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星のアンブロシア  作者: 榑井タキ
第十一章 美しき花
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40.悪魔の取引

 静まり返っていたエヴァンゼール邸は、にわかに騒々しくなった。

 あの伯爵の部屋から、フィンドールは全ての本や書類を運び出すという。ヴェロニカにはそれを手伝う気がなく、シエルは手伝わなくていいと言われた。でも、あまり時間をかけていたら伯爵に気づかれてしまうのではないかという心配をシエルが口にすると、フィンドールはこう言った。


「言い忘れていましたが、伯爵は既にこの世を去っているはずですヨ」

「……え?」

「何時、どのタイミングで亡くなったのかは知りませんがネ」


 そう言いながらヴェロニカのほうに視線を向けても、彼女は何も答えなかった。

 あえて言葉にする必要もなく、もうわかっているんだろう、と取り澄ました顔だった。

 フィンドールに言わせると、伯爵にとって何より大切な存在であるはずの彼女がこうしてシエルたちの前に現れ、惜しげもなく秘密を明かし、自由に振る舞っている時点で、それは自明のことだったらしい。


「例えば私(ワタシ)が貴女(アナタ)やガルガンチュアの内部構造を他人の目に晒すときがくるとすれば、それは私(ワタシ)が不慮の死を遂げたときです」

「?」

「それは本来、死んでも守るべき秘密であるということです。それを第三者の手で暴かれるような場所にそのまま遺しているというのは、禁忌の領域に足を踏み入れた彼が完全な狂気に陥っていたことの証か……あるいは、彼に残された最後の良心だったのかもしれませんネ」


 シエルにはわからないことを、フィンドールはそのように結論づけて、黒い鳥の姿に戻ったフィニアンに一つ頼み事をした。


「フィニアンさん、ちょっとガルガンチュアまで一飛びしてハリト君を呼んできてもらえますか? 行けば意図は伝わりますので」


 そう言われて了承したらしいフィニアンが窓の外に飛び立つと、彼はシエルに笑顔を向けて言いつけた。


「というわけでハリト君が迎えに来てくれますから、くれぐれもいい子で待っているんですヨ」


 それから、しばらく。

 大掃除でも始まったような物音が一階の廊下の奥から響く中、シエルはソファに座ったまま彼女と向かい合っていた。


「その服はどうしたの?」


 と、不意に問いかけられる。

 鈴を振るような声音にどきりとして、シエルは少々緊張しながら答えた。 


「フィンドールさんが着せてくれたの」

「そう。きみによく似合っているし、暖かそうでいい。今度はちゃんと大切にされているようだ」


 気さくな笑い方だった。

 まるで久々に会う仲良しの姉妹みたいに、彼女は対面から親しみをこめて話しかけてくる。


「ここから逃げたあとは教会にいたんだってね」

「うん。フィニアンが助けてくれたから」

「それはどんな人?」

「えっと……さっきの人、だよ。教会で一緒に暮らしてて……でも、ずっと知らなかったんだけど、本当は黒い鳥だったみたい、で……」


 どこから説明すればいいのか、どこまで話していいものなのか、シエルは迷いながら言葉を選ぶ。

 そんなシエルを見て、彼女は心なしか嬉しそうに微笑んでいた。

 シエルはそのことに気づき、不思議に思って首を傾げた。


「……なに?」

「別になんでもないよ。こうして話すのは初めてだし、きみの話し方は可愛らしいなと思っているだけ」


 今度は間違いなく嬉しそうに、彼女はそう言って笑みを深める。

 その眼差しは愛しい妹を見つめる姉のようであり、大切な娘を見つめる母親のようでもあった。


「屋敷の外で、きれいなものは見れた?」

「?」

「ふふ、覚えていないか。きみが言ったんだよ。きれいなものを見ると嬉しいって。……きみは自分のことを全然喋らなかったから、ぼくがそう訊ねたときに頷いて肯定しただけだったけど」

「あ……」


 言われてみると、記憶のどこかに何となくそんな覚えがあるような気がした。

 彼女のことをきれいだと思った。

 着ているドレスや持ち物、連れて行って見せてくれた彼女の部屋も、あの懐中時計も、とてもきれいだったのだ。

 きっとそのたびにシエルの目が輝いていたから、きれいなものを見て喜んでいるように見えたのだろう。

 彼女の穏やかな表情につりこまれるように、シエルは気づくと自然に頬をほころばせていた。


「教会の……ガラス絵の天使様は、すごくきれいだったよ」

「エルフィリア・ブルーか。見たことはないけれど、さぞかし美しいのだろうね」

「教会から見えるレターニア山も、セレームの町並みも、きれいだった。あと……」

「まだあるの?」

「うん。バコラっていう楽器を、すごく上手に弾ける人がいるの。その音が、とってもきれいで」


 楽しいおしゃべりに興じかけていたシエルはふと、そこから先の言葉を失った。

 わたしはこれまでたくさんのものを見せてもらえたし、聞かせてもらえた。

 ――だから、あなたにも。

 あなたにも見せてあげたい。

 聞かせてあげたい。

 心の奥から、そんな思いが込み上げてきたからだった。

 けれど……それはおそらく、口にしてはいけない。話しながら、何だか彼女に対してひどく残酷なことを言っているような気がしてきて、シエルは押し潰されるように下を向いた。


