罪なき我が身がこのような目に遭わねばならないのかと、他人の罪を糾弾する。そして謂れなき罪を被るのは常に最も弱き者であり、積み上げられた犠牲の山は人々の過ちと共に美しい伝説で覆い隠され、やがて忘れ去られてゆく。
人とは斯くも罪深く、残酷なものなのだ。
十年前、聖典の書に記されていない真実を語ってくれたあの青年は、この身の信仰を試すために現れたようなものだった。
神は人々が犯した罪を赦してなどいないことを、エリオットは知った。
しかし彼はそんな神の意志に背いてでも人々を愛し、この土地を愛し、その献身によってこの町は永劫の雪に閉ざされる罰を免れていたのだということを――その真実を、この町の人々は誰も知らない。聖典の書の物語に真実を記すことを、彼自身が望まなかったために。
それが人々に対する、無私の愛であったために。
ゆえにこそ、この町は赦されていた。
たとえ真実を知らずとも、人々はその愛と信頼に報いる努力をしなければならなかった。
もう二度と、災いの元凶を己以外の何かに求め、その犠牲を忘れて生きる罪を繰り返すことはないのだと、証明しなければならなかったのだ。
あのときほんの一瞬でも、少女の存在にこの災厄の責を負わせようとしたことを、その瞳に根源的な恐怖を感じてしまったことを、悔いても悔やみきれない。
それでも彼はその罪を赦し、この救いがたき者たちに救いの手を差し伸べようとするのだろう。
きっと最後には、我が身を犠牲にしてまでも。
「――エリオット」
と、呼びかけられた気がしてハッとした。
それは彼の声のようであり、懐かしい義弟の声のようでもあった。
振り返った瞬間、もはや手を伸ばしても届かない、在りし日の記憶がよみがえる。
『君は天使様の奇跡というものを本心から信じているのか』
『もちろんです。……あなたは信じていないのですか?』
『いいや。僕は誰よりも信じている』
記憶の中にある義弟はあのように酷薄な顔ではなく、思索に耽る哲学者のような顔をしていた。
互いにまだ若かった頃。生真面目で、どちらかといえば気難しい性格の彼がまるで子供のように真っ直ぐな言葉を発したあのとき、ずいぶん意外に思ったものだ。
決して冗談めかして言うのではなく、いつもそうであるように、彼は真剣な口調で話した。
『子供の頃、冬死病に罹った僕のもとに天使様が現れてくださったんだ。元々二十まで生きられないと言われていた僕がこの歳まで生きることができたのは、あのときこの身に起きた奇跡のおかげにほかならない』
『ヴェルレーヌには、その話を?』
『既に話した。彼女も天使様を見てみたいそうだ』
彼は笑った。その無邪気さを心から慈しむように。
しかしこの町の冬を目の当たりにしたことで聖典の書に疑いの心を抱きかけていた自分は、そのとき思わず呟いた。
「……時々考えてしまうのです」
この土地が春の天使様の祝福を受けた聖地であるなら、なぜ冬はこんなにも厳しく、冬死病は人々の命を奪うのだろうかと。
それは答えを与えられることのない疑問だった。
餓えも病も存在しない。そのような場所は天上の楽園のみであり、すべての不幸は神が人々に与える試練なのである。聖典の書はそのように人々を教え、迷える人々を正しき道に導くためにある。
しかし慈愛に満ちた春の天使の物語を思えば、この町の冬はあまりに過酷すぎるように思えてならなかった。
「冬の厳しさがなければ、人々は春の暖かさを忘れてしまうだろう」
長く考えた末に、義弟は天啓を得たように言った。
曇りなき信仰の眼差しというものを、エリオットはそのとき初めて目にした。
「当たり前のことに感謝する気持ちを人はすぐに忘れてしまう。それを忘れるべからずと教えられているのだ。永遠の春を願うことは人の堕落であり、厳しい冬を乗り越えるためにこそ、人は助け合うことができる」
まだ若く、家督を継いだばかりの彼はそう言った。
彼もまた疑問を抱いていたのだ。暖かな春でさえ、夜の寒さに震えなければいけない人々がいることに。
その答えを見つけ、一つの決意を表すようにそう言った後、彼は自分に出来ることを考え始めた。その頃、既に形骸化しつつあった信仰を守るために。一人でも多くの人が――まだ天使様の教えさえ知らない子供たちが無事に冬を越え、春を迎えることができるように。
そのときの彼の顔を。そして彼が最愛の妻に向けていたあの優しい目を、エリオットは思い出すことができる。
(ヴェルレーヌ)
彼と自分を残して神の身許へ逝った妹に、心の内で語りかける。
あれは彼ではない。あのようなものがお前の愛した彼であるはずがない。
この不幸は決してお前の死によって始まったものではなく、あの少女がもたらしたものでもない。
たった一人の、誰かの罪などではない。
犯した罪から目を背け続けていたこの町の本当の姿が、悪魔によって暴かれてしまっただけなのだ。
『もうこの姿できみのそばにはいてあげられないかもしれない。でも、きっと何とかするよ。僕の心配はしなくていいから、きみは子供たちが怖い思いをしないように守ってあげて』
彼が最後に伝えてくれた言葉を思い出し、神父は祈った。
教会に怒りを向ける人々、あるいは救いを求める人々の声が聞こえる。
信仰を守れば救われると信じて疑わない人々を、彼は今でも心から愛し、守ろうとしてくれていることを知っている。
ならばせめて自分は、その信頼に応えなければいけない。
自らの命と死の安息を奪った町のために祈り続ける、遠い昔の犠牲の魂。
この世で最も純真な心を持ったあの優しき天使様の献身が、どうか報われ、今度こそ救いを得られるように。