「どうしたの、シエル」


 彼女はきっとそんなシエルの表情だけではなく心の中まで見通しつつ、むしろ気遣うように尋ねてくる。

 わかっている。

 さっき彼女が自分で言っていたように、彼女がこのまま生き続けることは決して許されることではない。そして彼女自身も、それを望んでいない。だから彼女は今、すべての罪を受け入れて、フィンドールによって一日引き延ばされた最期のひとときを過ごしているだけなのだ。

 この屋敷から出たこともないという彼女が語ったその罪は、彼女が犯したわけではないのに。

 ただ、そのように生み出されてしまっただけなのに。


「……ローランは、本当に死んでしまったの?」


 シエルは納得いかない気持ちで問いかけた。楽しみに水を差されたように、彼女の表情は少し曇った。

 けれど、はぐらかさずに答えてくれる。


「ああ。昨(・)日(・)死(・)ん(・)だ(・)。けれど、もうずっと前から死んでいるようなものだった」


 黒いヴェールの下で、彼女の唇には憐れみが、目には憂いの色が浮かんだ。

 昨日。

 驚くシエルを前に、彼女は深い溜息を吐くように続けた。


「そもそもきみがこの屋敷にきたとき既に、ほとんど衰弱死の寸前だったからね。あれで生きていられたのが不思議なくらいだった。ほとんど自力で動くこともできなくなっていたから」

「で、でも……」


 シエルは困惑した。確かに、記憶にある伯爵の姿はひどく憔悴(しょうすい)しきっていて、今にも死んでしまいそうに見えた。


 けれど、話に違和感がある。半年前の出会いから、三か月前の事件。それから少なくとも一か月前までは彼女のための研究に没頭していたことをシエルは知っているし、彼はシエルには目もくれないほど狂人的に、精(・)力(・)的(・)に(・)活(・)動(・)し(・)て(・)い(・)た(・)。


 そう――とても、死にそうな人には見えなくなっていた。


 なんだか嫌な予感がして、ざわざわと胸が騒ぐ。まだ何か、忘れている。思い出そうとしている。


「……それじゃあ、教会にきたのは?」

「あ(・)の(・)魔(・)術(・)師(・)が(・)ロ(・)ー(・)ラ(・)ン(・)の(・)身(・)体(・)を(・)使(・)っ(・)て(・)い(・)た(・)だ(・)け(・)だよ。きみがここにきてから昨日までずっと、あの煙みたいな男がローランに取り憑いていた」


 その瞬間、すっと背後に立った姿なきものがシエルの背中に氷の指を差しこんで、胸の真ん中で脈打つ心臓を凍らせた。

 名前も知らない白い男。どこかからわたしを連れ出した、あの新しい主人。

 彼は伯爵に協力を持ちかけていた。

 望めば何でも一つだけ、願いを叶えると。

 対価は不要だった。

 なぜなら――その願いの成就は、きっと死と引き換えになるからだ。

 むしろその死を少しだけ引き延ばし、願いを叶えさせてやることが目的だったとすれば、それはまぎれもなく〝協力〟だった。

 王都の魔術師なんかじゃない。

 伯爵は、悪魔に魂を売ったのだ。


「……だから、昨日死んだんだ。自分の手でヴェルレーヌを蘇らせるという、ローランの願いは叶ったからね」


 遠くで時計塔の鐘が鳴り響く。

 気づくと、指先がすっかり冷え切っていた。まるで身体が石になってしまったかのように、すべてを思い出し、真実を知ったシエルは、瞬き一つできなくなっていた。

 彼女は無言だ。沈黙はそんなシエルに対する彼女の思いやりなのか、それともただ憂鬱がその唇を重くしてしまったのか。

 癖なのか、くるくると髪の毛先を弄びながら明後日の方向に顔を向けていた彼女は、ふと何かに気づいたように言った。


「きみのお迎えがきたようだ」

「え?」


 シエルは顔を上げる。彼女はすっと立ち上がって微笑んだ。


「では、ぼくは部屋に戻るとするよ。まさかきみと話すことができるなんて思わなかった。楽しかったよ、シエル」


 麝香の匂いがして、黒いドレスの裳裾がふわりと揺れる。

 彼女は涼やかな笑みを残し、惜しむ様子もなく応接間を出て行ってしまった。ぽつん、と残されたシエルは、咄嗟に彼女を追いかけることもできず、彼女が開けたまま去っていった扉の方向をいつまでも見つめていた。

 やがてその残り香も薄れ、一人置き去りにされた寂しさに、思わず胸元の懐中時計を握りしめたとき。


『お嬢さん』


 と、呼びかけられてハッとした。

 シエルは廊下から誰かの足音が近づいてきていたことに気づいておらず、顔を上げると、部屋の入口に彼がいた。

 なんだかずいぶん久しぶりにその姿を見た気がして、シエルは心の底からほっとした。


「ハリト」


 名前を呼んだ瞬間、大きな安堵感で胸を洗われるような気がした。

 どうやらシエルを迎えにきてくれたらしい彼はあの鍔広帽子の代わりにフードのついた防寒用の外套を着て、おそらくバコラがしまわれているのだろう大きなケースを背負っている。

 彼を呼びに行ってくれた黒い鳥は、そのケースのてっぺんに止まっていた。

 ハリトは室内の様子を確認するように見回したあと、シエルのすぐそばまで歩み寄ってきて言った。


『きみを連れて帰るようにとのことだ。この屋敷の中できみを待たせるわけにも雪の中を一人で帰らせるわけにもいかないが、自分は調べ物をする時間が惜しいから迎えに来いと』

「フィンドールさんが?」

『今、そう言われた。そして、いつまでもガルガンチュアを空けるわけにはいかないから速やかに戻れと言われている』


 いつもよりやや多弁に伝えてくるその声には、やれやれというような、彼の座長に対する愚痴めいた響きが若干含まれていた。

 留守番をしていたのに迎えに来いと言われたり、早く帰れと言われたり――彼が振り回されているのは主に自分のせいだと気づいて、シエルは少し動揺した。

 ごめんなさい、と思わず謝りそうになったシエルの頭の中を読んだように、ハリトは目元をゆるめて首を振った。


『何か当初の予定とは異なることがあったんだろう。ひとまずきみが無事でいてよかった』


 優しく、聡明そうな少年の声が頭の中に響く。

 自分の無事を知って安心してくれているらしい彼の顔を見上げたシエルは不意に、そのエメラルドグリーンの目に吸いこまれるような感覚に陥った。

 たくさんのことを思い出した今なら、もしかしたら。

 遠い記憶の彼方で出会ったはずの人の面影を、はっきりと思い出すことができるのではないかと思ったのだ。

 過去のシエルの前であの楽器を弾いていた誰かはこの人に似ていたのかも知れないし、似てはいなかったのかもしれない。

 けれどやっぱり、思い出すことはできそうになかった。

 シエルがあまりに見つめるせいで、ハリトは怪訝そうにした。

 どうかしたのか、とその目が尋ねている。


「……あのね」


 ちゃり、と懐中時計の鎖が鳴った。

 シエルはハリトの目を見つめたまま空唾(からつば)を飲み、懐中時計をぎゅっと握りしめて言った。 


「たぶん、全部思い出したの」


 わたしは本当にお人形だったこと。

 からっぽに造られた頭の中には、知らない風景と知らない音ばかりを詰め込んでいたこと。

 わたしをこの屋敷に連れてきた主人のこと。

 そんなわたしに優しく接してくれた、美しい彼女のこと。


 ――帰る前に、この人にも伝えなければいけない気がした。


 長い沈黙の間も、部屋に置かれた時計の秒針は規則的に時を刻み続けている。

 ハリトはそんなシエルの顔をじっと見つめ、秒針の音を十ばかり数えてから、端的に言った。


『それでもきみがどこか変わったようには見えない』

「……うん。もともと、何もなかったみたい、だから」


 胸に開いた大きな穴を寒風が吹き抜けていくような感覚を、シエルはぽつりと吐露した。

 ここにいたときまで、わたしはただの人形。

 記憶はただの記録であり、そもそも〝感情〟と呼べるものは何も持っていなかったに等しい。

 その証拠に、伯爵の恐ろしい研究にも、自分に話しかけてくれる彼女の存在にも、ほとんど関心を持っていなかった。そうでなければ、もっと早くに思い出すことができただろう。そもそも、わたしが彼女のことを忘れたりなんかしなければ。

 そうしたら、何かが変わっていたかもしれないのに。

 堪えていた思いが溢れ、じわりと視界がにじんで揺れたとき、ハリトの手が少しためらいがちにシエルの頭を撫でた。

 思わず息を詰めるシエルに、彼は言った。


『……最初は何も知らず、何も持っていないことは皆同じだ。そして最初の一つは皆、与えられなければ得ることはできない。何もなかったと思うのは、きみが外の世界でたくさんのものを得てきたからだ』


 まるで静かな湖面に落ちる水滴のように、その言葉はシエルの心にいくつかの波紋を広げるように響いた。

 言葉は淡々としていたが、シエルに注がれるその眼差しは、教会に迎えにきてくれたあのときと同じだった。


『たくさんのものを得たきみはもうただの人形ではない。そのときは変えられなかった運命も、変えることができるかもしれない。少なくとも本来、滅びた町で一人生き続ける運命にあったはずの彼女はそう思っているだろう』

「……聞いてた、の?」


 シエルはまずそのことに驚いてしまった。雪が降っているから聞こえないと言っていたのではなかったか。

 ハリトはそのことについては特に否定もせず微笑して、シエルの目のふちに溢れかけていた涙をそっと拭ってくれた。


『まずは帰ろう。このまま朝までここにいては、きみが凍えてしまうから』

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